17冊目 「岡本太郎の沖縄」

atalas

2017年02月10日 12:00



まだまだ寒い日が続く2月です。今月は、2016年に小学館クリエイティブより復刊された『岡本太郎の沖縄』を紹介します。

岡本太郎は、1929年に18歳で渡仏し、パリ大学で哲学、民族学、社会学などを学びながら、前衛芸術運動に参画しました。1940年に帰国後、縄文土器と出会い、日本文化の再発見の旅に出ます。


岡本太郎は、1959年11月16日から12月2日まで、沖縄を訪問し、各地に残る沖縄独自の文化に触れ、その印象を、1961年には著書『忘れられた日本〈沖縄文化論〉』として発表しました。同書の「神と木と石」の一節において、岡本は「沖縄」のシャーマニズム的な面について深い感動を開陳しています。 また、1966年12月24日から30日まで岡本は沖縄を再訪し、久高島において12年に一度、午年に行われる女性だけによる神事「イザイホ―」を取材し「神々の島・久高島(沖縄)」を発表しました。 そして、岡本は、久高島での感動がさめやらぬ翌1967年7月、1970年に大阪で開催された万国博覧会におけるテーマ展示プロデューサーに就任し、西洋近代合理主義には反する「べらぼうなもの」を造ることを宣言し、後の《太陽の塔》となる仮称《生命の樹》を制作することを発表しています。ここにも、岡本が「沖縄」での見聞を通して得た何かが確信としてあったものと考えられます。  上述した通り、岡本は二度の沖縄訪問を通して創作活動において大きな影響を受けたものと考えられます (川崎市岡本太郎美術館HPより)

この本は、1959年と1966年の沖縄の旅の写真集です。岡本太郎の鮮烈な写真と、パートナーの岡本敏子とその甥で岡本太郎記念館館長の平野暁臣の解説で構成されています。
また、それぞれの写真には、岡本太郎著『沖縄文化論―忘れられた日本』からの引用文が添えられています。
1959年11月16日に那覇に降り立った岡本太郎は、沖縄本島各地を精力的に取材してまわりました。那覇、糸満、コザ、読谷、辺野古、大宜味、久高島など本土復帰前の貴重な写真が収められています。
そして、石垣島に向かう際には、宮古島にも寄港し、わずか数時間の間にも、いくつかの写真を撮っています。岡本太郎は、初めて訪れた1959年11月25日の宮古島の様子をこう記しています。

この島は数ヵ月前、連続台風で徹底的な被害を受けた。島全体が塩水をかぶって、樹も草も真赤になったという。農作物はほとんど全滅し、住民は有毒植物であるソテツを食って飢えをしのいでいる。俗にソテツ地獄という惨憺たる状態である。港にのぞむ岡の上には、屋根が飛んで、骨ばっかりの荒廃した大きなお寺が建っている。ふと戦国時代を思わせるイメージだ。 (岡本太郎『沖縄文化論』より)
 
岡本太郎は写真の専門家ではありませんが、本書に収められている写真の迫力はさすがです。彼の眼を通して、沖縄がどんな風に見えたのか。人々の表情や市場の活気、南国の植物のうねり。沖縄を「それは私にとって、一つの恋のようなものだった」というように、全身からこみあげる生々しい衝動が感じられます。その一方で、岡本太郎から沖縄への片思いのような距離と憧憬を感じる写真もあります。

ここの人たちはお婆さんでも若い娘たちでも、私がカメラを向けると、すうっと自然に向きを変えてしまう。 まったく自然に、嫌がるとか拒むとかいうはっきりした態度ではない。 そんな悪意や敵意はみじんも感じさせない。 恥ずかしいのだろうか。 台風の近づくのを予感して、葉を閉じてしまう植物がもしあるとすれば、そんな感じなのだ。 ちょうどそのように、こちらから激しい視線を投げかけようとすると、この島の実体はすうっと捉えがたく、こちらの鋭さに応じて逃げてしまう。 (岡本太郎『沖縄文化論』より)
 
稀代の芸術家・岡本太郎が触れた沖縄をヴィジュアルに体感できる一冊です。そして、じっくりと写真の世界を堪能したら、ぜひ『沖縄文化論―忘れられた日本』を読むこともおすすめします。写真に負けないまっすぐでセンセーショナルな岡本太郎の言葉で、沖縄を感じることができると思います。欲をいえば、もっと宮古島に滞在して、宮古を爆発的に表現してほしかったですね!(笑)。

〔書籍データ〕
岡本太郎の沖縄
著者 /岡本太郎=撮影 平野暁臣=編
発行/小学館クリエイティブ
発売日 / 2016/5/1
ISBN /978-4-7780-3607-2

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