その11 マリコさんの宮古大学 [後篇]

atalas

2016年03月25日 12:00


※前篇はコチラ

沖大存続を支援する会が「宮古大学」へと名前を変え、マリコさんら若者たちと東松照明の活動がはじまった。

手元に一冊の手作り誌がある。
創刊号『すまりゃ<染人>』宮古大学 (昭和48年5月1日発行)と題されたそれは、18ページの構成で、東松照明の随筆『ラブレター』が巻頭を飾り、続いてメンバーたちの文章がつづられている。

すまりゃは、最初はガリ版でつくっていて
ここからここまで何行で、何文字で、どこからページが変わってと
東松さんに教わりながら原紙に鉄筆で書いていった
その途中で、新しく入った高校生がタイプ打ちをしてくれることになったんだと思う
すまりゃというのは、想い人って意味
『沖大存続を支援する会会報』の名前も変えようとなって、これしかないよねと


【山中部落へ調査に向かう若者たち。向かって左がマリコさん】
編集部によるドキュメントには、次のような経過が報告されている。

(3.17)
宮古島の視点から、すべての問題をとらえ直すことが確認された。我々自身の手で宮古島を掘り起し、その過程で具体的問題を喚起していく。その方法が見つかるまで、毎日とう論を重ねる。

(3.26)
宮古島の中の特定地域を選んで、まず全員で調査することから始めようということになった。地域にはすべての問題が含まれている。特定地域は山中部落に決定。
(以上、抜粋) 

山中へ行って話を聴いたらいいんじゃないかと提案してくれたのは東松さん
比較的市街地に近い農村がどうなってるか調べたらと
彼は、島中を歩き回っていて、いろんな場所や人を知っていた


とはいうものの、東松氏は、活動そのものにはなるべく影響を及ぼさないようにしていたと思うとマリコさんはいう。情報の提供や方法論を投げかけ、若者たちが、どう舵をきっていくのか、『見て』いたんじゃないかと。
「今だから思うけど、写真家は見る人だから」

最初の活動の方針が決まり、宮古大学のメンバーは、山中集落へ出かけ、地図を作成し、老人だけが残される家々を訪ね、聞き取り調査をおこなった。
すまりゃ創刊号は、その訪問記に多くのページをさいていて、マリコさんも執筆者のひとりだ。

【すまりゃ創刊号 もくじ】 
(抜粋)
自分たちは部落を出ていった人の家々や畑の番人だ。「パリバン」という言葉の中に、山中に残っている人の、どうしようもない怒りとさびしさを感じました。貧しいから山中を出ていくのかと考えていたら、お金のある人から那覇に土地を買い、家を建てて出ていくというのです。
(抜粋)
過疎、離農を考えるとき、もっと展望と計画性をもって“こう変えるべきだ”と農業の方向性を指し示すところまで、私たちは目標にしなければいけないじゃないかと思います。

と、マリコさんはつづる。

山中にいって、離農して那覇にいく人が多いと知って
それは日本の農業政策が変わらない限り、どうしようもないということに気づかされ
そのことは、私の中で強烈だった
ほかのことは、あんまり覚えてないけれど、それは、今でも心の中にある


マリコさん含め、宮古大学のメンバーは、後にそれぞれのフィールドで、時代を拓く先駆者として活躍していく。政治家の道を選んだ人もいる。
宮古大学での経験が背中を押した、ということはあると思う?っと聞けば、マリコさんは少し考えて答えた。
「もともとそういう人たちが集まったんじゃないかな」
才気と活気あふれる若者たちが、まさに時代が音を立てて変わる渦の中で、島のありかたや未来に立ち向かい、熱く語り合う場に居合わせることは、東松照明でなくとも興奮をおぼえたことだろう。

次にやったのは人頭税廃止運動を自分たちで調べてみること
当時はまだ、その中心人物を直接知ってるという人がいて、久松や保良にでかけていった
それをすまりゃの2号でまとめる予定だった


【東松邸-初めての夜-/三人の織姫-職場訪問-】
マリコさんは名前を覚えていないというが、保良というのは、たぶん、農民代表として人頭税廃止を要求する直談判に、中村十作とともに上京した平良真牛の関係者のことだろう。あまりの展開に、思わず身を乗り出してしまうが、残念なことに、その聞き書きはどこにも残されていない。すまりゃ2号は発行されなかったのだ。

2号を出そうというときに、Mが出す意味があるか?と
意味はあると思ったけれど、そう聞かれると、きちんと言葉で説明できなくて黙ってた
ほかのみんなも黙ってた。それで、もう終わるかと
何年も後の話だけれど、あのとき、誰かが意味があると言ってたら
おれはやるつもりだったよとMがいうから、ばかやろと思った(笑)


東松照明が島を去り、宮古大学も解散した。
「東松さんが、どんな風にいなくなったのか、おれ、いくねーみたいな感じだったのか、ぜんぜん思い出せないんだよね」
それから43年の月日が過ぎた。マリコさんは今、ブーンミ保存会の会長として、宮古上布界を支えている。

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