裏座から、毎度の宮国です。
下川凹天の弟子、森比呂志(もり ひろし)の2回目です。彼の出身地・川崎と沖縄の関係が深いというのは、誰もがご存知だとは思います。
ですが、ここでは、森比呂志の個人的な関係でさえ、地下茎のように深く静かにつながっていた、というお話です。ずばり、サブタイトルは「川崎と琉球の点と線を結ぶ ~佐藤惣之助と森比呂志~」です。
凹天の生きた時代背景を調べていると、その時代に包まれるような気分になります。凹天やその仲間たちが生き生きと現代によみがえったような気すらするのです。
さて、今回は、まず佐藤惣之助『琉球諸嶋風物詩集』(海風社、1922年)をご紹介したいと思います。
【大正初期の那覇港】
漲水港望海樓作
川良山のうへなか、白雲の立ちゆらば
白雲で思むよな、のり雲で思むよな
(かれやまふし)
橄欖の花で詠めゆる黑島口説
山査子の花で詠めゆる「戀の花」ふし
紺の宮古上布や透し
雲の峰に蛇皮線かけて
あかき南風に女ら騒ぐや
火の色にうたふ蒼蠅の歌を
沖の地獄の汽船につたへ
酒甕よき夏の日たけぬ
【初版本(国会図書館デジタルコレクションより)】
旧平良市の官公庁がある中心街から漲水港(現・平良港)を望んだ詩です。八重山と宮古が混在していて不思議な趣になっているのはご愛嬌。ゴーギャンに憧れていたようで、その直後の詩に「ゴーガンばりの女がパパヤのような乳房をはつて」というのが、後世の研究者から植民地目線だと批判される材料にもなっていますが…。それにしても、南方ならではの独特の色や温度を文字に落とす才能は卓越していると感じます。
望海楼のあった漲水港界隈は旅館が多く、島の中では派手やかな場所だったのでしょう。女を「いなぐ」と書いているあたり、宮古の滞在時間の短さを感じさせます。いやいやいや、もしかしたら、現在の宮古口である「みどぅん」ではなく、こうした宴会の席では「いなぐ」という沖縄本島方言が用いられていたのかもしれません。
この詩集では「漲水港望海樓作」という章が最終章になっていて、そのトップバッターが章題と同じ、この詩です。この章には、先島諸島の詩は18篇作られ、そのうちの2篇が宮古島について描かれています。
【『佐藤惣之助覺え帖』より、「書斎における佐藤惣之助」】
実は、この作者の佐藤惣之助(さとうそう のすけ)が先島諸島を旅行したのは、八重山で岩崎卓爾(いわさき たくじ)に会うのが大きな目的でした。その際に寄港した宮古島にも数時間だけですが、滞在したようです。詩集の後書きに「宮古島は象皮病患者が妙に恐ろしい」と書いています。
その頃、凹天は新聞を中心に漫画家として活躍していた時期。佐藤惣之助は凹天の2歳年上なので、同世代の昇り調子で新進気鋭のアーティストだったようです。当時の人からすれば、ふたりともキテレツに見えていたに違いありません。
そして、そんなふたりを結ぶ点と線を書き残したのが、森比呂志だったのです。
さて、裏座はこれまで。一番座から、佐藤惣之助の物語が始まります。
では、一番座から片岡慎泰です。
佐藤惣之助の実家は、東海道五十三次川崎宿の本陣(大旅館)。そうです。前回 取り上げた森比呂志の実家は、元々川崎宿の助郷でした。そして、石工を生業とする「森工務店」が、移り住んだ場所が川崎遊郭の大門の隣。ふたりとも同じ川崎小学校の学区でした。その頃、川崎はとても寂れていたようです。
【佐藤惣之助生誕の地】
日本初の鉄道が、1872年東京新橋駅から横浜(現・桜木町駅)間まで走ることになったたためです。森比呂志の記録では、丸一日がかりだった川崎大師参りが、小一時間になったとのこと。
鉄道がない頃は、江戸から川崎大師まで日帰りできないので、明治維新後であっても、それだけで宿場町としての機能があったのですが、鉄道の発展とともに川崎宿は活気を失っていきました。宿場町として有名だった頃は、今もさまざまな絵に残っています。安藤広重(あんどう ひろしげ)の『東海道五十三次』が代表的な作品でしょう。
しかし、鉄道が通って数十年後経っても寂れた様子は、そこで少年時代を送った森比呂志が印象的な表現で記述しています。それは、関東大震災(1923年)後の様相よりもひどかった、と。
面白いことに、その頃、東京漫畫会(1915年~1923年)に集まった漫画家たちが描いた『東海道五十三次漫画絵巻』(1921年)という絵巻物が生み出されました。
