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2017年06月27日

第141回 「二重越・豊旗の塔」

第141回 「二重越・豊旗の塔」

6月は慰霊の日シリーズとして慰霊碑・忠魂碑を特集してきました。そして去った6月23日の慰霊の日には、県主催の戦没者追悼式が開かれました。さすがに新聞各紙などマスコミは基本的に「沖縄戦終結から72年目の慰霊の日」という云い回しを使っていました。唯一、中日新聞のネットニュースのリード文が、「72回目慰霊の日」と使っていましたが、本文ではそうした記述は見れなかったので、恐らく要約を詰めるリード文を構成した人の問題かと。なんでこなんことを書いたかと云いますと、細かい話ではありますが一部のBlogやFBでちらほらそうした書き方をしているのを見かけたので。慰霊の日は1961年に定められたものなので、72回目の慰霊の日ではありません。72回目なのは沖縄戦の終結の日です(もっとも、終結についても異論は色々ありますが…)。
第141回 「二重越・豊旗の塔」
さて、慰霊の日シリーズ最終回の今回は、宮古島で最大数の石碑が一堂に立ち並ぶ、二重越の慰霊碑群の紹介です。場所は宮古テレビ本社の奥。かつて平良市給食センターがあった裏手の丘脈にあります。この二重越の北側に続く丘脈には海軍司令部と云われている壕郡が広がっていることでも知られています。また、この丘脈は島を貫く“背骨”のような嶺々で、南端はインギャーの海に突き出た牛の展望台から始まり、上比屋山遺跡~バルキャ~上野消防署(広域を見渡す登楼が有名)~上野の風車~リサイクルセンター~大岳城址~野原岳(日本軍師団司令部)~袖山浄水場(海軍砲台跡)~二重越(当初)~海軍司令壕郡~グリーンセンター~漲水学園~萬古山御嶽を経て、砂山ビーチへと至ります。

余談が伸びそうなので軌道修正します。なにしろ今回は紹介する慰霊碑の多いので、どんどん紹介してゆかないとなりませんので。ではまず、この二重越のメインとなっている第28師団の豊部隊の慰霊塔「豊旗の塔」から。
第141回 「二重越・豊旗の塔」
『豊旗の塔』
第28師団といったら、最後の師団長は納見敏郎中将。期せずして沖縄戦の最終的な最高位の士官として、カデナに出向き、降伏文書に署名した人物(本島の32軍の司令牛島満以下、上位士官が軒並み自決したため、納見の出番となるも、署名後に戻った宮古島でA級戦犯が確定したこともあり、野原岳東側の司令部壕の傍で自決します)。
遺骸は下里添の野戦銃砲火器秘匿壕を利用した納骨堂に納められるも、二重越に日本軍関係の慰霊碑を集積されることになり移転され、この豊旗の塔に2914柱とともに納められいてるそうです。

第141回 「二重越・豊旗の塔」第141回 「二重越・豊旗の塔」
『騎兵第28聯隊慰霊塔』
部隊ナンバーに28とついてる聯隊は、28師団隷下の部隊として共に満州からやって来ました。佐川根(東仲宗根添)に本部を置き、馬のための広い牧地も整えていたそうです。割と近い場所になる下里添(更竹)には第28師団の病馬収療所があったといわれており、騎兵聯隊も関係しているのではないかと思われます(第78回「陣没せる軍役動物を吊ふ碑」)。また、騎兵ですから慰霊塔のすぐ脇には「愛馬供養塔」もちゃんとあります。

第141回 「二重越・豊旗の塔」第141回 「二重越・豊旗の塔」
『輜重兵第28聯隊戦歿者慰霊之碑』
とても難しい字です。「輜重」は「しちょう」と読みます。後方支援の兵站(補給拠点)として、武器弾薬を初め、食糧や資材を輸送して前線の戦力を維持する部隊のことで、端的にいえば補給部隊と云えます。近代戦では輸送にトラックなど自動車を使うようですが、慰霊之碑の隣には「愛馬之碑」があるということは、旧態然とした馬曳きで輸送を行っていたことが想像できます(制海権も失って補給の途絶えた孤島では、ガソリンなどは貴重という事情もあったかもしれません)。

第141回 「二重越・豊旗の塔」
『光寿』歩兵第30聯隊慰霊碑
明治29年に新潟県新発田で創設され、日露戦争に従事して以降、満州を中心に大陸に駐屯し続け、西シベリア出兵、満州事変、支那事変、ノモンハン事件と歴史の教科書に書かれている戦闘を軒並み経験している聯隊です。戦争後期になると陸軍の方針が変更になり、大陸の部隊の南方転用が始まります。30聯隊は28師団に転籍して宮古島へと駐屯することになります。
この30聯隊の流れを汲む新潟県の陸上自衛隊高田駐屯地は、宮古島市と縁を持つ上越市にあります(駐屯地には30聯隊の資料館があるそうです。また、聯隊旗奉焼のくだりなど、克明に綴った宮古島での記録も紹介されいます。石坂准尉の八年戦争)。

