『続・ロベルトソン号の秘密』 第二十一話「トラウツ博士、宮古へ」 その一

atalas

2017年01月20日 12:00



前回見てきたように、1936(昭和11)年に稲垣國三郎が(久松五勇士の式典に参加のため)宮古を訪問した際、この年が博愛記念碑の設置(1876年)から60年になるので、何か行事をしてはどうかと提案したのを機に、下地玄信らを中心とした大阪の沖縄関係者が中心となり、準備が進められました。玄信は、船場にある自分の計理士事務所を60周年事業の準備事務所として提供、また大阪の社交界で築いた人脈を活用して、政府にも働きかけるなど、式典開催のために精力的に動き回りました。その結果、11月13日から15日にかけての3日間、宮古諸島を挙げての一大イベントが開催されることになったのです。

とはいえこの式典に対するドイツ側の反応はどうもぱっとしなかったようで、当初は在京のドイツ大使館に、駐日ドイツ大使あるいは代理の外交官の出席を要請したのですが断られ、代わりに沖縄を管轄地に含む神戸のドイツ総領事館に館員の出席を求めますが、開催地が遠方かつ離島という事情もあってか、やはり断られてしまいます(なお神戸には1874年以来ドイツの領事館があり、西日本を管轄していましたが、1995年の阪神大震災で建物が被害を受けたため、大阪に移転しています。現在は大阪・神戸ドイツ総領事館という名で、梅田スカイビルの35階に事務所が入っています。詳しくはこちら)。

このように既に準備段階から、日本側が60周年式典にずいぶん乗り気だったのに対し、ドイツ側はかなり消極的で、結果的に宮古に赴いたドイツ側の関係者は、これから紹介するトラウツ夫妻のみとなってしまいます。なぜドイツ側が式典参加に消極的だったのか、という疑問ですが、そもそも考えてみればこの式典、救助されたドイツ人やドイツ政府の側から何かお礼をしたいとか、宮古を訪問したいとか言って企画されたものではなく、救助した宮古(日本)の側が、自分たちの先祖をある種「自画自賛」的に持ち上げる形で計画していているので、式典のあり方にそもそも無理な部分があるとも言え、ドイツ側がいわば「引いて」しまったのも仕方ないようにも思われます。

そんなわけで、式典は日本側主導の「お祭り」として企画、実行されていき、実際に11月14日の式典の日本側出席者は、外務省の二見事務官、沖縄県学務部長、宮古支庁長、那覇地方裁判所長、その他県や那覇市の関係者と膨れ上がります。また代読された祝電も、時の総理大臣廣田弘毅をはじめ、内務大臣、外務大臣、文部大臣、沖縄県知事という錚々たるもので、いかに日本側(というか玄信など企画者たちが)が式典に気合いを入れていたかがわあります。これにはさすがにドイツ側も、誰も宮古に人を送らないという訳にはいかなかったようで、結局、京都ドイツ研究所の所長をしていたフリードリヒ・マクシミリアン・トラウツ博士(Friedrich Maximilian Trautz,1877-1952)を政府代表として派遣することにします。

このトラウツ博士、南ドイツの町カールスルーエ(Karlsruhe)の出身で、軍人を志しますが、折しも日露戦争で日本が勝利したことに感銘を受け, 1906年にベルリンの軍事学校に入学とともに日本語の勉強も始めます。第一次世界大戦に従軍しますが負傷して除隊、1919年からはドイツ内務省に勤務します。その後は日本研究に打ち込み、1921年に日本の卒塔婆に関する博士論文で博士号を取得、その後1926年までベルリン民族学博物館の学術補佐を務めました。1926年には、この年ベルリンに新設された「日本研究所」の所長になっています。その後1930年に来日、京都に住んで、松尾芭蕉や高野山の根本大塔の研究に取り組みます。1934年、自らの手で「京都ドイツ研究所」(Deutsches Forschungsinstitut in Kyoto, 日独文化研究所とも言う)を設立し、その所長に就任、1939年に帰国するまで研究所を運営しました。帰国(公式には健康上の理由とされているが、諸説あり)した後は、大学での仕事のオファーもあったようなのですが、これを断り、退職者として余生を過ごしました。

さて、大使館の依頼を受けて、ドイツ政府の代理として宮古での式典に参加したトラウツは、京都に戻った後でこの出張の報告書を執筆し、大使館に送っています。その写しが、彼の遺品(いわゆる「トラウツ・コレクション」と呼ばれるもの)の中に収められていましたので、今回からしばらくこの報告書に従って、トラウツ夫妻、それに同行した下地玄信や江崎悌三夫妻らの足取りを追ってみましょう。

