今回ご紹介する石碑は記念碑です。一応、タイトルは出来る限り碑銘に準じるのですが、ストレートに「記念碑」とだけ書かれている碑は意外と多く、「〇〇〇記念碑」と“なんの““なにを”記念しているかまで書かれているのは、最近のものしかありません(もう少し時間を遡ると、完成記念、改築記念と、“なにを”だけは判るスタイルとなるので、ゆっくりと進化はしている模様)。
そんな「記念碑」。今回は西地盛は地盛嶺の地に建つ、ズムインミ御獄。別名「地盛嶺護国神社」の祭祀小屋新築を記念した碑です。
【訪れる時間帯とか季節のいたずらなのか、ここはかなりの確率でレンズフレアが出現とします。今回の新撮でも豪勢にでてしまいました】
こちらの碑が建立されているのは、西地盛の集落の北東にある小高い丘の上。Googleのマップなどでは「地盛嶺護国神社」としてポイントされています。御獄が神社化されていることはよくありますが、護国神社となっている例は他に聞いたことがなく、地盛くらいしかないかもしれません。
尚、御嶽の名はズムインミ御獄ですが、これは地盛≒ズムイ 嶺≒ンミと宮古読みをしているにすぎません。島ことばといっても、元来はこのように漢字で書けるものを音で表記しているだけなので、漢字で書いてもらえば難解な「みゃーく」の島ことばも怖くないのですが、元になる言葉が判らず(知らずに)、新たに漢字をあてていたり、読み替えをしたりするので、それこそ謎解きパズルになっていますので、語源を探るのが困難になります(ズムインミも厳密にはタ行始まりなので、ヅムインミと書くべきしょうが、下地が旧仮名づかいのシモヂでない昨今、とりあえずはありということで)。
ズムインミ御獄(神社)は、地盛集落から鏡原集落方面へ向かう道すがらにあり、隣には地盛農村集会場(集落公民館)があります。道に面して建っている鳥居を潜り、木立の中を緩く登る参道を登りきった右手に、この碑が建っています
碑は祭祀小屋を新築した際に建立されたもので、記念碑の表に「1970年12月13日新築」と記されています。
表には他に、設立期成会会長、同副会長、区長そして施工者の名が刻まれています。尚、裏面は発起人4名と役員4名の名前が明記されていますが、期成会会長は区長でも発起人でもないので、土地の名士とかの名誉職なのでしょうか?。
コンクリート製の祭祀小屋は参道の右手奥にあります。内部は清掃が行き届いており、集落で大切にされていることがよく判ります(室内には竹箒一本しかなかったけど)。よく見ると庇の下には電気設備の痕跡があり、以前は通電されていたようです。
そして小屋を抜けた先に広場があり、祠とイビが鎮座しています。ここはちょうど小高い丘、地盛嶺のもっとも高い場所にあたるようです。
祠の中には香炉はあるものの、イビらしいきものが見当たりません。そのかわり祠の柱(脇)に、祭神の名が記されています。
「ビキタラ(髭垂れ世の主?)」と、「ユータラ(農業と豊穣の神)」。ここまではなんとか読み取れて、平良市史御嶽編でも裏取りをすることが出来たですが、このふたつの神様の名前の下に。なにかもうひとつ書かれているのですが、文字が摩耗しているので読みきれません。「カヨオンマス」?読めそうな文字列を拾ってみても、意味にならないのでよく判りません。
この他にも祠の左右に、遥拝されていると思われる、脇神の名前が記された石(コンクリ)が右に2つ、左に3つ並んでいます。しかし、こちらもかなりの難読。
一番右の石から。欠けた文字列を推定してすると読み解くことが出来ました。こちらにはれ水に関する神様、「ミズヌヌス(水の主)」と「リュウグウ(りゅうぐう)」がまとめて書かれていました。
右からふたつめの石。こちらもふたつ神様の名前が記されています。「ミルクガミ(弥勒神)」は辛うじて判読できましたが、もうひとつは「ウママベヨースマツ」?なんだかよく判りません。けれど、記事にするので改めて書いていたら、午(南の意)の方の神の意味ではないかとはたと気づきました。最初の四文字は「ウママベ」ではなく「ウ(ン)マヌパ」。確かに「マ」と「ヌ」、「べ」と「パ」なら誤読しそうだ。でも、やっぱりその後に続く言葉はさっぱり判りません。
続いて、祠を挟んですぐ左側にある石には、「ティンヌマツ(天の神)」「ナーリマツ(天界と橋渡しをする神)」とあります。こちらは平良市史の御嶽編によると脇神と記載されているので、当たっていると思われます。
左のふたつめ。こちらの神様ははっきりと読むことが出来ました。「ヤマトガミ(大和神)」でした。
一番左側の石。これがもっとも難読で、辛うじて頭の「ニヌパ」だけはなんとか解読出来た気がします。「ニヌパ」は「子の方」の意味なので、北の方の神ということになります(前述のウマヌパと対をなしている)。
嗚呼、もっともっと語彙力をつけないと。こうした難読欠損文字を補完して読み解くのは楽しいけど、とっても難しいです。
さて、最後になりますが、御獄の神社化に伴って「地盛嶺護国神社」となった理由を自分なりに考えて出してみました。
この地盛集落は、現在でも宮古空港のそばにあることはご存知のことと思います。宮古空港は戦時中に、海軍飛行場として建設され、島内でも野原の陸軍中飛行場と並ぶ軍事拠点となっていました。そんな飛行場のそばにある微高地の地盛嶺は、おそらくは飛行場守備の拠点のひとつとして利用されていたと考えられます。
資料にも場所こそ定かではありませんが、地盛には探照灯があったとされていますし、連合軍の作成した地図には、地盛界隈に「DP」というマーキングを付けています。これは恐らく「デポ(depot)」。つまり、兵站があると連合軍は考えていのだと推察されます。
そうしたことから、この地盛嶺の界隈は、きっと多くの犠牲が出たのかもしれません。そうしたことから、地盛嶺には「護国」の文字が付記されているのかもしれません。
【地盛の石碑】
第154回
「地モリ井戸新設由来」