第3回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その1」

atalas

2018年06月15日 12:00



裏座からこんにちは。
毎度おなじみ、宮国でございます。
日本で初めて商業アニメーション映画を作った男、下川凹天の物語。
『Ecce HECO.』の第3話。早速、始めたいと思います。

前回の凹天のお葬式の話は、弟子の森比呂志の記録からでした。
実は、その記録は、凹天の葬式直後に書かれてものではありません。
後日、別の漫画家の葬式の時に、凹天の葬式を思い出し、エッセイに残したものでした。

他人の葬式に出ても思い出すほど、森比呂志にとって、凹天の存在感は大きかったのかもしれません。 今の日本ではほとんど死語になったかもしれませんが、「師を慕う弟子」という気持があったのでしょう。

これからしばらくは「凹天の弟子や知人たちがどんな人だったか」に焦点をあてて、一番座へ、つなぎます!
 こんにちは、一番座から片岡慎泰です。

 凹天は多くの人びとに強い印象を与えましたが、その弟子や知人について、そして彼らの側からみた凹天に関して詳細に書かれた文献は、今のところほとんど見当たりません。
 今回は、凹天の弟子のひとり、森比呂志に焦点をあててみたいと思います。

 森比呂志は、1919年4月25日神奈川県橘樹(たちばな 編注1)郡田島村小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれました。
 生まれた時、祖父は「天神さまの生まれ変わりだ」といったそうです。屋号は天神山で、実家の入口には、天神を祀った社(やしろ)がありました。

【森比呂志の実家があった場所 川崎市川崎区小田2丁目】

 森比呂志の母方の先祖の森家は、東海道の川崎宿砂子(いさご)本陣の助郷(編注2)を請け負うほど格の高い農家でした。しかし、森比呂志から数えて三代前にあたる森三右衛門は、当時の多くの例と同じく、助郷をしたばかりに落ちぶれて、先祖伝来の家や畑を売り払うことに。
 森比呂志の祖父は家を復興しようとしたのでしょうか。自分の娘に実直な職人だった父を、入婿として自分の家に迎え入れます。
 祖父には、従兄弟で新平という甲府の出身の石工がおり、川崎で「新平石屋」を経営していました。
 森比呂志の父は、そこに勤めていた同郷出身の青年だったのです。

 その後、新平は脳梅毒になり、高尾山の病院に通っていました。
 精神的に病んだ人のための病院といっても、当時は神社仏閣の付属施設や旅館から病院、軍部が精神病室を作るというパターンがありました。高尾山の病院は、最初のパターンです。
 付言すれば、当時は、厚生労働省でなく、警察が管轄。当時、東京周辺で精神を病むと高尾山の滝に打たれる治療が流行していました。

 東京周辺で青少年時代を過ごしたり、現在お住まいの方ならご存じでしょうが、高尾山は現在ピクニックやハイキングのメッカ。ここには多くの神社仏閣や滝があります。その滝に打たれたり、護摩行も治療の一環だったようです。

 ここで治療をしていたのは、ある記録によると琵琶滝、弁天滝(現存せず)、蛇滝のいずれか。
 宿泊所は、お金持ちは琵琶滝の二軒茶屋(同所のため佐藤旅館と小宮旅館を総称)か、弁天滝の三光荘の旅館3ヵ所、お金がない場合は、参籠所(さんろうじょ 編注3)の2ヵ所。
 旅館の他にも、旅籠(はたご)や茶屋などと呼ばれた宿泊所もありました。蛇滝の旅籠ふぢ新権兵衛などがそれにあたります。

 新平はお金があっただけに旅館に泊まっていたと考えられますが、残念ながらこれ以上のことはなんとも。
多感な森比呂志少年は、小学生でしたが、その時の新平の様子も書き残していました。

 新平が1917年に亡くなると、森比呂志の祖父が新平の工務店の実権を握り、番頭格になります。
 しかし、新平の未亡人から誘惑されたりしますが、そんな未亡人の経営ではうまくいかず、ついに店は閉めることに。
 そして森比呂志の父は、その後、自分で事業を興します。名前は「森石材店」。