まず簡単に旅程を見ていきますと、トラウツは11月9日に京都を出発し、大阪で下地玄信と合流、その後、陸路で福岡に向かい、ここで(同じく式典に参列する)九州帝国大学教授の江崎悌三(昆虫学が専門。江崎については第二話を参照)とその夫人(ドイツ人)と合流しの出迎えを受けた後、空路で那覇に向かいます。11月10日の午後から11月12日の午後まで那覇に滞在した後、大阪商船の湖北丸で出航、宮古には11月13日朝から15日の夕方まで滞在して、湖南丸で那覇に戻ります。11月16日の朝から18日の午後まで再び那覇に滞在し、帰路は大阪商船の台南丸に乗って21日に神戸に帰着しています。

なお、トラウツ夫妻には、京都大学で理学を収めた津田松苗が同行していて、ドイツ語のスピーチなどは彼が日本語に訳していたようです。また九大の江崎悌三はドイツ留学の経験もあり、語学に堪能でしたし、夫人はドイツ人でしたから、言葉の面では不自由のない道中だったと考えられます。

出発2日前の11月7日、外務省の二見事務官と、大阪在住の沖縄出身者で『大阪球陽新報』を発刊していた眞榮田勝朗が、一足早く船で那覇に向かっています(航空機にあまり荷物を積めなかったため、荷物の一部を眞榮田氏に預かってもらった)。そして9日の朝、京都駅を出たトラウツ夫妻は、大阪で下地玄信と合流。(仕事の都合で)式典の影の立役者ながら宮古に行くことができない稲垣國三郎ほか、実行委員会のメンバー、報道関係者、沖縄出身者らに見送られ、万歳の叫びの中を西に向けて出発します。この日は下関の山陽ホテルに宿泊、翌10日は、博多駅で江崎夫妻と合流し、10時50分の飛行機(日本航空輸送株式会社の福岡~那覇~台北を結ぶ、いわゆる「内台航路」)で福岡第一飛行場(通称「雁の巣飛行場」、同じ1936年に開港したばかりの空港)を発っています。

一行は那覇の飛行場に14時07分に着陸します。船で先発していた実行委員会のメンバー、沖縄県や那覇市の行政・教育の関係者、教員たち、多数の報道陣、さらに数百人の小学生の出迎えを受けた後、午後4時頃に宿舎の楢原旅館に車で到着しています。なおこの楢原旅館は、那覇市西本町1丁目10番地にあったとされ、トラウツはここに11月10~12日の2泊と,帰路の11月16~18日の2泊、計4泊しているのですが、じつはこの旅館、かつてロシア出身の東洋学者で宮古方言の研究も行ったニコライ・ネフスキー(Nikolai Aleksandrovich Nevsky, 1892-1937)も宮古への途上で投宿しているという、宮古と縁の深い宿です。風月楼の経営者だった楢原鶴吉が、浅田旅館を引き継いだもので、現在の明治橋の東側の付け根の北側辺りにあったと言われています。なお楢原氏が元々経営していた風月楼の方は、国場川に浮かぶ小島に建っていた昔の琉球王府の倉庫「御物城(おものぐすく)」を引き継いだものです(現在この敷地は米軍施設の中にあるので立ち入りができません)。
在りし日の風月楼の写真はこちらをご覧ください。

那覇滞在中のトラウツは、精力的に各地を見て回っています。到着日の11月10日に、波の上神社(と境内で開催中の国防展示会)を見学、さらに護国寺にも赴き、かつて1846年から8年間那覇で布教活動をしていたイギリス人(但し生まれはハンガリーでユダヤ系)の宣教師ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim, 1811-1870)の記念碑なども見学します。翌11日は那覇市役所、沖縄県庁などの役所を訪問後、真玉橋を見学(当時は軽便鉄道が走っていたと記されています)、午後は首里城に向かい、尚泰王の弟、尚順男爵の出迎えを受けました。尚家には、1876年にドイツ皇帝フリードリヒ1世から(ドイツ船救助の感謝のしるしに)贈られたとされる望遠鏡が保管されており、トラウツはこれを見せてもらったそうです。また首里城内に博物館があり、沖縄出身の沖縄研究者、島袋源一郎(彼がこの博物館の開設と所蔵品の収集に尽力)の案内を受けて館内を見学しています。夕食は、県と那覇市,教員組合の招待を受け、関係者38人と会食をし、この場でスピーチも行っています。さらに食事の後は、観劇に出かけており、この日は「首里城明け渡し」(1879年の琉球処分)をテーマとした芝居が演じられたとされています。

翌12日も、那覇市内を散策。書籍や衣類、動植物、農産物や畜産物についての記述があることから、この日は市場を回っていたものと推測されます。そしていよいよ、夕方4時の湖北丸で、宮古に向けて出航。宮古でも、超多忙なスケジュールをこなすことになるのですが、続きはまた来月。

[20170316改訂]

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