『続・ロベルトソン号の秘密』 第七話

atalas

2015年11月20日 12:00



連載開始から半年経ってもまだエドが宮古島に上陸していないという、あまりに長大なスケールの本シリーズ「続ロベ」に対し、「もっと巻いて(簡潔にまとめて)!」という声が日増しに高まっています。が、それを言うなら我らが(?)エドこと、エドゥアルト・ヘルンスハイムこそ、一日も早く「南洋」での交易に参入したいのに、漂着した宮古島に37日間も足止めされて悶々としていた当事者なのですから、そんなエドの気持ちを汲みながら、どうかあまり焦らず、ゆっくりとお付き合いいただけたらと思う次第です。

というわけで、今回はエドの救出に至るまでの詳細をご紹介するとともに、彼の島での滞在日数を再検証したいと思います。

1873年7月11日に宮国沖で破船し、救命ボートも壊れて絶体絶命となったヘルンスハイム船長が、壊れたボートを修理していた時のこと。彼は海岸に人がいることと、陸の方からカヌーが寄って来るのを見つけ、大喜びします。しかし、折からの高波と周囲の堡礁が邪魔をして、カヌーは難破船に近づくことができず、引き返してしまいます。この時、裏切られた気持ちを抱いたロベルトソン号の乗組員たちは島民をののしり、悪態をつきまくったようです。ヘルンスハイム自身は、この危険な状況ではカヌーが引き返したのも無理はないと考えますが、やはり落胆は激しく、彼はこの晩に故郷の家族のことを考えながら、最悪の事態も想定します。そんな時に彼が目にしたのが、島民が焚いた「かがり火」でした。そのくだりを、ヘルンスハイムの日記を私自身の和訳を通して紹介します。

朝が来る前に、人生の終焉が訪れるかもしれないと私は初めて考えた。そして私の親族の身になってみた。私が死ねば、彼らは私の安否の知らせをずっと待ち続け、最後には何ら消息もないまま希望を捨てざるを得ず、私が亡き人になったものと嘆き悲しむことだろう。だがその時だった、遠くの岸辺に灯りが見えるではないか、その灯は次第に大きくなり、すぐに光を輝き放ち始めた。間違いない、これこそ誰かが我々のために灯りをたいている証拠である。彼らは我々を案じてくれている。だからきっと助けがやって来るに違いない。少なくとも私はそう考え、一時は沈みかけた気持ちが再び快活になってきた。

この部分ですが、故郷の家族を心配する最中にかがり火に気付く、というタイミングが出来すぎなのでは?と勘繰りたくもなるのですが、とにもかくにもこのかがり火によって島民がロベルトソン号の乗組員を心配していることを知ることができ、ヘルンスハイムが大いに勇気づけられたのは間違いないでしょう。

夜0時に就寝したヘルンスハイムは、翌12日の朝4時には起床すると、朝8時までに救命ボートの修理を終えます。すると陸から2隻のカヌーがやって来て、今度はロベルトソン号の間近に到達します。ロープを下すと、ひとりの島民が甲板に上がって来て、彼は乗組員にキビと水を手渡します。ヘルンスハイムは、これは島民が自分たちと友好的に接しようと思っている証拠だと解釈し、これらを喜んで受け取りました。

とは言え、困ったのは言葉が通じないこと。はじめ、救助に来た島民は、手紙を書いてくれればそれを陸地に持っていく、と手ぶりで示しますが、船がいつまで持ちこたえるかわからないうえ、せっかく助けに来た島民を返すのは惜しいので、これを機に乗組員全員を船から脱出させ、陸に向かうことにします。救命ボートを下ろし、ここにけが人を乗せ、その他の乗組員は海へ飛び込んでカヌーまで泳ぎ、陸へ向かいました。
※「顛末書」の手書き写本(古本として入手したもの)

こうして台風の最中に2名の命が失われたものの、残る8名は(ドイツ人6名、中国人2名)無事に宮古島で保護されることになったのです。ここから8月17日までの37日間については、和訳されたエドの日記『ドイツ商船R. J. ロベルトソン号宮古島漂着記』(上野村役場、平成7年)に詳しく書かれていますので、こちらを参照いただくことにして、今日は最後に、エドの宮古島での滞在日数について、宮古島側の資料をもとに検証してみたいと思います。