 森比呂志は、4歳の時、2月のお不動の日に大やけどをして、「お不動さまの祟りだ」といわれます。さらに翌年、同月同日にもう一度大やけどをして、腕や身体にひどいケロイドの傷が残り、「お不動さまの罰だ」とまでいわれる始末。さらには中耳炎にもなり、軽い難聴にもなってしまいます。

 比呂志少年は、それにもめげずにか、それ故にか、わかりませんが、ませた子どもになります。最初のあこがれは、近くに住んでいた三歳上の娘でした。その娘がお嫁にいきます。
 それから、森比呂志の女性遍歴が始まります。それには当時の住まいの場所が大きく影響したようです。

 そこは川崎遊郭の大門を入った妓楼の隣りあわせだったのです。次に恋した人は、歌舞伎界名門の嫁になった高級遊女でした。

【画像 今はおだやかな遊興街の風情 川崎市川崎区南町】

 元々、川崎は東海道の宿場町として栄えていました。 
 明治に入ると、洋行帰りの浅野総一郎が渋沢栄一と組んで、臨海沿いに大きな工業地帯を作り始めます。会社としては、日本鋼管(現・JFEエンジニアリング)川崎工場、浅野セメント(現・太平洋セメント)など。

 森比呂志が生まれた1919年頃は、日本中が沸いていた第一次世界大戦景気。
 裕福になって、家が大きくなるにつれて、川崎八丁畷(はっちょうなわて)に引っ越しすることになります。学校の入口前にあったその場所の近くには、松尾芭蕉の句碑が残っていました。その年に亡くなる芭蕉が、江戸から故郷の伊賀に帰る時に死を予感して詠んだ句と解釈されています。

 後述しますが、「漫画は文学でなければならない」という森比呂志の信念、そして死と隣り合わせの中で生きざるを得なかった時代に育まれた感性は、こういうところに源流があるのかも。

【画像 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」と書かれた、八丁畷駅近くの松尾芭蕉の句碑

 森比呂志は、叔父・新平がもっていた蓄電器とレコードで、大正から昭和初期にかけての大衆文化に触れることになります。ちなみに、日本最初のレコード会社日本蓄音機商会が誕生した場所は、奇しくも森比呂志が生まれたのも神奈川県橘樹郡。

【画像 レコード発祥の地として、京浜急行電鉄大師線の港町駅は、音楽情緒たっぷり】

 関東大震災(1923年)は川崎にも甚大な被害をおよぼしましたが、森比呂志はそれを絵入り自著の『大正時代物語川崎あれこれ』(国書刊行会、1988年)で「船頭小唄」と記しています。
 彼にとってこの歌は、「ロマンに満ちていた大正のよき時代のフィナーレであり、葬送曲であり、挽歌であったから」。
 この曲は1921年に、野口雨情が民謡『枯れすすき(枯れ芒)』として作詞、中山晋平が作曲して誕生。1922年に『船頭小唄』と改題され、複数のレコード会社から競作として発売され、歌をモチーフにした映画化もされるほどの大ヒットとなりますが、野口雨情の暗い歌詞と中山晋平の悲しい曲調から、関東大震災を予知していた歌だったのではという説が流布しました。
 なお、1974年に一世を風靡した、さくらと一郎の『昭和枯れすすき』は、世界観が類似した哀愁をもつ歌というだけで、まったく別の曲です(作詞:山田孝雄、作曲:むつひろし)。

 川崎の工場群は、関東大震災での出火だけはまぬがれました。これは、関東周辺地域にとって非常に大きな意味をもちました。さらに当時、日本一栄えていた阪神工業地帯が1934年に発生した室戸台風によって壊滅的な被害をこうむります。結果として、このふたつの要因が川崎の光景を一変させます。関西の工場群や映画街が、川崎など東京周辺へと移り、急速に工業地帯として繁栄を迎えたのです。

【室戸台風発生時の天気図 国立公文書館より】

 森比呂志は、家業を継いだものの、詩にかぶれたり、漫画に魅せられていました。あこがれの漫画家は、そう、下川凹天でした。
『昭和漫画家エレジー』(彩流社、1985年)によれば、ある雑誌に載った凹天の「夢の琉球よ失恋の淡路島よ」という歌いだしの自伝的詩の記憶が大きかったようです。森比呂志は、漫画は文学でなければならないという信念の持ち主でした。

