2015年、宮古島に新しいタイプのフリーペーパー【手×紙】が誕生した。発行者は上地直樹さん(以下、ナオキさん)。東京や那覇でデザイナーとしてキャリアを積み、故郷宮古島へUターン。第1号発行はナオキさんが宮古へ戻ってからわずか半年後のことだった。【手×紙】はその後も順調に世に出され、現在5号目を準備中だ。
クリエイティブな仕事をしている人ならば、誰もが一度は自分の媒体をもって世間に問いてみたいと思う。ナオキさんは、ショップやレストランを紹介し、その広告料で製作費を捻出するフリーペーパーという手段を選択した。島にはすでにショップ紹介のフリーマガジンは主なところでも3種あり、広告営業は狭い島内でしのぎを削る。資金も後ろ盾もないナオキさんの試みは、傍目にも危うく見えた。それでもあえて、ナオキさんは切り込んだ。
ナオキさんの営業先は自分の感性に訴える店舗のみ。そして、その感性を共有するターゲット層に狙いを定めた紙面づくりは少しずつ評判を呼び、号を重ねるごとに【手×紙】への共感者も増えてきた。
「都会では当たり前にあるものが、当たり前のように無い島。けれどこの島には都会には当たり前に無いものが沢山ある」「本当の島の魅力って、宮古島がくれる日々と、そこに住む人々の心の豊かさなんじゃないかなって、思うんです」
手×紙のHPにナオキさんは綴る。たぶん、それは、宮古で生まれて育ち、都会で傷つきながらも必死で自分を見つめたものたちの普遍的な想いだ。挫折は人を強くするとはいうものの、ナオキさんのそれは小学校時代に遡る。
小さい頃から運動は得意で、駆け足も速かったし、
少年野球でも活躍してた。
でも、走り方が変だと、友達から「エリマキトカゲ」とからかわれ、
病院で検査を受けた。
結果は、思いもかけない先天性の股関節の病気。通常の暮らしでの治療は不可。那覇の病院に入院し、突然車いすの生活を強いられることになった。股関節に極力負担をかけないように、器具で下半身を固定し、起きている間は車いすという入院生活は、小6から中2までの3年間に及んだ。
病院には養護学校があって、
小1から中3まで30~40人は生徒がいたかな。
僕のような股関節の病気の子、脳性麻痺の子、骨がすぐに折れる病気の子、
いろんな症状の子どもたちが、ベッドを並べて授業を受けた。
那覇に家のある子たちは、土日は親元に帰ることができるのだけど、
離島の子どもはそうはいかない。
ドラマや映画にあるような悲壮感はそれほどなかったと、ナオキさんはいうが、12歳から14歳という思春期を迎えたばかりの子どもにとって、家族のいない病院での生活は、やはり不安で寂しいものだったろう。絵が好きだったナオキさんは、車いすで、ベッドの上で、絵や漫画を描いて過ごした。絵を描いていると何時間でも夢中になれた。
退院して高校1年の夏ごろからは、普通の暮らしができるようになった。
運動ができることがうれしくて、ハンドボール部に入って、
あまり走らなくていいキーパーになった。
球技は得意なので、レギュラーにもすぐ選ばれてね。
そして高校を卒業すると、ナオキさんは那覇の美術系専門学校へ進学。専門学校でデザインやアートを学び卒業した後は、就職氷河期といわれる中、沖縄の大手印刷会社に就職した。「絵だけは自信があったから」と、ナオキさんはいう。
その頃は、仲間たちとアート本を制作したり。
会社の仕事とは別に、完全な遊びで、100部くらい作ったかな。
全然中身はないんだけど、Macでこんなことができるというアピール(笑)
とにかくカッコいいものを作りたいって、それだけだったけど面白かった。
那覇でデザイナーとして、順調なスタートを切ったものの、当然、ナオキさんの目は、時代の最先端をリードする東京へと向いていた。ナオキさんのいう「ダサい沖縄」を脱して意気揚々と上京したのは、それから間もなくのことだった。もちろん就職のあてなどない。那覇で身につけたMac使いの腕だけが頼りだった。
求人誌見て応募した制作プロダクションがすぐに雇ってくれた。
でも、自分の仕事のできなさに落ち込む日々で、
これまでやってきたデザイン、仕事なんて、まるで素人だったなと。
沖縄でイッチョマエにやってきたという自信がもろくも崩れた。
東京じゃ自分なんか全然だめなんだと、ナオキさんは自分を追い詰めた。自信のなさから、ささいな失敗を必要以上に重大に感じてしまう。どちらかというと完璧主義でプライドが高い分、周囲に弱音がはけない。次第に他人との間に壁を作るようになった。そのくせ疎外感に苦しんだ。自分の紹介で後から入社した友人は、どんどん皆と馴染んでいく。それもつらかった。2年頑張ったが、心を病み、疲れ、宮古へ一時帰省した。
もう打ちのめされて。
宮古へ帰って家の仕事を継ごうかなと弱音をはくと
父ちゃんが「まだ帰ってくるな」と。
負けた感じで帰ってくるのを父は望まなかったんだと思う。
ナオキさんは父親から背中を押されるように、再度上京。一度は辞めた会社で、アルバイトとして手伝ううちに、徐々に自信を取り戻した。自作のイラストでカレンダーを作るなど、創作意欲に再び火が付いた。表現したくてたまらない情熱が戻ってきた。