奇遇なことに川崎宿は凹天が担当しました。『東海道五十三次漫画絵巻』は、まさに江戸の伝統を彷彿とさせる、肉筆浮世絵のような漫画からなる巻物です。この作品はYouTube(紹介動画)で見ることができます。
【東海道五十三次漫画絵巻 Youtubeよりキャプチャ】
東京漫畫会とは、岡本一平(おかもと いっぺい)が音頭をとったグループで、当時の新聞に所属していた新進気鋭の漫画家たちが集まりました。
皆で、全国各地でどんちゃん騒ぎをして新聞などに取り上げられ、漫画を世間に周知。凹天の得意技は、飛行機踊り。第1回は多摩川の料亭でしたが、最後の第10回は帝国ホテルと箱根。漫画家の地位が向上したことが伺えます。
『東海道五十三次漫画絵巻』の成立が1921年ということは、先の詩集『琉球諸嶋風物詩集』出版と、ほとんど同時期。
皮肉にも、宮古生まれの凹天は川崎を描き、川崎生まれの惣之助は琉球についての詩を作ると。このベクトルの向きには、人知を超えた妙味があります。交点には森比呂志が存在していました。
ふたたび、話は川崎に戻ります。
川崎は第一次大戦の景気をきっかけとして、大正ロマンを謳歌し、第二次大戦中まで重工業や大衆文化で栄えました。しかし、日本の他の都市と同じく、戦後は荒廃しますが、再度、不死鳥のように復興するのです。
その光と影を映し出すのが、これまた川崎小学校出身の坂本九(さかもと きゅう)が歌った『上を向いて歩こう』(作詞:永六輔、作曲:中村八大)や、長崎出身の三輪明弘(みわ あきひろ)こと丸山明弘(まるやま あきひろ)自身が作った『ヨイトマケの唄』ではないでしょうか。ふたつの歌は、日本の高度成長期をシンボリックに表現しています。
川崎は、前回述べた、日本初のレコードを生産した日本蓄音機商会の舞台でもありました。佐藤惣之助が流行作詞家になったことは、偶然ではなく必然のような気すらします。
このような時代背景とともに、佐藤惣之助の人生を辿ってみます。
惣之助は、川崎宿本陣が寂れて雑貨商「藤屋」となった佐藤家の次男として、1890年12月5日に生をうけます。母親うめの記憶では、大きな病気もしなかったので、育てるのは楽な方だったと。
3歳から釣りを覚えたり、4歳で百人一首を丸暗記してしまうほど記憶のよさがあり、川崎小学校尋常科の卒業式には全学童の代表して答辞をしました。上の学校に通わせることもできたのですが、父親惣左衛門は反対。当時、商人の常として麻布飯倉の糸屋「萬文」に丁稚に行かせます。ここは兄も奉公していたので、気心の知れた家でした。
その頃、詩人サトウ・ハチローの父である佐藤紅緑(さとう こうろく)から、俳句を学び始めます。そして、丁稚奉公をしながら、俳句をずっと学び、千家元麿(せんげ もとまろ)らと知己になります。
ところが、森比呂志によると、佐藤惣之助は丁稚に出されたものの、二宮金次郎像のごとく、紺の風呂敷を背負って、文芸書を読みふける毎日を送る始末。口さがない商家の人びとから「道楽息子」とまで。17歳の時に「奉公はいやだ」と実家に帰るのですが、うめは行李ふたつのなかには、衣類かと思ったら文芸書だけだった、と記しています。
佐藤紅録が劇作家に転身すると、その後を追うように、1909年暁星中学校付属仏語科で、2年間学業に専念。ここの下宿屋で、後に築地小劇場を開設した小山内薫(おさない かおる)や歌人の吉井勇(よしい いさむ)と劇作に夢中。
【現在の暁星高校(東京都千代田区)】
1911年、従妹にあたる川田花枝(かわだ はなえ)と結婚。翌年、岸田劉生(きしだ りゅうせい)のいた「フュウザンの会」の同人と一緒になり、夏には『生活』(ラ・ヴィ)を創刊。しかし、その年の後半になると、詩作にふけるように。当時、芸術を生業(なりわい)とする人びとの生活は、苦しかったようです。花枝は、三味線と琴の師匠をしながら、佐藤惣之助を支えます。
1916年には第一詩集『正義の兜』を自費出版します。翌年には、第二詩集『狂える歌』(1917年)と立て続けに、詩集を出版。その最中にも、後進を育て『詩之家』(1925年~1932年)を創刊し、八木重吉(やぎ そうきち)や津嘉山一穂(つかやま いっすい)、伊波南哲(いば なんてつ)、藤田三郎(ふじた さぶろう)、永瀬清子(ながせ きよこ)、椋鳩十(むく はとじゅう)など錚々(そうそう)たるメンバーを育てます。
まだまだ、佐藤惣之助と凹天が生き抜いた時代の話は続きますが、一番座はここまで。
裏座の宮国です。
お気づきになったでしょうか。津嘉山一穂や伊波南哲といえば、山之口貘(やまのくち ばく)と並んで、当時の沖縄を代表する若い詩人たちです。
