第172回 「慰霊之塔(上野)」
しばらくぶりの戦争関連の石碑です。今回ご紹介するのはいままで完全にノーマークだった上野の慰霊碑です。ノーマークだった理由は建立されている場所が宮古島市上野庁舎(旧上野村役場)の裏手で、元上野役場の旧庁舎が建っていたあたりという、ぶっちゃけ街道筋(国道390号)にも面しておらず、知る人ぞ知るの裏道のようなところにあったから気付かなかったということでした。
理由としてはそれだけではありません。平良、城辺、下地、伊良部の各村(当時)は、太平洋戦争以前に建立された「忠魂碑」(日清、日露、第一次世界大戦の時代の戦没者を祀っている)が存在していますが、上野村が下地村から分村したのは戦後の1948(昭和23)年のことなので、そもそも上野村には「忠魂碑」が存在しません。
その上、上野は宮古島に駐屯した日本軍の中枢が野原岳にあったことから、戦跡の大半が野原地区に集中しており、慰霊碑も散見できることから(二重越に集中移転でされたものもある)、公設のそうした碑はないものだと思い込んでいたのでした。
ところが、たまたま見つけた沖縄県の忠魂碑・慰霊碑リストに、これまで聞いたことのない碑が存在していることを知り、慌てて現場あたりをして見つけたという、石碑ハンターとしてはなんとも恥ずかしい展開となりました。
もっとも、戦後になり「慰霊碑」と名を変えた太平洋戦争(第二次世界大戦)の戦没者を慰霊する碑は、平良、城辺、伊良部では「忠魂碑」と並んで建立されていることから、3市町の石碑の存在はよく知っていたのですが、上野に関してはすっかり抜け落ちていました。
ちなみに「忠魂碑」と「慰霊碑」は似ていて否なるものです。定義を厳密に読み解くと、決して同列に扱える碑ではなかったりしますが、今回はそこに重きがあるわけではないので、気になる方はその違いをググってみてください。お勉強になりますよ。
さてさて、石碑本体についてです。
石碑自体も「塔」と名乗る程なので、なかなかの大きさ(高さはない)がありますが、台座を含んだ周辺設備(イベントスペース?)も作り込まれており、かなり大がかりな設計となっています。
塔にあたる中央部分には「慰霊之塔」と大きく縦書きされ、上部には「鎮魂」と刻まれてた球が飾られています。また、石碑の両サイドは翼のように広がっており、右端には
「國難に散りし村ひとと安らかに眠れといのり君の名をみつむ」という句が、芳名板のタイトルのように刻まれており、右側には陸軍の76名、塔を挟んだ左側には海軍の33名、計109名の戦没者名が記されています。
そして海軍側の裏には解説文が書かれていましたので紹介しておきます(原文のママ)。
ここに鎮座されます英霊は過ぎし太平洋戦争で我が最愛の妻子や父母兄弟に決別をつげ身を切るよう酷寒の地、炎熱燃えるか如き大陸や南方各地で飢餓疫病と斗いつつ最後まで祖国日本の繁栄と民族発展を願いながら尊い人命を御国のためにささげられた軍人軍属一〇三柱を合祀しみ霊の尊き犠牲に対し長く後世につたえ諸士のごめい福をお祈りするために建立された碑である
昭和五十二年六月 建立
説明文の分中では103柱と書かれていますが、表の名前は109名分あり差異が見受けられますが、これは恐らく海軍側に3名づつ2度ほどプレートが追加されているようなので、総数に不合があるようです。
島の戦争関連の石碑は、ほぼやりつくしたつもりでいましたが、まだで出来ました、さすが3万あまりの将兵が島に駐留していただけのことはあります。これまでにも散発的に紹介して来たので、今更ながらシリーズを構成する予定はありませんが、戦争関連の石碑はなんと次週へと続きます。
【資料】
慰霊塔(碑)一覧 - 沖縄県(pdf)
第25回
「上野村発祥の地」
第55回
「上野村村制50周年記念碑」
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