第183回 「船立堂」

atalas

2018年05月01日 12:00



金殿とは鍛冶屋の神。火を使って金属を加工する鍛冶屋は、島の民のために農具を作り、直すモノとして農耕の神と崇められ、さらに解釈は拡大して繁栄の神であると、先週の「迎御嶽大明神」でさらっと解説しましたが、改めて平良市史御嶽編を読み直してみると、この迎御嶽の祭神はカンドゥヌス(金殿の主)のほかに、ティンヌマツとティンヌカマドの夫婦神が祀られているようでした。そういえば近所に凄い有名な金殿がいるじゃないかと思い出し、おあつらえ向きに碑もあるし、これはもう流れに乗って、それを紹介してみるしかありませんね。

ということで。船立堂です。
綾道‐平良北編‐でも紹介されている御嶽なので、知っている方も多いと思われます。場所は西仲宗根の住宅街の中にあります。細かいネタを入れておくと、道を挟んで字が異なる字境に位置していまして、道の“西側”の字は、東仲宗根になります。はい、そうです。西に東仲宗根、東に西仲宗根があるという、方角と字名が逆転している場所なのです。ただ、これは世界標準の図北ベースでのこと。島の“北”は図北から東に45度ほど傾いているため、そんな矛盾は生じないという、民俗方位のマジックが実はあります。

【左】フクギに守られた船立堂入口。この左側が西にある東仲宗根。
【右】船立堂の裏手に広がる公園。住宅街中とは思えないちょっと贅沢な空間。


役に立たない豆知識はともあれ、フクギに囲われた船立堂は、自然を残しつつ都市型の公園に組み込まれ、わずかに残った御嶽林を従えてコンクリート製の祠があります。
船立堂には鳥居こそありませんが、石畳の参道に小型の登楼(左側の登楼は長いこと壊れたままだったのですが、木材で形状の復元してありました)が据えられています。清掃も行き届いており、地域の人たちに敬われていることが見てとれます。
祠の中には謎の文様の石・・・コンクリートが鎮座していました。なんだろうかと注意深く観察してみると、屋根の部分の拝み瓦(切妻屋根の棟の側面に位置する飾り瓦。破風や寄棟などの鬼瓦的な部分)の右側が、ガジュマルに侵蝕されてひとつありません。どうやらそれを拾って、まるでご神体のように祠に納めてありました。

【左】船立堂の正面。右の登楼が赤っぽいのは、木で補修それているため。屋根の右角にも注目!
【右】祠の中の謎の石(コンクリート)。知らずに見たら、なんとなくそれっぽさがあります。


さてさて、肝心の石碑ですが、祠の右手に建立されています。碑の表には中央に大きく「船立堂」と刻まれ、それを挟むように祭祀の「農具神兄カネドノ」「妹シラクニヤスツカサ」の名が左右に記されています。このカネドノとシラクニヤスは兄妹神として祀られています。

この兄妹は久米島按司の子で、兄が娶った妻が邪険放埒な女で、妹のことが邪魔になり、按司に讒言(ざんげん)を吹き込み、それを信じた按司は妹を船に乗せて放逐します。それを知った兄は泳いで妹の乗る船に追いつき、そのままふたりは流されます。
翌朝、船は宮古島の漲水の浜に漂着し、ふたりは船立の地に移り住み、里人の水くみや薪運びなどを手伝って暮らします。やがて妹は、住屋里かねこ世の主と夫婦になり、9人の男子をもうけます。
成人した子供たちは祖父である久米島按司に逢いたいと思い、母を伴って久米島へと渡り按司と対面します。按司はかつての罪を悔いて親子の愛を尽くし、黒金(くろがね)や巻物を贈られ、宮古島へと帰ります。
兄はこの黒金から巻物を基に鍛冶屋を起こし、ヘラや鎌などの農具を作り農業が発達させ、島を豊穣の世にします。
人々はこれは兄妹のお陰だとして、ふたりの死後、船立の地に納め遺骨を納め御嶽を建て、神として崇めました。

大きく端折ってますが、ざっとこんな感じの物語です。鍛冶屋として活躍した兄はカネドノ≒金殿として祀られるのは判りますが、妹はツカサと呼ばれていますが、9人の息子を産んだことしか活躍は記さていません。また、9人の息子たちの消息も判りません。けど、何気に兄弟(妹)と久米島、そして鍛冶屋(カネドノ)のキーワードは、なんとなくセットでエピソードとなっているようです。
いけないいけない。ええと、忘れるとこでした。この兄妹のエピソードは、石碑の裏面に漢字とカタカナでびっしりと書き込まれています。かなり読みづらいので、内容については船立堂の入口に建てられている案内板に「御嶽由来記」(1705)を要約したものがあるので、そちらをチェックして見て下さい。
けれど、もし現地で“読む”のなら、石碑の脇にある御嶽林との境界を作っている壁面でしょう。それは壁としての実用的用途のほかに、「船立堂建築寄付者氏名」を記す情報が刻まれているからです。
建立は1961年の戦後にして復帰前です。もちろん、金額は「弗」(ドル)仕立て。そして個人名に交じって、場所柄なのか「平良市役所職員一同」「平良市會議員」「北小学校幼稚園」など、公共の団体名が見受けられます。
ちなみに一番目は60ドルを寄付している「宮古製糖会社」でした。二番目の高江洌良知は、石碑の寄付者でもあることから、ある意味では一番の功労者と云えます。このほかにも1969年に第9代平良市長となる平良重信を初めとした著名人や、会社や商店の名前があり、当時の社会性も透けて見えて来て面白いです。ちなみに石碑の建立年月日は1961年4月1日なのに対し、壁の寄付者名壁(板)は4月5日と微妙なずれがあります。

最後に戯言をひとつ。冒頭のリードを書いていて、ついつい厨二力が発現して妄想が暴走してしまったのですが・・・。なんかそう、英霊ではないけど、こうした島の御嶽の神をサーバントとして召喚して、聖杯を巡ってバトルするんじゃなくて、神通力(もちろんキャラごとにパラメーター)を駆使して、島を繁栄させて歴史を築いてプロデュースしてゆく系のソーシャルゲームを開発するというのはダメだろうか。タイトルは・・・「F@te/Sim Island m@ster」(混ぜるなキケン)。

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