伊波南哲は、東京の丸の内警察署に勤務しながら、佐藤惣之助に師事。1936年の長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』が代表作で映画化もされます。宮古島出身の岡本恵徳(おかもと けいとく)は、このあたりを論文で書いています。
佐藤惣之助は「沖縄学の父」伊波普猷(いは ふゆう)の『古琉球』(1911年)を読み、南島に興味をもったようです。その後、民俗学の柳田國男(やなぎた くにお)、古代学の折口信夫(おりぐち しのぶ)と親交を深めていきます。
また、最初にご紹介した『琉球諸嶋風物詩』の後書きには、宮古島でP音を求めたとの記述があるのですが、これは『宮古庶民史』(稲村賢敷、1948年)を書いた稲村賢敷(いなむら けんぷ)の影響かもしれません。さらに、柳田國男が雑誌『民族』を創刊(1925年)するにあたり、ニコライ・ネフスキーの名前も出てきます。
人の縁とはピルマスムヌ(不思議なもの)。個人的には、このニアミス加減がグッときます。
佐藤惣之助は、いわゆる芸術家であると同時に、当時の大衆の心をつかむ詩の名手。後世からみると流行歌の作詞家という印象が残り、芸術家ではないという評価からか知る人ぞ知る人になってしまったようです。
凹天も当時は流行漫画家ですが、今は知る人ぞ知る人。凹天と惣之助の共通点はそういうところだとも考えられます。
ふたりは、ほぼ同世代。佐藤惣之助が生まれた約1年半後の1892年5月2日に凹天は宮古島に生まれました。その後、1901年に叔父を頼り、東京に移り麹町小学校に通っている頃、佐藤惣之助は麻布飯倉で働いていたことになります。徒歩で30分ほどの場所にふたりは同時期に生活していたのです。
そして、その後、ジャンルは違えど、東京周辺を中心に活躍しました。森比呂志は、なんと、その時のふたりの様子を克明に書きあらわした人物なのです。
-つづく-
ゴーギャン1848年~1903年
画家。生まれはパリで、図版の商人であった父親の家業を継ぐ。そこで、当時無名だったルノワールやモネと知り合う。その後、株式仲買人になったが、成功するにつれて、余暇に自ら絵を描くように。世界さまざまな地域を巡ったが、1891年初めてポリネシアのタヒチに。南方にモチーフをとった多くの傑作が生まれたのは、これ以降のことである。
岩崎卓爾(いわさき たくじ)1869年~1937年
気象観測技術者。石垣島測候所の二代目所長を勤めるかたわら、八重山の生物や民俗、歴史、歌謡の研究を行う。日本最少の蝉、イワサキクサゼミの命名者。
安藤広重(あんどう ひろしげ)1797年~1858年
浮世絵師。江戸の定火消の家に生まれる。代表作の『東海道五十三次』以外にも、江戸名所シリーズが知られる。ゴッホやモネなどの画家に影響を与えて、現在では世界的に有名となった。特に、ヒロシゲ・ブルーといわれる「藍色」は、現在も影響を与え続けている。本人自身は、安藤広重と名乗ったことはなく、歌川広重が、本来の呼び名である。
坂本九(さかもと きゅう)1941年~1985年
俳優、タレント、歌手。『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』などのヒット曲を持つ。1985年8月12日、日本航空123便墜落事故で帰らぬ人となった。
三輪明弘(みわ あきひろ)1935年~
シンガーソングライター、俳優、演出家、タレント。長崎県長崎市出身。かつては本名の丸山明宏で活動していた。最初は、ゲイであることで芸能界から消えたが、中村八大の尽力もあり『ヨイトマケの唄』で復活。しかしまた、その歌詞が問題となり、再び追放状態になるも、再度表舞台に。なかにし礼によると『ヨイトマケの唄』は、戦後の日本を象徴する最高傑作と評価される。
サトウ・ハチロー1903年~1973年
日本の詩人、童謡作詞家、作家。本名は佐藤八郎。『うれしいひなまつり』『リンゴの唄』の作詞者。
佐藤紅緑(さとう こうろく)1874年~1949年
日本の劇作家、小説家、俳人。サトウ・ハチロー、佐藤愛子(小説家)、大垣肇(脚本家)の父。青森県弘前市出身。
千家元麿(せんげ もとまろ)1881年~1948年
日本の詩人。東京都千代田区麹町のうまれ。出雲国造家(出雲大社の系統)当主の千家尊福の長男(庶子)。母は画家の小川梅崖(本名・豊子)。
小山内薫(おさない かおる)1881年~1928年