第141回 「二重越・豊旗の塔」
『英霊之碑』山砲第28聯隊
ちょっと石碑のサイズが小さいですが、28師団隷下の山砲聯隊の碑です。山砲は小型で移動もたやすく、分解すれば持ち運びも可能な大砲です。中隊規模で野原岳を中心におおよそ南東方向に周辺に配備されており、この二重越の碑のほかにも中隊ごとに、第4中隊戦没者英霊碑が城辺字砂川花切、第5中隊戦没者英霊碑が平良字東仲宗根添細竹に、また、第9中隊の兵士2名が敵の攻撃により亡くなった野原岳(南観測所に詰めていてた)に、それぞれ慰霊碑があります(第80回「旧日本軍慰霊碑」)。

第141回 「二重越・豊旗の塔」
『鎮魂の詩』
瀬戸尚子さんという方作った詩のそばに、大田義治先生供養碑という柱が建てられていました。ちなみにこのふたつがセットだとしたら、供養柱はちょっと細くて小さくて、完全に詩碑に負けています。
いずれの碑も昭和末期に作られており、詳細についてはよく判りませんでした。

第141回 「二重越・豊旗の塔」
『通魂之碑』第28師団通信隊慰霊碑
師団の通信隊ですから、恐らくは大本営からの通達を島内の麾下の部隊への下命するのが仕事だったと思われます(さらにその命令を聞くために各聯隊にも通信隊が存在するので、史料を紐解く際には余計に混乱する)。師団司令部は野原岳にあり、現在も自衛隊のレーダーサイトなどがあるように、山頂付近に電探(レーダー)とともにアンテナや通信施設があったと云われていますが、戦争中は重点攻撃目標であり、戦後は米軍の進駐場所となっていたことから、地形の経年変化が激しいので遺構を正確に確認することは出来ません。尚、資料によると師団通信隊は長南に本部があったとされますが、司令部との距離に疑問を抱かずにはいられず、実際のところはっきりとは判りません。

第141回 「二重越・豊旗の塔」
『噫噫忠烈丈夫之墓』特設水上勤務第101中隊
この石碑を見るまであまり耳馴染みのない部隊名でした。。調べてみると101から104までの中隊があり、すべて韓国の大邱で編成された朝鮮人主体の部隊のようです。そのうち102~4中隊は本島及び周辺離島に展開し、101中隊だけが宮古に配備されました。彼らの主な任務は陣地構築などの土木作業に従事させられていたようです。宮古では上陸予想地点に水際障害物を設置したそうなので、もしかするとそうした作業に当たっていたのかも知れません。

第141回 「二重越・豊旗の塔」
『神風特別攻撃隊第三龍虎隊』
本島の32軍が壊滅後、宮古の28師団は台湾の第10方面軍の隷下に移り、戦闘を継続。台湾からの特攻の最終経由地として飛行場は維持されます。この第三龍虎隊もすでに本島が連合軍に制圧されてたあとの1945年7月28日に宮古島を飛び立ったっています。その特攻機は足の遅い布張の複葉機でありながら、駆逐艦を撃沈させる成果を上げたのでした。
「第三龍虎隊」、フレッチャー型駆逐艦キャラハンを撃沈セリ 

一応、これで二重越にある慰霊碑を駆け足ではありましたが、すべて紹介したことになります。と云いたいのですが、実はもうひとつだけ慰霊碑がありました(看板にも書かれていません)。それは豊旗の塔の裏手に、小さな小さな碑がひっそりとありました。
第141回 「二重越・豊旗の塔」
『故陸軍航空少佐 永野貞光の碑』
碑に書いてある情報によると、大正8年4月13日生まれで行年は27歳。
昭和52年8月の33回忌に建立したとあります。
そして昭和20年8月、宮古飛行場上空にて戦死したことを永野少佐の弟が兄を思って回想しています。しかし、宮古に駐屯した部隊の戦死者名簿をたぐっても、彼の名前を見つけることが出来ませんでした。陸軍航空隊は主に台湾から石垣を軸に活動していたことから、所属部隊は宮古ではなく、何らかの理由で島の上空で散華したのではないかと考えられます。

今回、二重越の碑群を紹介できたことで、島内の戦争関連の石碑はかなり網羅することが出来ました。けれど、まだまだ全部とはいえず、県の慰霊塔(碑)一覧を見ても、聴いたことも見たこともない慰霊碑があります(ただしリストの一部に不明とあるものは二重越に移転されたものがほとんどです)。たとえぱ「知野里壹」碑。ご存知な方いらっしゃいましたら、ぜひご一報ください!コンプリートへの道のりはまだまだ先は長いです。




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この記事へのコメント
ブログ記事「第141回「二重越・豊旗の塔」」で探しておられるという「知野里壹」碑について

初めまして。

沖縄県から「管理困難慰霊塔検討事業」業務を受託している株式会社国建-地域計画部の和宇慶(わうけ)です。
業務内容には現地調査(寸法実測・聞き取り)が含まれており、県からの調査対象リストに含まれているものの、所在情報が全くないので調べまくりました。
その結果、『宮古の戦争と平和を歩く』(宮古郷土史研究会)のP.12に紹介されていますので是非ご確認ください。

情報提供の代わりといっては何ですが、同書のP.36の表中にある「魂」碑,長南,1979(昭和54)年4月29日建立について、所在地をご存じないでしょうか。
長南公民館に問い合わせても不明でした。宮古島郷土史研究会は県立図書館宮古分館内に事務局があったそうですが、電話をかけてみたのですが「現在使われておりません...」でした。

株式会社国建 地域計画部 和宇慶朝太郎
098-861-0578
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Posted by 和宇慶 at 2020年07月12日 19:45
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