ロベルトソン号の乗組員の宮古島滞在期間は、エドが日記の中で(おそらく誤って)記載した「34日間」が独り歩きし、これが1876年建立の博愛記念碑にも記載されたため、誤った認識が定着してしまっています。
しかし、くりかえしで恐縮ですが、エドたちの本当の滞在日数は37日間です。エドの日記では、彼が救助されたのは1873年7月12日、船をもらって島を出航したのは8月17日となっています。当時の7月は現在と同様31日間ありましたから、合計すると31-11+17で計37日間となります。

この点については、エドの書き間違いの可能性も排除できないことから、1933(昭和8)年に宮古郡教育部会が島の史料をもとに作成した『獨逸国商船遭難救助並仝国皇帝建碑顛末書』(以下『顛末書』と略します)からも検証したいと思います。それによれば、宮古島の島民がロベルトソン号の乗組員を救助したのは明治6年(当時琉球王府が採用していた清の元号では同治12年)の旧暦(太陰暦)6月18日、島の在番が王府の官船を与えて一行を出航させたのは旧暦の閏6月25日となっています。

この点、日本史に詳しい人なら、新暦の採用された1873(明治6)年になぜ旧暦が?と疑問に思うと思いますのっで、ちょっと説明しておきます。結論から言いますと、内地で既に導入されていた太陽暦は、宮古を含む琉球藩ではこの時にはまだ使われておらず、従来通りの太陰暦が続いていた、ということです。
実は琉球王国は1872(明治5、同治11)年に明治政府により一方的に「琉球藩」に格下げされ、外交権を接収されたのですが、内政的には沖縄は引き続き(1879〔明治12、光緒4〕年の琉球処分まで)琉球藩王尚泰の支配下にあり、清との朝貢関係も続いていました。つまり、社会制度や慣習は従来の琉球王国のそれを引き継いでいたため、琉球藩を除く内地で1873年(まさにロベルトソン号漂着の年!)に導入された太陽暦(旧暦明治5年12月2日の翌日が新暦明治6年1月1日になった)は、宮古には及んでいなかったのです。
ちなみに、この暦の仕組みについても、エドゥアルトは8月13日の日記中で島民から教えを受けたと語っています(なおこの時は、青銅製の鐘のある寺院を訪問したと書いています)。

さて、この太陰暦、新月から次の新月までをひと月とするのですが、その間隔が平均して約29.5日のため、そこでは1年=12ヶ月は、一か月に29日しかない「小の月」と、30日ある「大の月」とに分かれていました。
ロベルトソン号遭難の年の6月は小の月で、29日しかなかったようです。また太陰暦の1年は約29.5日☓12ヶ月=約354日であり、太陽暦の1年より約11日短いため、そのまま使用していては暦と季節がずれてしまいます。このずれを調整するために挿入されていたのが、閏月(うるうづき)で、エドの滞在していた期間の後半2/3は、旧暦の明治6(同治12)年6月に続く閏6月に当たります。

ということを踏まえて旧暦から滞在期間を算出すると、6月の滞在日数が29-17=12日、閏6月は25日で合計37日間となり、エドの記述とぴったり一致します。よって彼の滞在日数は間違いなく37日間と見てよさそうです。

そんなわけで、この『顛末書』とエドの日記とを比較・対照することで、双方の記述の信ぴょう性を裏付けることができるものと期待できます。何しろエドの日記と、事件後60年経ってから当時の史料をもとに作成した『顛末書』は、全く別の所で作成されていて接点がないので、エドと島民とが示し合わせて嘘をついているとは考えられません。これからも、双方の記述が一致する点をもとに、ロベルトソン号にまつわる様々な秘密を解き明かしていきたいと思います。

今回のブログ記事執筆に当たり、旧暦についての情報を国立天文台さんから頂戴しました。たんでぃがーたんでぃ。
暦に関する質問/旧暦ってなに? 自然科学研究機構 国立天文台

参考資料
『獨逸国商船遭難救助並仝国皇帝建碑顛末書』
宮古郡教育部会発行兼編集 1935(昭和10)年刊行
国会図書館デジタルコレクション

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