明治・大正・昭和にかけて活躍した劇作家、演出家、批評家。東京帝国大学在学中から劇作を始め、日本近代演劇の開拓者として「新劇の父」と称された。大正13年に築地小劇場を創設。
吉井勇(よしい いさむ)1886年~1960年
大正から昭和にかけて活躍した歌人、脚本家。華族(伯爵)であり、スキャンダルな「不良華族事件」の中心人物は、最初の妻・徳子であった(事件発覚後に離婚)。
岸田劉生(きしだ りゅうせい)1891年~1929年
大正~昭和初期の洋画家。娘の麗子(れいこ)の肖像を描いた麗子シリーズが代表作品。その一枚が、切手となり有名に。
八木重吉(やぎ そうきち)1898年~1927年
日本の詩人、英語科教師。東京府南多摩郡堺村(現在の東京都町田市相原町)の出身。戦後、クリスチャン詩人としての評価を集めた。
津嘉山一穂(つかやま いっすい)1904年~1981年
沖縄出身の詩人。シュールリアリズムとマルキシズムの融合を目指した『リアン』で詩を発表する。のちにリアンでの中心人物となり、特攻警察より「リアンは芸術共産党」として警戒され、発禁、廃刊に追い込まれる。
伊波南哲(いば なんてつ)1902年~1976年
佐藤惣之助に見いだされた、沖縄出身の詩人。1923年近衛兵として上京。除隊後は警視庁に入り、丸の内警察に勤務。代表作は長編叙事詩『オヤケ・アカハチ』。沖縄地方の民話・怪談を多数書き残している。
藤田三郎(ふじた さぶろう)1906年~1990年
埼玉県本庄市生まれ。佐藤惣之助に見いだされた詩人のひとり。詩之家の門下生となり、続いてその分身としての『リアン』後期に加盟する。代表作に『寓話』(1939年)や『雪の果て』(1962年)がある。『佐藤惣之助 -詩とその展開-』(1983年)は、佐藤惣之助の詩や経歴に関する貴重な資料となっている。
永瀬清子(ながせ きよこ)1906年~1995年
日本の詩人。高等女学校在学中から佐藤惣之助に師事した。後年は岡山で農業に従事しながら詩作を行っていた。
椋鳩十(むく はとじゅう)1905年~1987年
日本の小説家、児童文学作家、教員。日本における動物文学の代表的人物。また、鹿児島県立図書館長を長年務めた。
山之口貘(やまのくち ばく)1903年~1963年
沖縄県那覇市出身の詩人。本名は山口重三郎。薩摩国口之島から琉球王国へ帰化人の子孫。その業績を記念して、山之口貘賞が創設される。尚、名前の表記は、ケモノ偏の獏ではなく、ムジナ偏の貘である。
岡本恵徳(おかもと けいとく)1934年~2006年
宮古島出身。近現代沖縄文学研究者であり戦後沖縄を代表する思想家。琉球大学文理学部を卒後、東京教育大学大学院文学研究科・修士課程を修了。後に、琉球大学の講師、教授(法文学部)を勤めた。
伊波普猷(いは ふゆう)1876年~1847年
沖縄県那覇市出身の民俗学者、言語学者。言語学、民俗学、文化人類学、歴史学、宗教学など多岐に亘る学問体系の研究により、「沖縄学」が発展したことから、「沖縄学の父」とも称される。
柳田國男(やなぎた くにお)1875年~1862年
日本の民俗学者。全国各地を調査旅行し、民俗学を築いた人物。東京帝國大を卒業したあと、明治政府の農務省の役人に。そこで、岩手県を始め各地を講演旅行するうちに、民俗的なものに興味をもつように。代表作は『遠野物語』、宮古島が最初に稲作技術がもった人びとがやってきたという仮説も載っている『海上の道』など。
折口信夫(おりくち しのぶ)1887年~1963年
日本の民俗学者、国文学者、国語学者であり、詩人・歌人でもあった。柳田國男と出逢い、沖縄を旅したことから、沖縄に古(いにしえ)の日本文化の面影を見出し、古代研究に系統する。詩人・歌人としては、釈超空の名で知られる。
稲村賢敷(いなむら けんぷ)1894年~1978年
大正-昭和時代の教育者、郷土史家。沖縄県に生まれ。東京高師を卒業した後、沖縄県の教育に情熱を注ぐ。昭和23年退職後、沖縄の郷土史、民俗学研究に従事。著作に『宮古島庶民史』『沖縄の古代部落マキョの研究』など。
ニコライ・ネフスキー(1892年~1932年)
ロシアの東洋言語学者・東洋学者・民俗学者。日本への留学中にロシア革命により帰国できなくなる。小樽で教鞭をとるかたわら、柳田國男・折口信夫らと親交をもち、宮古方言の研究などを行った。折口信夫の唱えた説を覆すほど言語感覚に優れていた。
【2019/10/09 現在】