2019年09月20日 14:34
こんにちは。一番座より片岡慎泰です。
今回は、柴田勝(しばた まさる)の巻の第1回と第2回に続き、アニメNEXT_100の中間報告について考察を加えたいと思います。ただし、現段階では「仮説」というか「妄想」レベルなので、その点ご容赦ください。
凹天の回想録『映画評論』1934年七月號所収(映画評論社、1934年)「日本最初の漫畫映畫の思ひ出」39ページには、「漫畫映畫乃ち其頃の『凸坊の線畫帳』は日本で其前に誰もやつた話を訊かないところをみると私が一番最初だつたかもしれない」「第一回作品『芋川椋三玄關番の卷』他二本はキネマ倶樂部で封切りされました」とあります。
ここから、2017年以前には、凹天のシネマ倶樂部で上映された第1作との結論を出しています。それに対し、アニメNEXT_100は、新たな記録を提示し『凸坊新畫帖、芋助猪狩の巻』が劇場公開第1作だとしました。
しかし、果たして1917年1月公開作品は、その作品だけだったのでしょうか。
確かに『キネマレコード』の記録では、シネマ倶樂部の2月に上映の「第二次線畫トリツク」作品が『凸坊新畫帖 明暗の失敗の巻』、3月に上映の「天活第三次の線畫トリツク」作品が『芋川椋三 玄關番の卷』とあります。この記録は、何人かのアニメ研究者の議論の中心になったところでした。
まず、2013年バイエルン州立図書館に勤めるフレデリク・S・リッテンが、『芋川椋三玄關番の卷』が第1作目という従来の定説に、異を唱えています。リッテンは、当時の上演記録を丹念に調べて、『キネマレコード』の公開リストから『凸坊新画帖明暗の失敗』であったと結論づけています。Frederick S. Litten: Some remarks on the first Japanese animation films in 1917 (http://litten.de/fulltext/ani1917.pdf)。確かに、『キネマレコード』大正六年參月号の140ページには、「凸坊線畫帖明暗の失敗(一卷)[ト]第二次線畫トリックで椋三、猪を生取りにする可く落穴を作って反って大失敗を惹き起す。上期キネマ」との記述。もっとも、リッテンは、最初の(一卷)を「最初」と読み誤ったかと。なぜなら、その後に「第二次」とあるということは第一次を前提とした記述。「一巻」とは、当時のフィルムの単位です。日本語、そして日本で映画公開の順序を知っているなら、ここから第1次作品があったことを想定できます。
加えてリッテンは、『芋川椋三玄關番の卷』を4月公開としていますが、上記に挙げた理由から、これも誤りです。『キネマレコード』大正六年五月特別號240ページに3月上映作品として、「「芋川椋三玄關番の巻 Mr. Imokawa’s Janitor(天活)天活第三次の線畫トリックだ。こういふ試みは嬉しい、タイトルが馬鹿に氣に入つた。巧妙である」との批評が掲載されています。
もうひとつ『キネマレコード』とともに同時代に発行された貴重な公開映画資料の双璧とも言える『活動之世界』の「毎月封切フイルム一覧」では、このちょうどこの時期は「内地映畫」に「外国映畫」というカテゴリーしかありませんでした。「内地映畫」には、舊派と新派、「外国映畫」には、實寫と教育寫眞、▲喜劇、▲線畫と影繪、▲人情劇、▲社會悲劇、▲正劇、▲連續寫眞です。われらが凹天の作品は、そこから外れていたためと考えられます。当時の外国映画の隆盛ぶりが分かろうというものです。日本商業アニメーションの別枠が設けられたのが、『活動之世界』大正六年九月號163ページに線畫悲劇を冒頭にもってきた時でした。その作品は幸内純一(こううち じゅんいち)の現在では『なまくら刀』の名前で知られている『塙凹内名刀之巻』です。この作品は、評判が良く、『活動之世界』の同号に載った評は、現時点では、日本商業アニメ―ション最初というのが定説です。
