本来であれば第一週の金曜なので、本村佳世の「みやこのこよみ」をお届けするところなのですが、先日、お子さんが生まれまして産休とあいなりましたので、今回は代打コラムとなります(金曜特集扱い)。ですが、予想を超える大作が届きました。色々と唸ったり、うなづいたり、ハッとさせられたり・・・。ともあれ、じっくりお読みいただければ幸いです。
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ピンチヒッターの宮国です。
かよちゃんに子どもが生まれたので、なんともうれしいことで、やらなきゃいけないことがあっても、まずはかよちゃんの代打を最優先!と思い、書いております。関係各所のみなさん、仕事が遅くてすみません。
世の中の一番の「ぷからすむぬ(喜び)」はなににおいても、子どもの誕生さいが。まーんてぃ、ばんまいおばーになりどぅ(ほんと、私もあばーになったみたい)。
なにを書くか!はい、どーするか、まず!と、またしても方言になってしまいますが、書く事は実はたくさんあるのですよね。書く時間がないだけで。
今回は、私が最近このプロジェクトで感じた事をみっつにまとめました。
6月の講座での伊志嶺敏子さん(伊志嶺敏子一級建築士事務所 代表)や、
公益財団法人沖縄県文化振興会のプログラムディレクター・杉浦幹男さんの言葉も含めて、想いを色々と綴ってみました。
尚、ご本人たちには、まったく同意を得ていませんが、私の妄想宮古ワールドへの切っ先になってしまいました・・・。お許しください。
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「宮古は100周遅れのトップランナー」 伊志嶺敏子さん
昨今は、宮古が「日本文化の古層」と呼ばれて注目を浴びていますが、さもありなん。だから100周遅れにみえるかもしれませんが、ある意味、人間的でそれはかなりのトップランナーなのかな、と思います。
自然と共生するひとたちがまだまだ宮古にはいます。と、いうか、その風貌と行動は、かなりの勢いで、人間も自然の一部じゃないかと思わせてくれる。
一見、牧歌的なのに野性的です。いや、その反対も。
日本の自然は基本的には牧歌と野生のバランスなのかもしれません。
自然に対しての適正規模を超えて、科学発展とともに、伸びしろいっぱいの日本になった現代。おおかたの人はおなかはすいてないし、雨露しのいでいるし。昔に比べれば豊かなんだろうなぁ。
でも、たまにあくせくしてて、つまらない、と思う。自分自身が。せかされるように生きているって、ちょっとつまらない。豊かかな?
失われるものがある気がする。それは、豊かな時間。人を思いやる心。特に、女性なんて、おしゃべりで癒されることがほとんどだと思う。合理的じゃないし、時間も食う。でも、たぶん、人が人として生きて行くには、かなーり重要なことではないかと考えます。
最近、合理的過ぎる判断や、経済的価値だけで動く社会に女性たちだけでなく、男性までもノーと言い始めた気がする。ある意味、マッチョな世界。損得、大義名分、滅私奉公。キーワードは出てくる。でも、それが一概に悪いわけじゃないけれど。なんとなく、それ一辺倒だと辛いよね、ってこと。
宮古の女性はずっとノーと言っている。かなりやんわりなので、誰も気付いてないかもしれないけど、そういうことだと思う。
社会がどう変わっても、あのスタンスは変わらない。まずは、自分の子どもを守る。そして、心を通わせる女同士の子どもも守る。その輪は、どんどん広がる。おばぁたちは、喧嘩しているのは余裕があるからだ、くらいに思っているふしがある。
男どもが(あら失礼!)戦争したり、覇権争いしたりしている間も、自分の「かなすふっふぁ(愛しいこども)」を守るために、力を合わせている。その土俵にのらない、知らないふりをするってこともノーのひとつの形かもしれない。
弱い子どもはまわりの人と仲良くしていないと守れない。まずは食わせられない。生きて行かせられない。明日の子どものご飯と自分のちっぽけなプライドを天秤にかけるほど、おばぁたちは馬鹿じゃなかった。それは、別に宮古のおばぁだけじゃないかも。
けっして声高ではないけれど、連携が当たり前という気持ちは通底している。子どもを守る女同士のあの連携はとても古代的。「育てる」ってことはそういうことだと思う。食べ物を確保して、与える、それがスタート。
宮古出身の男の人で自分の母親をえらそうに罵倒しているやつは、昔から井戸に投げ込まれるくらい制裁を加えられるんですよね。いくら偉そうなことを言っても
「うわー、みどぅんからんまりどぅ(お前は女から生まれたんじゃないか)」
と言われ、反論をシャットアウトするおばぁたち。そして、また冷静にコツコツと仕事をしはじめてました。
子どもの私は「だいずずみ(とてもかっこいい)」と感動していた。女をいたぶるやつは、島では心底馬鹿にされる。それがおばぁたちの本質的なところは、100周遅れても、トップランナーかもしれない。