 絵心は祖父から受け継いだようで、家業を継いだ後にも、落書きなどをしていたようです。実直で職人気質の父親は漫画嫌いでしたが、1924年『キング』1月号が創刊され、母はそのファンに。その最後には読者投稿のページがあり、母が髪結いに髪を梳いてもらっている傍らで森比呂志は『キング』を読んでいました。そこに漫画を墨汁で書いて投書すると入選し、家に銀のカップが送られてきたのです。
 その後も、近代漫画を確立したひとりである北澤楽天主幹の『時事新報』に、たびたび投稿。『婦人倶楽部』や『アサヒグラフ』などにも投稿しています。

 ひとまず、一番座はここまでにて。
はい、裏座の宮国です。
凹天の高弟である森比呂志が漫画家になるまでの人となりは、なんとなく理解していただけたでしょうか。
大正生まれ昭和初期に幼少期を送った時代性を感じさせる人生ですよね。

あんぽんたんなワタシなので、一番座を読んでいるうちに、カオスになってきました。
なので、私なりに森比呂志の要点だけをまとめてみました(笑)。

川崎生まれで、石工を家業とする息子。
母方は助郷が祖先。
父は、母方の親戚の「新平石屋」と呼ばれる新平石材店の番頭格になる。
「新平石屋」が傾くと、紆余曲折はあったものの、父は後釜として「森石材店」を興す。
その中で、裕福に育った一人息子が、比呂志。

大やけどを二度もしてお不動さまの罰といわれた子ども時代。
大正ロマンチシズムを凹天に見出した少年時代。
漫画に対する偏見から隆盛までを見つめ、時代を記録した逸材。

地元である川崎の庶民史ともいえる森比呂志の著作には、凹天との思い出も描かれています。

ここで、もうひとつ挙げるとすれば、著作の最終ページにあった彼のプロフィールです。
「飴屋、板金工の苦悩をまぎらわすため、漫画を描き」と書き残しています。
時代の流れに飲み込まれ、実家の石工が傾いて職を変えプロとなります。そこには、まさに時代とともに独特の感性を磨いた一漫画家、いえ、ひとりのポンチ絵描きの生き様が溢れているように思うのです。
数ある漫画家の中でロマンティックな凹天を見初めた森比呂志の若き感性。その感性は、ある時代は凹天とともに生き、凹天が亡くなった後も変わらず保たれたのだと思います。
森比呂志の眼差しはみずみずしさをたたえたまま、彼の著作にある文章や漫画に結実していきました。
【森比呂志の著作はよみごたえあります】


凹天のまわりの人びとが書き残した凹天像によって、ありがたいことに凹天そのものがビビットに現代に蘇ります。嗚呼、ある種の人徳があるのね、凹天って、多分だけど。
そして凹天をこんなにたくさん書いてくれて、ありがとう!森比呂志さま!

【編集注記】
編注1 橘樹郡(たちばな‐ぐん)
神奈川県の最東端の郡域で、現在の麻生区の一部を除く川崎市全域と、横浜市の鶴見区、神奈川区全域と、西区、保土ヶ谷区、港北区の一部で構成されていたが、横浜市と川崎市の市域拡大によって、1938(昭和13)年に橘樹郡は消滅。翌1939年に西隣の都筑郡も同様に消滅するも、こちらは横浜市の区域の再編によって、1994(平成6)年に行政名として都筑区が復活した(但し、区域は大幅に異なる)。

編注2 助郷(すけごう)
江戸時代の労働課役のひとつで、宿場の保護、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のこと。参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化、拡大化してゆくも、村民への報酬は低く過大な負担となり問題となる。1696(元禄9)年に常設の「定助郷」が編成され、1872(明治5)年に助郷制度が廃止されるまで続いた。

編注3 参籠所(さんろうじょ)
元々は社寺堂に籠って、一定の期間、神仏に祈願するための場所であったが、参詣が大衆化しすると社寺の宿泊所を参籠所と呼ぶようになり、沐浴潔斎(もくよくけっさい≒心身を清めること)の設備を整えるようになった。宿坊、僧房。


【20180626 一部訂正】
【2019/10/09 現在】

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