毎週金曜日にお届けしている「月イチ金曜コラム」、今週はゲストライターさんによるスペシャルなコラムをお楽しみください!。
タイトルからして「博愛の島での私刑」とちょっと怪しい雰囲気ですが、Koitaro YASUNA
KA氏の新たな研究対象となった宮古島の史実を紡いだお話なのです・・・。
最近のニュースを聞くにつけて、人は時として残酷になれるもんだなあと思います。でもこれって現代、そして特定の地域に限ったことでもないですよね。宮古にも、語られるもはばかられる『サンシー事件』がありました。
事件の名前にサンシーという犠牲者のあだ名のついた例など聞いたことありません。ある意味でネーミングセンスの良さと、この事件の悲惨さとのギャップが、心にいつまでも残ります。ちなみに慶世村恒任の『宮古史伝』では、犠牲者自身のあだ名ではなく、彼のいた一家のあだ名
(※01)とあります。
時は、不平士族最後の大爆発とされる西郷隆盛のいくさも終わった2年後の1879(明治12)年、沖縄県ができた年です。
ところが当時の宮古では、士族の不満がまだまだ残っていました。なんと新政府の方針に俺たちは反対するぞという誓約血判状まで作っていたのです。そこには平民も多数いたというから驚きです。
そこに現れたのが、宮古の士族出身でありながら、沖縄本島の言葉もできたため、新政府の派出所で働くことになった下地利社という名の青年です。彼のあだ名のサンシーとは、新政府に賛成したとか、琉球か清国か大和かどこかわからない三姓をもっているという意味だそうです。
彼の行動を宮古の島民は常に監視していました。今でも宮古では、よそ者がいると、知らぬ間に行動を見張られているとのことです。しかも、その情報の伝わり方はインターネットよりも早いそうで。光より早いという人もいましたが、きっと泡盛を飲み過ぎたのではと推測します。
このような監視の中で、惨劇は起こりました。下地青年は藍屋川(アイヤガー
※02)という共同水汲み所で、水を汲んでいた女性に乱暴しようとした噂が広まります。
実際には、「新政府についた下地は殺そう」と女性が周りに話しかけたところに下地利社が水汲みに来て、怒って派出所に連れて行ったとか、下地利社がそんなはだけた格好はこれからの時代に相応しくないと注意したとか諸説あります。
ちなみに藍屋川は現在の第一ホテルの隣にあり、埋まっています。水の通り道を埋めたままにしておくと、祟りが起こると言われるといわれますが…。
しか~し一度噂が広まると、暴走は誰も止められません。
「剽悍の気風ある」
(※03)島民は手にこん棒や櫂など殴れるものならなんでも手にとり派出所に押しかけ、ひと悶着あった後、無理やり天井裏に隠れていた利社を引きずりだします。
そして、スタン・ハンセンもびっくりの荒縄を幾重にも巻くと、現在の距離で1.5キロも引きずり回し、誓約のとおり頭部を切断することも忘れて、ひとりがなぐると次から次へと続き、あっという間に撲殺してしまいます。
そして、むくろを腰原嶺洞窟(ツヅピスキアブ)という名の洞窟に投げ捨てます。そこは現在の南小の隣にある大原南公園内です。発掘調査も行われていて、市指定の天然記念物(地質)になっています。本当は市指定の史跡
(※04)ではと思いますが…
【ツヅピスキアブ/南小学校隣、大原南公園直下
MAP】
後日談になりますが、下地青年の亡骸は派出所の警官が県に願い出て、那覇の護国寺に改装されました。さらに、弟の利及が宮古島の一族の墓所に埋葬します。時は1921(大正10)年のことでした。
ヒューマニズムの語源は、元来「埋葬」の意味の言葉から来ているとイタリアの学者ヴィーコが『新しい学』で述べています。「博愛の島」元年は、この年ともいえるのではないでしょうか。