「日本で線畫の出來る様になつたのは愉快である、殊に小林商會の『ためし斬』は出色の出來榮えで、天活日活のものに比して、一段の手際である、殊に題材の見付け方面白い、日本の線畫は成るべく日本の題材で行きたい『試し斬』といふ純日本式題材を捉えて來て、之を滑稽化した所に、凸坊式面白味が溢れて居る(略)」。
ここから『芋川椋三玄關番の卷』は、『活動之世界』記録上第3作目で3月に公開された作品ということが分かります。この記録を当然アニメ研究者は知っていたはずで、何冊かの著作でも述べられていますが、この記録に関し、議論がこれまで起きなかったのか、門外漢の私としては、不思議で仕方がありません。凹天やその遺品に関し、なにか問題やタブーでもあったのでしょうか。柳田國男(やなぎだ くにお)の遺した資料が、成城大学と筑波大学で奪いあった裏にある暗躍を思い起こせさせます。また、宮澤賢治の私生活が、遺族である宮澤清六が亡くなるまで、秘匿(ひとく)されていたことも加えてもいいかと。今後アニメ研究史が進めば、日本の商業アニメーション映画公開時の人間模様をふくめ、われらが凹天に関する貴重なエピソードが明らかになることを期待したいところです。
では、なぜ今回「仮説」を述べるのか。それは、シネマ倶樂部の後に、上映された有樂座の館としての興業のやり方を考えると、そういった疑問が湧くからです。有樂座は、イベントをよく行っていました。
例えば、1909年1月4日付『讀賣新聞』には「歌劇大會」が1月9日に晝夜二回開演との広告。1909年1月13日付『讀賣新聞』には、1月15日、16日、17日に「子供デー」、同年3月1日付『讀賣新聞』には、「第1回少年談話大會」が3月6日7日開かれるとの広告。その後も、「活動写真寫眞大會」、「子供日」や「東西名人會」、「女流名人會」などが開催されます。
そしてここで、特記しておきたいのは、凹天が日本初のアニメーターとしての栄誉を担った前年の有樂座に開催された「凸坊會」。
1909年7月13付『東京朝日新聞』の広告では、「お馴染みの凸坊畫帖にアルコール先生即ちチヤツプリン滑稽喜劇數番を加えて是を楠井茶風鈴外數名が面白可笑しく説明しますから坊ちやん嬢様は勿論大人にも老人にも捧腹絶倒の愉快極まる喜劇大會で御座います」。
1909年7月14日付『讀賣新聞』の記事をここで引用しておきます。「藪入の十五日から向ふ五日間有樂座に催さろう、凸坊大會と云うは例の凸坊畫帖や喜劇のみを合せて十五フ井ルム頗る付に振つた試みである、凸坊畫帖の方は評する迄もない處、喜劇では『戦の夢』や『夜通し轉宅』や『ホルムより強し』が 面白い夏の夜(毎日午後六時半会場)を腹の皮よるのも一與であらうとす〻めするが、唯少年少女達にこの面白い試みが飽ずに見通せればい〻がと夫のみが心配である(レ)」。
当時、藪入りは、1月15日と7月15日。ここでは、後者です。津堅信之著『日本初のアニメーション作家 北山清太郎』(臨川書店、2007年)によれば、この「凸坊會」が、北山清太郎(きたやま せいたろう)を刺激。翌年日本アニメーターの創始者のひとりのきっかけになったことを付言しておきます。
さて、いまここで問題にしている有樂座恒例のイベントといえるアニメーション映画大会は、1917年1月10日付『東京朝日新聞』の広告によれば、1月15日と16日。 「天活特別披露」という見出しで、有樂座で「天活凸坊大會」が開催されます。
