Frohes Neues Jahr! (フローエス ノイエス ヤー) ≒ 謹賀新年!
皆さま、新年あけましておめでとうございます。本年、2016年はドイツと宮古の関係にとって節目の年になります。というのも今年は、「ドイツ皇帝博愛記念碑」が1876(明治9・光緒2)年に建立されて140周年、そして1936(昭和11)年に「博愛記念碑60周年式典」が挙行されて80周年を迎えるからです。そこで今年は、エドゥアルト・ヘルンスハイムが宮古を出帆してからの動き、特に「博愛記念碑」が宮古島に設置される経緯、さらに1936年の60周年式典開催の様子などをクローズアップしていきたいと考えています。どうぞよろしくお願いします。
【ロベルトソン号の乗組員が宮古を出航後に到着した台湾の港町、基隆】
なお昨年はお陰様で、『明治大学教養論集』509号に、「宮古島(沖縄県)におけるドイツ記念碑建立(1876年)60周年記念祭,1936年11月14日」という論文を発表することができました。これは「博愛記念碑」60周年記念式典にドイツ政府代表として参加したF.M.トラウツ博士が在京のドイツ大使館に提出した報告書の写しを翻訳したものです。
当時京都に住んでいた「ト博士」ことトラウツ博士が、大阪で下地玄信(宮古島出身の計理士、式典の実行委員長)らと、福岡で江崎梯三博士と合流し、空路で那覇へ、さらに大阪商船の「湖北丸」で宮古島に赴くまでの足取りや、現地での式典の様子(特に島民による歓待の様子)、また復路の那覇滞在の様子などが描かれていて、当時の沖縄の様子を外国人の目で捉えた貴重な資料と言えます。宮古島市立図書館の北分館にも寄贈しましたので、ご興味のある方はぜひお手に取っていただけたらと思います。
さて、話は変わりますが、去る1月10日のNHK
「のど自慢」は宮古島市で開催されたそうですね。宮古で初めて「のど自慢」が開催されたのは復帰前の1967年のことと聞いていますが、その映像が、宮古を写した最古の映像であるとこれまで考えられていました。
しかし、1936(昭和11)年11月の博愛記念碑60年祭に際して、その記録映像が撮られており、フィルムがボン大学で見つかったことから、これこそ宮古島最古の映像資料ではないかと、最近の研究で指摘されています(詳しくは片岡慎泰、宮国優子:
「宮古島最古の映像に関する一考察」(pdf)、日本大学文理学部人文科学研究所『研究紀要』、89号、2015年をご覧下さい)。今後も、トラウツ博士が遺した資料を手掛かりにすれば、宮古に関する様々な事実が明らかになるものと期待されますし、私も少しでもこの分野の研究を進めていけたらと考えています。当ブログでも、まだまだ奥が深いロベルトソン号の秘密に、様々な角度から迫っていきたいと思います。
昨年は一年間かけて、エドゥアルト・ヘルンスハイム船長の生い立ちやロベルトソン号の宮古漂着の経緯、乗組員たちの島での滞在の様子について、詳細を追ってきました。乗組員一行は、宮古島に滞在中、常に監視のもとに置かれ、また慣れない土地での食文化や生活習慣の違いにも悩まされていましたが、他方で彼らは、「ヌイチャン」をはじめ応接に当たった島の人々と友好的な交流もしていました。そしてヘルンスハイム船長が後に、これらの経緯を香港のドイツ領事館を通して本国の外務省に報告したこと、さらに彼が自らの体験に基づき、ロベルトソン号の漂着と島民による救助・保護のいきさつを一冊の本(これが、旧上野村が翻訳し出版した「ドイツ商船R.J.ロベルトソン号宮古島漂着記」です)にまとめたことがきっかけとなり、謝恩の記念碑の設立が検討されることになります(とはいえドイツ政府は、宮古島の島民に感謝の意を表する、という口実のもとに記念碑を建てることで、この地域でのドイツの存在感を誇示しようとしたのでは?と私は見ています)。
