先週の
比屋地御獄案内碑の回で登場した、鱶(サメ)退治の為政者(親方職)である豊見氏の石碑へと繋げてみました。もっとも連綿とというにはお粗末で、ご託を並べてズルズルと引っ張って来た感ではありますが、まあ、漲水界隈三部作から始まった石碑探報繋がりシリーズ。もう少しだけお付き合いください。
というわけで、今回ご紹介する石碑は「豊見氏親墓碑」です。
先に申し上げておきますと、こちらの石碑はお墓ではありません。ただの墓碑にすぎません。けれど、まあ、御多分に漏れず信仰の対象として御獄~拝所となっています(碑のお隣にある)。
いや、ちょっと待って!。先週、比屋地御獄を紹介した時。赤良伴金とともに、豊見氏親方も祭神として祀られているって話を書いばかりなのですけど。さすがにこの距離で遥拝ってのは、いくら面倒くさがり屋な島人だとしても、ちょっと考えにくい気もします。じゃあ、この拝所には何が祀られて、何を拝んでいるの訳になります。と、啖呵を切ってはみたものの、こちらの拝所についての資料がなく、詳細についても不明ですが、恐らく豊見氏の末裔の一族が祖先を拝んでいるものと考えられます。端的に云うと、骨のないお墓として。最初に墓じゃないと書いておきながら、あっさりと手のひら返しをしてしまいました。それというのも、この拝所。清掃が行き届いており、供物も絶えることがく、訪れている頻度が高いことが判ります。そしてなによりも隣にある石碑がそれを物語っています。
謎を解き、理解を深めるために、碑に記されている「豊見氏親墓碑由来」を紹介しておきましょう。
昔(1450年頃)、伊良部と平良の渡海に大鱶が出現し、舟を覆えしては人命を害し、平良との往来も途絶え島民は困っていました。
その時、伊良部の主長であった豊見氏親は一身を捨てて島民を苦しみから救おうと決心。先祖伝来の刀を抜き、小舟に乗り沖へと漕ぎ出した。しばらくすると大鱶が現れ氏親を舟ごと呑み込んだ。氏親は腹の中にあって刀で腹中をさんざんにに割き破り、ついに大鱶を退治した。氏親は大鱶の腹を割って出ると、この下の比屋地の浜で気力も尽き息絶えてしまった。島民は氏親をこの地に手厚く葬り、同時に比屋地御獄に航海の神として奉りました。
伊良部島民を安心させたということで、のちに王府より伊安氏を賜り、子孫代々受け継がれています。大鱶を退治した刀は今も氏親の末裔である下地家に保管され町指定文化財となっています。
「伊安氏系図家譜正統」より
平成13年12月吉日
伊安氏一族同門
代表者下地方詮
伝承から大胆に察すると、碑にも記されている通り、大鱶と激闘を演じた氏親は、平良との間に広がる海を望む「この地」に葬られたと考えられます。比屋地御嶽の祭神として祀られはしたけれど、墓そのものは比屋地の御獄ではなく、この碑の後方、つまり牧山の展望台付近までの間にある、藪の中に実は存在していると妄想していました。
なぜかって、よくよく見てみると碑のすぐ後ろにマーニが伸びていることからの想像です。このマーニ(クロツグ)は古墓の目印として植えられていることが多い植物なので、マーニの植生があるところに古墓があり(あった)と読み取れるからなのです。
ネットでこの碑について調べていたら、想像が真実だったことを裏付ける、なかなか興味深い記事を発見しました。
2001年に碑が建立された時の記事で、代表者にして伊安氏直系18代目の下地方詮氏がこのように語っていました。「墓が雑木林の中の分かりにくい場所にあり、一族の墓参りに支障をきたしていることから、墓の代わりの分かりやすい参拝所にしようと建立した」と。ただの直観が、当っていたことにちょっと鼻が伸びました。
豊見氏親の墓碑建立/伊良部町牧山公園(2001年12月26日 宮古毎日新聞)
※画像データが欠損
では、墓はどこにあるのでしょうか。ちょっと、いや。かなり気になるところですが、この界隈、トラバーチンの採掘でがっつりと佐良浜断層涯が削り取られているのです(空中写真を見ると不自然に直線がある)。もしかするとこのあたりも関係しているのかもしれませんが、個人的にひとつ、墓っぽいよなぁ~という場所が、ここから牧山の展望台へ向かう遊歩道の途中にあるのです。
それはガジュマルの老木が絡みついた、崩れかけた大岩の塊りです。雰囲気だけはかなりあります。そして伊安氏の墓所とも噂される(字)伊良部のスサビミャーカは、いわゆる巨石墓の系譜を持つ文化(久松を中心に来間や下地、伊良部など宮古の西部域に多い墓の作り)が息づいています。その大岩が巨石墓(ミャーカ)だとは云わないけれど、もしかして、そんな浪漫があったらちょっと楽しいなっと。けれど、参詣が難しいと直系の子孫が語っているので、もっともっと藪深い森の中に本当の墓はあるのだと思います。
最後に、おそらく誰もが気になっているであろう「豊見氏親」の読み方について、まとめておきたいと思います。
通常、紹介記事などでも「豊見氏親」と書いて、「うずぬしゅう」と読まれているのですが、よくよく考えてみると、かなりおかしいことに気づきます。
まず、読みの最後の部分。「しゅう」ですが、これは「主」、「あるじ」の意味です。さすがに「親」と書いて、「しゅう」と読むには難がありますが、この「親」も上位の人物を表す敬称なので、完全な間違いとは云えないかと思われます。ましてやこの豊見氏親は、「親方」職をつとめていたとされているので、もしかするとそのあたりが混ざってしまったのかもしれません。
次に「うず」ですが、こちらは一族一門一家を表す「氏(うじ)」が転訛した読みとなります。つまり、「うずぬしゅう」とは、「氏の主(親)」ということが判ります。
つまり、「豊見氏親」と書いて「うずぬしゅう」と読むには、後ろ半分しか表音していないことになり、かなりいい加減な状態であったことが露呈しました。その一方で、碑文に「氏親」と記されていたのは、「うずぬしゅう」として読みは正しく、流石は末裔なのだと感心せざるを得ませんでした。
これによって苗字は「豊見」さんであることが確定しましたが、宮古には「豊見親(とぅゆみゃ)」と呼ぶ首長職があり、字面的にとても判りづらいことになってしまいました(後世的には?)。慶世村恒任の「宮古史伝」によると、「豊(とよ)」「見(む)」「氏(うじ)」「親(おや)」とルビがふられており、一応、そこはかとなく区別はつけられていたようです。
のちに一族は、「一世豊見氏親方」を始祖とした家譜を持ち、「伊」良部島民を「安」心させたという伝承から、「伊安氏」の名を拝命します。読みは「いあん」で、名乗り頭は「方」となっています。
もしかして、字面的に豊見氏と豊見親が混同しやすいからという理由で、改名させられていたりしたら、なかなか面白いのですが、まあ、そんな「小説より奇なり」みたいなことはないでしょうけど・・・。
【参考資料】
宮古島市史資料2
「宮古の系図家譜」(pdf)
【関連石碑】
第118回
「復帰記念事業の碑」