残念ながら、ここで上映作品すべてが精査されたわけでなく、現段階では分かっていません。そこで、先述のような推測が成り立つわけです。シネマ倶樂部では、凹天の作品が現段階の記録によれば1作品だとしても、有樂座では、「『芋川椋三 玄關番の卷』他二本」のうち、複数公開されたとの可能性が否定できないことだけは記しておきたいと考えます。
ここで、柴田勝の実人生に戻ります。1919年には天活も倒産。柴田勝は、国活(國際活映株式會社)に入ります。柴田勝は国活で撮影技師として働きながら、時間があると淺草六区に日参。
観たのは、映画は当然ですが、歌舞伎、新派、オペラ、寄席、琵琶など。1920年、田村宇一郎(たむら ういちろう)監督作品『松本訓導』では、淺草大勝館での興行成績が良かったので撮影スタッフは表彰状を貰います。
「松本訓導劇撮影ニ際シ格別尽力シ成績良好ニ付特ニ慰労トシテ金五円給食シ之ヲ表彰ス、大正九年四月十二日 国際活映株式会社取締役会長岡田文次」。
ここで、柴田勝に大阪行きの話がもちこまれます。大きな要因は、国活の極度の営業不振。それは、当然、撮影についても緊縮ということになります。柴田勝は、国活の将来に不安をもち始めていました。
そこに、1920年にできた帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)で仕事をしないかという話が舞い込みます。江戸っ子気質の柴田は、大阪行きを悩みます。すでに、これも同年設立された東京の松竹(松竹キネマ合名會社)入社の話が進んでいたことも大きな要因です。
吾妻橋際の伊豆熊という鰻屋で、天活、国活などで監督をした田村宇一郎からこう切り出されます。
「私が駒形劇場の事務をしている頃、大森君のお父さんには種々と援助を受けたのでその恩返しといっては何んだが現在の国活に大森君を置くのは気の毒だ。そこで将来性のある帝キネという新天地へ行って思い切り働いてください」。
「翌日は田村氏が家へ来て母に私の大阪行きについて話をされた。そこで決心して二十八日夜、田村氏と一緒に太田専務の家に行くと『私は国活の重役という立場上、正式に大森君帝キネへ行ってくれとは言えないが是非たのむ』といわれた。先輩や同僚に対して内密で大阪に行くのは厭だったがたってと言われるので承知した。
大阪行き当日の日記。「いよいよ今日は大阪行の日だが雨があんまり烈しく降るので二の足になったが思い切って断行することにした。九時半頃工場に行く。諸氏に会って別れをつげる。女の助手が入社していた。これが国活の別れと思うと何んとなく悲しい。一時頃帰宅。酒を少し呑む。夕方湯に行き、靴、帽子、ネクタイを買う。夜渋谷から兄が来た。七時半に家を出て東京駅へ行く。母も後から人力車で来た。田村氏が見送りに来てくれた。八時二十分発の鳥羽行に乗る。汽笛一声故郷をあとに」。
この年の年末には私生活にも変化が起きます。それは結婚。相手の女性の姓は柴田。大森勝が柴田勝と名乗ったのは、妻方の姓をいつの頃からか選んだということが分かります。そのいつというのは、現段階の調査ではなんとも。大阪は誘惑の多いところという周りの勧めもあり、お見合いで柴田という女性に好意はもっていたものの、もう少し仕事本意と考えていた柴田勝ですが、ここで結婚を決めました。でも映画人として、結婚式の日も柴田勝は仕事をしていました。
1921年は、いろんな作品を撮影技師として、順調に撮り続けました。大阪、京都、奈良で印象が強かったのは、十日夷で芸妓を乗せた宝恵駕籠(ほえかご)、落語で情景を想像していた初天神、奈良の三笠焼き、東大寺二月堂のお水取り、大阪堀江遊郭の此花踊(このはなおどり)、京都祇園の都踊り、大阪南地の芦辺踊り、京都先斗町(ぽんとちょう)の鴨川踊り、京都南座の顔見世でした。
一番座からは以上です。