2018年05月18日 12:00
一番座へようこそ。再び、裏座から宮国です!
ちょっとオトーリが恋しくなっている、片岡慎泰です。
下川凹天が亡くなった当時は、まだまだ土葬の多い時代でした。
特に茨城県は土葬が最後まで残った地域のひとつです。厳密にいえば、現在も法律的に土葬はまだ禁じられていませんが、ちょっとした手続きが必要。しかも、それで、許可されるかどうかは、自治体の判断によるようです。
ところが、凹天の亡骸の運ばれた場所は、茨城県とはほど遠い東京都で、そこで火葬されました。
どうやら、凹天のふたり目の妻“なみを”の意向に添ったようです。
【長應寺~ちょうおうじ~品川区小山1丁目4番地】
なんと“なみを”は、1963年に亡くなった後に(編注:凹天が亡くなったのは1973年5月26日)、凹天のお葬式の準備やお墓まで用意していたのです。しかもこの墓の名前には、向かって左に下川、菅原(編注:“なみを”の旧姓)とあり、その下に両家之墓とあります。家紋もそれぞれ仲良く隣り合って彫られています。もちろん、俗名も、戒名もあります。
しかし、こうした墓の作りが当時にあって普通にあったとは思えません。文献をあたるとふたりは「結婚」をしていたとあるのですが、これは婚姻届が公にされるまでは、謎というしか。このようなところからも、下川凹天が漫画家であることを隠していた、“なみを”の気持ちを察することができます。
ここでは、“なみを”の実家である菅原家を掘り起こす必要性があることを指摘するに留めます。
地名から判断して、船橋市のかつての中心だったかもしれない、船橋市印内1番地(JR西船橋の駅前付近)にふたりが住んでいたこと、“なみを”が野田醤油(現・kikkoman)の社長となった茂木房五郎の妹と縫製学校の同級生だったこと、家紋が菅原家の代表紋のひとつ「丸に梅鉢」であることが手掛かりになるかと。
しかも興味深いことに、当時の新聞記事によると、凹天の通夜は世田谷区の家で行われたとあるのですが、その家は“なみを”の兄、菅原の家。また、長應寺で告別式が行われた時も、喪主は“なみを”の兄とあります。
この時、凹天の高弟のひとり森比呂志(もり ひろし)は「麻布の寺で納骨式が行われた」と書いており、参列者がお墓を訪ねた記録が残されています。
これは長應寺のことだと思われますが、東京の地理を知る人は、ちょいと遠いとお気づきでしょう。
しかし、川崎出身で、その頃は平塚に住んでいた森比呂志の感覚からすると、麻布方面のイメージがあったのかもしれません。
今なら、湘南・川崎方面からだと、目黒線不動前(編注:長應寺の最寄駅)から、メトロ南北線の麻布十番まで電車で一本ですから、麻布と書いてあっもおかしくないのかもしれません。まして、平塚から長應寺は直線距離で約50キロも離れているのですから(編注:東京府麻布区は、1878~1947年まで存在した)。
先述の森比呂志はこうも記しています。
「先生の墓なぞあるのかしら」
彼は凹天の奔放な性格を知っており、また石材店の息子というふたつの要素があいまって、自然と出てきた実感のともなった言葉だったと考えられます。森比呂志は、”なみを”の献身だった姿を思い出し、涙があふれてしかたなかったそうです。
その時に居合わせたのは、森比呂志、もうひとりの高弟である石川信介(いしかわ しんすけ)。それに横木健二(よこぎ けんじ)、御法川富夫(みのりがわ とみお)の凹天一門。そして、友人代表として宮尾しげを。
そして雨が降ってきました。
宮尾しげをは、傘をさしながら「凹に墓などあるのかねェ」と、独り言を述べたことも記録に残されています。
雨が降らずに悩み続けた宮古島生まれの下川凹天が、最後に雨を降らせたのもなにかの巡りあわせでしょうか。
かくして、石川信介に「宮古に帰りたい」と語っていた下川凹天終焉の地は、現在では高層ビル群の中にある墓地の一画となったのでした。
一番座からは、以上です。