次回以降のブログでは、記念碑の設立経緯も見ていきたいと思いますが、その前に今日は1873年8月17日に平良を出帆した、エドゥアルト・ヘルンスハイム船長のその後についてひと言、いや二言三言。
様々な論文で私は繰り返し述べていることですが、エドゥアルトは確かにドイツに帰ってはいますが、決して「直帰」したわけではありません。本当の意味での彼の帰国は、18年におよぶ大いなる「寄り道」の後になってようやく行われたのです。この点はかなり重要ですので、どうかお間違えのないようにしてほしいです。
前回取り上げたように、彼ら乗組員のために出航前夜(1873年8月16日)には盛大な送別会まで開かれ、宮古の役人やビスマルクを祝して何度もが交わされた後、一行は翌17日、宮古の役人から贈与された官船で島を出航します。そして台湾北東部の港町、基隆(キールン)に到着します。ただこの船でさらに航海を続けるのは困難と判断したらしく、ヘルンスハイムはここで船を乗り捨て、イギリス船に乗って香港へ向かいます(当時は、1842年の南京条約により香港島が、また1860年の北京条約により九龍半島南部の市街地が清朝からイギリスに割譲されていた。後に1898年から、「新界」と呼ばれる深圳河以南・界限街以北の九龍半島+235の島が加わってイギリスによる99か年の香港租借が始まったが、1997年に中国に返還された)。
なお、中国人の水夫を含むロベルトソン号の他の乗組員がその後どうなったのか、基隆で別れたのか、船長とともに香港に渡った人がいたのか、怪我人はどうなったのか、などについては不明です。船長以外の生存者7人のその後の人生についても、大いに気になるところではあります。
【基隆市内にある基隆忠烈祠。旧基隆金刀比羅神社で灯篭や狛犬、妖しい鳥居が残っている】
エドゥアルトは香港に着くと、宮古での海難事故と島民による救助の顛末を当地のドイツ領事に報告し、在香港ドイツ領事はこれを1873年9月2日付けでベルリンの外務省に報告しています。その後、彼はシンガポールに渡り、ロベルトソン号に代わる次の船、ケーラン号(Coeran)を購入、翌1874年にはこの船を使って太平洋での交易に乗り出します。そしてこの先、健康上の理由で貿易の第一線から遠ざかる1892年3月まで、18年間にわたって主にミクロネシアとメラネシアで交易に携わることになります。
この間に彼は1883年と1886年の2回しかヨーロッパに一時帰国していません。ですから様々な文献に書かれている「宮古島を出た船長は無事に故郷ドイツに帰りました」と言う記述は、全くの間違いとは言えないものの、ヘルンスハイムのその後の実態は、この記述から想像されるものとはかけ離れたものだった点に十分注意が必要です。
何しろ彼は(宮古漂着前の)一回目の太平洋縦断航海の途上で、いわゆる「南洋」地域にまだ大きなビジネスチャンスが眠っていると考え、この地域での貿易に参入しようともくろみながら福州で茶葉を積み、二度目のオーストラリア行きに出発した直後に宮古に漂着しています。ですから「早く宮古島から出たい」という彼の希望は、後に美談化されたような「郷愁の念を抑えきれず」などというセンチメンタルな思いによるのでは全くなくて、一日も早くオセアニア地域に乗り出して一儲けしたい、という実に打算的な思いから生じたものでした。ではそんな「山師」ヘルンスハイムが、その後どんな活躍(暗躍?)をするのか、この点についても、今後の連載の中で紹介できたらと思います。
【基隆忠烈祠 wikipedia】
1912年(明治45年)3月9日、「基隆金刀比羅神社」の社名で創建された。1915年(大正4年)11月7日、能久親王・開拓三神・天照大神が増祀され、基隆神社に改称された。1936年(昭和11年)3月25日、県社に列格した。
戦後、社殿が取り壊され、跡地には基隆市忠烈祠が建てられた。