彼の音楽は、地中から湧いてくるようであり、海が運んでくるようであり、天から降ってくるようでもある。アップテンポの軽快な曲も、ソウルフルなバラードも、その曲はいつだって宮古島そのものだ。「歌は自然の一部であればいい。風や波のような、太陽や月や星の光のような自然の一部だったりであればいい」というその人はアイランダー・アーティスト、下地暁(しもじ さとる)さん。島で初めての放送用サテライトとレコーディングスタジオ・レーベルを立ち上げ、自らの音楽活動、地元ミュージシャンのプロデュースをはじめ、ラジオ番組の企画・制作、パーソナリティをつとめるなど、島発信の活動は精力的で幅広い。毎年の一大イベントとして定着したクィーチャーフェスティバルの発起人であることも、島では知らない人はいないだろう。
【肌身離さず持ち歩く母や家族の写真。セピア色の一枚一枚に、色濃く想い出が宿る】
暁さんが生まれ故郷の宮古島に戻ってきたのは25年前。危篤の母の病床で、甥っ子や姪っ子たちと方言で会話ができなかったことに衝撃を受けた。
消えていこうとするおふくろの命と島の言葉が僕の中で重なった。
言葉を失うことは親を失うことと同じだと思った。
おふくろが、歌を通して島の言葉を残しなさいと、伝えてるように感じたんだ。
僕がずっと音楽をやっていた意味は、ここにあったのかとね。
その頃東京で、念願のメジャーデビューの計画も進んでいた暁さんにとって、島へ戻ることは一大決心だったが、失われていくものへの危機感と使命感はもっと切実だった。「僕にとっては、おふくろイコール宮古島で、それは自分そのものなんだよね」と暁さんはいう。その言葉どおり、暁さんの歌の多くに母への想いがこめられる。
島の言葉で作った最初の曲「オトーリソング」は、おふくろへの鎮魂歌。
おふくろが、もう一度元気になって古希の祝いができればいいのにと、
危篤のおふくろを見舞うために病院に行く途中、
第三給油所の前の信号待ちで、ふと歌になったのが原型。
子どもたちや嫁や婿や孫たちが内地から沖縄本島から集まり、オトーリ回して喜びを分かち合う「オトーリソング」には、家族であることの幸せ、命が綿々と受け継がれていくことへの誇りがあふれる。暁さんは、命のつながり、命の根を光だという。光は過去現在未来を照らす命そのものなのだと。
暁さんは、6人兄弟の年の離れた末っ子として、城辺に生まれた。母はとても優しい人で、母を想うとき、その思い出はいつも子ども時代にさかのぼる。それは島に生きる、人の暮らしの記憶でもある。
おふくろは具合が悪いと、必ずユタを頼んだ。
僕が熱を出したりすると、「今日何かしたか?」と問われ、
御嶽の近くの木の枝を折ったともなれば、すぐにユタを呼んでカンニガイ。
風邪をひこうが何をしようが、まずユタだった。
ユタの祈りは歌のようだったと暁さんはいう。暁少年の心には、母と歌と祈りと命が、原風景として同時に刻まれた。
ユタでも治らないと、大浦の医者のところにいく。
「暁、まい行かでぃ?」と必ずおふくろはいい、僕はいつも喜んでついていった。
長間からバスが走る本道まで歩く。履物もなくほとんど裸足だったね。
バスがエンストすると、運転手が下りてきて、手こぎしてエンジンをかけるのも面白くて。
舗装のしてないデコボコ道を、共栄のボンネットバスに揺られ、ふたりはまず「ぴさら」へ向かう。終着の「ぴさら」の停留所から「八千代バス停」まで歩き、そこから大浦へ。城辺の西城から大浦までの医者通いの日は、ちょっとした旅行で、暁少年にとって、母を独り占めできる幸せなひとときだった。
出かける前には、おふくろが弁当を作ってくれた。
楕円形のサバの空き缶が弁当箱で、中にはふかした芋とサバの半きれ。
注射が終わって、帰りのバスが来るまで、
大浦の海岸の木陰で海を見ながら、弁当をふたりで分け合って食べるんだ。
バスが、遠くからもうもうと砂埃があげながらやってくる。
「かあちゃん!バス乗る!」と慌てると、
「しゅわすな、むのぅふぁい(心配しないで食べなさい)」ってね。
うちはすごく貧乏だったと暁さんはいう。近所では一軒だけになった茅葺の家は台風のたびに飛ばされた。中学校に上がったときには、友人たちが学生服を新調する中、政府から支給された黒の半ズボンに、母親が、同じような布をはぎ合わせて、長ズボンに仕立ててくれた。暁さんはそのズボンを手製の重い敷布団の下でプレスして、ビシッとさせた。「貧乏に見られたくないからさ」
やがて暁少年は少し大人になり、青春時代を迎える。母に手を引かれ、ボンネットバスに目を輝かせた少年は、長髪をなびかせ、バイト代を貯めて買ったナナハンを乗り回す高校生になった。サイドバックにつけたカーステレオからはディープパープルを大音量で流した。本人は否定するが、全島女子の憧れの存在だったに違いない。
意外と目立ってたらしく、遊び人でプレイボーイだと思われてたみたい(笑)
でもね、僕はすごく真面目だったんだよ。
昼は働いて夜は定時制の高校へ行って、陸上、バレーボール、バンド。
遊ぶ暇なんか、ぜんぜんない。
それに、おふくろのこと思ったら、悪さなんてできるわけないさ。
もうちょっと遊んでおけばよかったかなと思うくらい(笑)
高校を卒業した暁さんは上京。大都会で夢を追う無数の若者たちのひとりとなった。真面目で努力家の暁さんは、やがてその中でも頭角を現し、音楽仲間と練習スタジオやライブハウスを立ち上げ、インディーズレーベルの運営などに関わりながらアマからプロへとビックになっていくミュージシャンたちと活動を行うようになる。挫折、そして喜び・・・寄る辺のない都会のカオスの中で、暁さんを支えたものは、宮古島という命の根。母につながる島への想いだった。ロックを歌いながらも、脳裏には歌うように祈るユタの姿があった。
そして、当時大流行したバンドのメンバーとデビューという、願ってもないチャンスが訪れたとき、暁さんのもとへ母の危篤の知らせが届いた。
島の古謡を唄うときは、必ずその唄が生まれた聖地にお礼報告を兼ね挨拶に行く。
でも、どっぷりと、伝統的に歌うというのとは違う。
これまで僕が培ってきたものすべてを土台として、
次に繋がるような新しい宮古を表現できるとね。
暁さんのアルバムには、国内外で活躍する人々が関わる。宮古島を外からみたらどうなるんだろうということに興味があると、暁さんはいう。みゃーくふつで書かれた曲が、宮古と内地、あるいは海外との間を行ったり来たりしながら、それぞれの想いが織り込まれ、ひとつの作品が生まれることが面白く、とても興味深いと。
暁さんと島の鼓動から生まれたものが、アレンジャーやプロデューサーの想いをのせ、綾玉となって帰ってくる。それを下地暁が歌えば、揺るぎのない宮古島となる。なぜなら彼自身が宮古島だから。