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「都市は文化遺産があるんです」 杉浦幹男さん
「じゃ、なんで、都市出身のあなたが沖縄に来たの?」とは聞きませんでしたが、彼の言葉の裏を返せば、それだけじゃ物足りないってことなんだと思います。その先があるということ。その先を沖縄にも感じているということ。深読みし過ぎか。
彼はもっと深いことを自分の生き方に体現させているように思う。芸術を幼少期から血となり肉としてきた半生を多くは語らないけど。時折、言っている事の背景が見えてくる。ほんとはいろいろ聞いてみたいと思う。長い付き合いになりそうなので、徐々に聞いていきたいです。その話も長くなりそうだけど(笑)。
都市の文化遺産の源。それこそ、人が人である所以。芸術に対する情熱、葛藤、成熟。それをひっくるめての人間の人間らしい発露。都市は、たくさんの文化が集まり、洗練させた場所。芸を極めた手仕事のオンパレードになっていった。グーグルの絵はやっぱり私には響かない。人間臭いものに惹かれる。
そして、柳宗悦が愛してやまなかった地方の民具にもその萌芽が隠されている。その目を当時の芸術家たちはいち早くアナウンスしただけだと思う。
人が何かを表現する喜び。それは、形あるもの。自分の芸術が完成し、目の前にした人の喜びは、尋常じゃないと思う。
ある人が宮古上布の美しさは、ただ、やらされているだけではあそこまで作品として昇華できない、と言っていた。私も同意。あれが、労働でなく、訓練だとしたらどうだろう。もしくは熟練した手仕事への満足感だったとしたら。
人頭税をさておきなので、暴言なのはわかっています。でも、手仕事としての美しさは、群を抜いている宮古上布。その美しい上布を仕上げたとき、喜びはなかっただろうか。私はあったと思う。
蝶の羽より薄い美しさ、模様のそろった心地よさ、藍の色が織りなす美的デザイン。その胸にあふれる喜びは、まさしく芸術家の心の震えと同じじゃないだろうか。
それが年貢として持って行かれる悲しさもあるけれども、心が浮き立つ瞬間はなかったか。あったのではないだろうか。
私が小学生のとき、まだ宮古上布の糸を紡いでいるおばぁたちがいた。彼女たちは、売り物でもない糸を紡いでいた。人間が手仕事を通じて、無心になれる、その心の状態を良しとしていたのではないかと思う。
寝転んで、テレビ見ていても良かった時代に、娘時代に教わった糸を紡ぐ作業をしていたことは、彼女たちの神聖な芸術的な時間であったのだろうと思うのです。
「使われるふりをして使いなさい」
まず「使う」という言葉の定義をさせてください。
宮古では、ものだけじゃなく、有用に人を働かせる場合にも「使う」と言います。
けっして、もの扱いしているわけではありません。あるものは何でも使う、使い尽くすこと、が宮古においては最上です。本来の役割を果たすことにつながるので、とても良い言葉です。
まさしく、consumeの語源と同じです。使い尽くす、のです。
人も自然も物も、縁も神様も、使い尽くす。
それが宮古の「使う」ということです。
使い尽くしてから、また新しいものが生まれるという発想だと思います。もんのすっごいポジティブワードです。
(ちなみに、子どもを産んだりするのも、自分の心と身体を使い尽くす行為だと思います。だから、かよちゃんは、子どもを産んで、かよちゃんの命を使い尽くし中なのです。それは宮古では一番喜ばしいことなのです)
最近は「consume=消費」という訳が誤訳かも、と言われています。「消費」ではなく「完受・享受」が一番最適だという人もいます。消費という言葉を良く使う経済は、完受であり、享受なのです。そう思えば、人を使うというのも、悪い言葉に感じない気がします。
使う、という言葉にある本質的な部分を宮古の人は「使う」と表現しています。享受であり、完受なのです。
「使われるふりをして使いなさい」
これは、ある宮古の人が言った言葉です。個人的な言葉なので、お名前を出すのが憚られます。ですので、出しません。悪い言葉ではないと思います。私が、いやはや役所的な事務作業がつらいと愚痴を言ったからだと思います。単に私の能力不足です。
話がとびますが、沖縄は戦後、日本に使われていたと言える状況だったと思います。特に復帰後は。他の自治体とは明らかに違う一括交付金。でも、そこには、お金を出すだけの意味もあり、日本のシステムにのらなければいけないこともたくさんあったのでしょう。
税金を投入している以上、国にもその決定をする人たちにも責任があるし、沖縄の適当な(そう見えるというだけ)有機的な広がりや人材登用を主としたやり方だけを良しとするわけにはいきません。それは沖縄のやり方を尊重していないという事ではなく、フェアな取引でもあります。