次に就職したのは、業界では名の通った会社で、
博報堂や電通などからの下請けの仕事が多かった。
社長はワンマンでキツかったけれど
ここで、本当のプロの仕事を叩き込まれた。
上地、こんなんでいいのか?こんな中途半端なもの世に出せるのか?と
繰り返し怒鳴られた(笑)
上京し、初めて手ごたえを感じた職場だったが、ついに身体を壊し、退社を余儀なくされた。「半年くらいぼーっとしてた」とナオキさんはいう。
笹塚のアパートで、ひとり、することもなく、する気もなく時を過ごした。
そんな暮らしを見かねた仲間は、ナオキさんを仕事に誘った。貯蓄も底をつき、兄弟から借金をする状態だったから、重い腰を上げ、勧められるままデザイン会社で、派遣社員として働きはじめた。最初の仕事はベンツのカンプ(広告等の完成予想図)制作。高度な技術とデッサン力が求められた。そこで技術が鍛えられ、トヨタや読売新聞など、大手の仕事を次々に任されるようになる。当時は規制緩和の名のもとに、働き方も多様になり、技術系の派遣は花形だった。20代後半で、月40万近く稼いだ。しかし、仕事は多忙を極め、2日間寝ずにぶっ通しで働くなんて珍しくもない日々が続く。身体が、心が、再び悲鳴を上げた。
ナオキさんの20代は、がむしゃらに夢を追い、そしてボロボロになる、その繰り返しだった。「なんでもきっちりしてないと気が済まない」というナオキさんは、ぎりぎりまで自分を追い込み、力尽きると、すべてを断ってひとり籠る。それはまるで繭のようだ。彼はその中で、次に羽化するときをじっと待つ。宮古から沖縄へ、そして東京へ。時の流れも人の流れも心の流れも激しく変化する中で、壊れそうな自分を守る唯一の方法だったのかもしれない。
10年の東京暮らしを経て、ナオキさんは那覇に戻る。32歳だった。那覇ではフリーランスで仕事をしたが、40歳を迎えたのを機に宮古へ帰ってきた。
東京にいる頃から、宮古の文化は他とは違う。
おニャン子クラブもルーズソックスも流行らないのに、
ロカビリーから宮ビリーなんて独特のサブカルが発達したりする。
その独自性は一体どこから来るんだと不思議だったんだよね。
後で、地理的な特殊性、文化や人や情報の通過、交流地点だったことを知り、
何となく腑に落ちるというか、ああ、カッコいいな、すごいなと。
カッコいいを探して東京へ出て、そのカッコいいが宮古にあったことに気づいた。「青い鳥」の童話のようだが、ずっと求め続けたアイデンティティを、故郷に見つけ、それが【手×紙】に結びついた。宮古に戻ったとき、デザインの仕事をすることはないだろうと思っていたとナオキさんはいう。しかし、不思議や偶然が続き、ナオキさんを突き動かした。
何かを知りたいと思うと、たまたまその本を寄り道の途中で見つけたり
何かをしたいと思うと、偶然が重なってできるようになるとか、
自分が望むことが、現実になるように物事が動き始めた。
【手×紙】をやると決めてからは、人も自然に集まってきた。
なんかね、不思議なんだよね。
【手×紙】では、島で普通に暮らす人々の声を届け、今ある宮古を発信したい。いいことも悪いこともね。自虐ネタだっていいと思うとナオキさんはいった。40代を迎えた今も、生きにくさがなくなったわけじゃない。宮古を見つめることは、ナオキさんがナオキさん自身を確認し、ひとつひとつ、腑に落としていく作業でもあるのかもしれない。そしてそれは、ようやく始まったばかりだ。
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【あとがき】
多感な少年時代に、ナオキさんは那覇の病院のベッドの上で過ごしました。股関節を傷つけないように、負担をかけないで成長を促すように。そして、ナオキさんは東京で心折れるたび、「何か月も、ただ何もせず、家に籠っていた」といいます。それは、少年時代のベッドの記憶と無縁ではないのかもしれません。
「最近、実家で偶然見つけた中学時代の作文に、将来、デザイナーになりたいと書いてあった。第二志望はコンピューター関係の仕事と。びっくりした。あれ、俺、夢かなってるねと(笑)」。近々、【手×紙】のポータルサイトがオープン予定です。
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話しは変わって、お知らせです。1月28日は音楽大好きのナオキさんが、ミュージックイベントを開催します。フライヤ―は現在制作中とのこと!
『We Are the Myark's party バンタガ・ミャークヌ・社交会』
日 時:2017年1月28日(土)
時 間:19時開場、19時30分スタート
場 所:Book Cafe BAR BREATHE
料 金:2,000円(1drink)
※フライヤー(チケット付)を切り取って持参された方は1,500円(1drink)
Live band
●Funny noise(from OKINAWA)
●THE DISKALLS
●Hi-Lites
スペシャルゲスト
Dj
●RYOTA
●KAZUHIRO
●OKINA