第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

atalas

2019年05月17日 18:13



まずは、毎度おなじみ。裏座から宮国でございます。宮古ももう梅雨の時期ですね。

この時期の宮古といえば「湿気」。6〜8月の平均湿度は、83%だそうです。数字にされると、衝撃が走ります。



島にいる頃、私は、特段不具合は感じなかったのですが、それは子どもだったからかもしれません。あと、太陽光線が半端ないので、それどころじゃなかったとも言えます。

島の子どもたちのアイラインをしたような縁取りのある目元や眉毛を見ていると、湿度&太陽光線対策として発達したのだろうな、と思うのです。それは、どこか物悲しく懐かしい横顔に私の目には写ります。



先日、生前の凹天を知るふたりに会いました。写真は、その帰りに行った喫茶店です。このことは、いずれここでもご紹介しようとは思います。

実は、私が心に残った言葉があります。おしゃべりの間だったので、はっきりとした文言はおぼえていませんが、要するに凹天が「ちょっと怖かった」そうです。「いかつい」というか「濃い」というような文脈でした。

当時のエリートは、ツルッとした美青年(宮古でいうところの好男子、笑)のイメージがあったのでしょうが、凹天はそう見えなかったってことなのでしょう。芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)、太宰治(おざわ おさむ)、中原中也(なかはら ちゅうや)、萩原朔太郎(おぎわら さくたろう)とか、かなりツルッとしたイケメンな気がします。

凹天を血脈で考えると、親は鹿児島と熊本なので、そんなに濃いこともないような気がしますが、東京のパリッとしたエリート層に投げ込まれると、褐色の肌に彫りの深い顔は土着的に見えたのかもしれません。

最初の妻、たま子との結婚の新聞記事も「美女と野獣」ばりのことを書かれていた記憶があります。新聞記事にまでなるってことは一応有名人というか芸能人に近く、エグザイル並みの野生感があったのでしょうか。私には、野生の男というと、それがいくら作りものであったとしても、エグザイルくらいしか思い浮かびません・・・。貧困ですいません。

あ!同時代だと、大杉栄(おおすぎ さかえ)がそれにあたる野生派イケメンだったのかもしれません。凹天はイケメンじゃなかったですが・・・。



 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 今回は、凹天が日本で初めてのアニメーターとなった時期、アニメーション映画制作を支えたとされる撮影技師の柴田勝(しばた まさる)を取り上げます。

 1897年、大森家の5人兄弟の3男として、東京府北豊島郡日暮里村(現・東京都荒川区日暮里)で誕生した柴田勝。子どもの頃から、淺草六区に通って、映画ばかりを観ている少年でした。当時の映画は大人5銭、子ども3銭。10銭もっていくと映画を2本観て、お汁粉を食べて、観音様にお賽銭を1銭あげたと回想しています。子どもの頃よく通ったのは、吉澤商店、エム・パテー商店、横田商會、福寶堂の映画でした。好きだったのは、吉澤商店系で、日本初の常設館である淺草電氣館。後の1912年、この4社はトラストで、日本活動フイルム株式會社を経て、元号が大正となった同年に日本活動冩眞株式會社、つまり日活と改称します。

 田中純一郎著『日本映畫史 第一巻』(齋藤書店、1948年)によると、元々、電氣館は、電気仕掛けの器具やエックス光線の実験を見せて、電気の知識を普及する傍ら、見世物料として、料金を取る見世物小屋でした。それが、経営不振になり、1903年、活動寫眞の常設館の日本第1号となったのです。
  当時は、見物人は腰掛もない土間に立たされて、下駄ばきで、人の肩越しに映画を観ていたとのこと。遊山気分で豪奢な芝居見物とは大違いでした。田中純一郎は、各地にできた常設館に、歌舞伎を始めとする芝居役者連が、下駄ばきで見学される活動寫眞に出るのは、舞台役者の名折れだと述べたということも記しています。


 柴田勝は、映画好きが昂じて、1916年、天活(天然色活動寫眞株式會社)の撮影技師になりました。すぐに枝正義郎(えだまさ よしろう)の助手になる幸運に恵まれます。

 ところで、まず初めに、ここ数年、凹天が再注目を浴びる理由となったきっかけとなった出来事とともに、今回はそこでの記述に関し、封切日の検証をしてみようと考えます。

 一昨年の2017年、日本の映画アニメーション誕生100周年ということで、渡辺泰(わたなべ やすし)をリーダーとするアニメNEXT_100というプロジェクトが組まれ、われらが凹天の劇場公開された初作品について、新説が出されました。


http://anime100.jp/series.html



 アニメNEXT_100では封切日が特定できないとありますが、絞り込むことは可能です。1916年12月29日付『東京朝日新聞』には、シネマ倶樂部の広告として、新春興行は1月3日からとあります。

 秋田孝宏著『『コマ』から『フィルム』へ マンガとマンガ映画』(NTT出版、2005年)には「日本で最初に輸入されたアニメーション映画は、1914年イギリスアームスロング社の作品」。上演は淺草帝國館。その時初めて「凸坊新画帖」という名が付けられ、その後大正から昭和初期にかけて、アニメーション映画は「凸坊新画帖(帳)」と呼ばれたとあります。

 また、田中純一郎著『日本映画発達史II 無声からトーキーへ』(中公文庫、1976年)によれば、当時アニメーション映画を意味する言葉には「線画」、コマ落としで撮影するので「トリック(特殊技術)」、その他「線画喜劇」、「カートンコメディ」もありました。

 この広告(先述の1916年12月29日付『東京朝日新聞』のシネマ倶樂部の広告)には、その言葉が見当たりません。

 しかし、翌日の1916年12月30日付『東京朝日新聞』には、「春の與業物案内」に、シ子マ倶樂部のところで、予告として『プロデア姉妹篇 黒團長』、『活劇 毒彈』とならび『女装のチヤツプリン』、そして『凸坊』が登場しています。

 そして、1917年1月3日付『東京朝日新聞』には、シネマ倶樂部のところで「天活直営館として開会せり」とあります。すなわち、この日が、商業的日本アニメーション映画の記念すべき公開初日である可能性大なのです。1916年から1917年当時、凹天も天活に勤めていました。

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