ですが、価値観も分母も違う沖縄、一筋縄ではいきません。いったら、おかしい。どっちかが無理をしていると思う。
そこは相互理解ですが、個人的には、圧倒的に日本のなかでは沖縄が少数なので、みんなの税金を使うのであれば、日本のルールにのっとるのが当たり前だと思います。わかりやすく、自分のたちのことを開示して行くこと、その先に、交渉して行くことも含まれると思います。それはどこの地域でもいっしょかなと。
だからこその「使われるふりをして使いなさい」なのです。
けっして、悪い意味ではありません。あるものを十分に享受しなさい、ということです。
違う価値観のルールにのっとったとき、人は抵抗を感じます。めんどくさいし、嫌にもなる。だって、今までが自然で、心地よいから、その世界にいるのですから。歩幅を合わせるのは、二人の人間でもとても大変なことです。どちらにも合わせる気持ちがないと離れてしまう。
近づいた関係性があって、新しい価値観が自分の価値観と相まって来たとき、刺激ととるか、攻撃ととるか、その人のものの見方が試されるのだと思います。そこは沖縄宮古の得意な部分です。話をする。ぎりぎりまで近づく。切らない落としどころをつける。
このお金を使うなら、こうしなさい、と一方的に言われるのはなんとなく違和感を覚えるのも無理はありません。ですが、とりあえず、今の段階では、東京ルール、いや、霞ヶ関ルールでお金は落ちるのです。そこにはいろんな攻防がある。
信頼があるならいちいちこんなことしなくてもいい。そう、今まではそれで良かったし、身内なら良いのだと思います。でも、よそのお金を使うっていうことは、他人のパワーを使うことでもあるのです。そこにはどんなお金でも、出してくれる人に説明が必要な場合もあるのです。
伊志嶺敏子さんが「宮古の人がお金を使うようになったのはここ50年さー」とおっしゃっていましたが、まさにそのとおり!宮古の人はお金を学んでいる最中なのです。それは私もしかり。特に公的なお金ですね。だからこそ、その方は「使われるふりをして使いなさい」と言ったのでしょう。深い、深すぎる。まるで、通り池。
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話が変わりますが、文化事業なんて、そんな金にもならんもの。と、言う人がいます。確かにそうでしょう。短期的な見方をすれば。文化なんて、かなり抽象的なものです。とらえどころがない。まず、何が文化かわかりづらい。
でも、その抽象的なものだからこそ、人間が残す意味があるのじゃないかと考える人が増えてきたと思います。それは杉浦さんのような、都市と地方を行ったり来たりしているひとが痛感している事だと思います。私も末席ながらそう思います。
私は、宮古の文化は近代の産物でないと考えています。特に沖縄では文字文化は日本ほど成熟しなかった。文化は文字ではなく、宮古のメンタリティのなかにこそ残っているのではないかと思います。例えば、そのメンタリティが生みだす歌や口承の物語、宮古人の言葉、行動そのものです。まぁ、普通に考えれば、近代より古代の方が長いですからね。その智慧の方が智慧かもしれません。
近代で良いものと言われてきた価値観がすこしずつ綻んできたのは、多くの人が肌身で感じ始めている。だからこそ、宮古が文化の古層ではないか、と言われるようになったのではないでしょうか。いや、単に若干のガラパゴスのよーな気もします。
戦後、日本が目指した強い国、アメリカ。M&Aを繰り返し、格差が広がるアメリカは日本の人が目指す幸せな社会でしょうか。都会の競争(狂騒でもありますね)に疲れて、なんとなく受け入れてくれる田舎や沖縄にたくさんの人が訪れるのも事実もありながら、いろいろ考えるのです。豊かさの物差しってなんだろう、って。
他人の作った合理主義のレールは疲れるもの。人間的なふれあいを野生の宮古に求めている気がします。そこには、別の狂乱というか熱さみたいなものが満ちあふれていますが・・・意外と悪くない。
すっごい長くなりました。すいません。
最近、ずーーーっと、こんな感じのことを考えてました。きっと、読んでいて引っかかった人も多いんじゃないかと思います。どこかひっかかったか、教えていただけると、有難く存じます。この文章を読むような人は、宮古・沖縄の人に関わる人だからです。私はその人と人のつながりを信じたいと思うからです。それが豊かなことじゃないかな、と感じるから。
その引っかかった部分に、何かわくわくするような出来事への糸口があるような気がしてたまりません。
最後に、かよちゃん、おめでとう!しつこいけど、言いたい(笑)。
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切り込み隊長の一番バッターに、四番でエースのプレイングマネージャーが代打に立ってくれたおかげで、いつものコラムとはまた違う面白さにあふれていました。代打、ありがとうございました~♪