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2023年01月02日

第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」

第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」

磯部たま子の巻は、今回で終わります。心身ともに壊れたまま、たま子はどのような最期を迎えたのでしょうか。


前半は、イラストレーターの長崎祐子(ながさき ゆうこ)さんから嬉しい新春の贈物が届きました。


宮国さんに渡したかった凹天のイラスト

長崎 祐子


第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」©長崎祐子


 今回は、長崎さんなので一番座からの片岡慎泰です。


 磯部たま子最大の謎は、その最期です。まず、1954年1月28日付『讀賣新聞』夕刊の記事を見てください。


第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」
(Y様画像提供)


 この記事によると、たま子は、「戦争が広がって防空演習がはじまりかけたある日、突然姿を消したまゝいまもってゆくえ不明だという」とあります。


 このあたりの事情については、今後も調査を続けていきます。たま子の兄であり、磯部甲陽堂の店主である磯部辰二郎(いそべ たつじろう)が、どこで眠っているのか分かれば、ひとつのヒントになるかもしれません。ただここで述べておきたいのは、われらが凹天は、たま子が実際には失踪したにもかかわらず、亡くなったと周囲に語っていたことです。


第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」
川崎市市民ミュージアム所蔵


 また、1954年1月28日付『讀賣新聞』夕刊では、たま子の「家出が気になって凹天氏はあれほど人気のあった漫画の筆を一切折った」とあるのですが、その後も『讀賣新聞』の連載は続きました。さらに、戦時体制協力のための雑誌『漫画』にも、われらが凹天最大のヒット作『男やもめの巖さん』のスピンアウト作品を描いています。


第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」


 「十年ぶりの」仏画展という表現は、いわゆる提灯記事(ちょうちんきじ)なのでしょうが、それにしても、事実とあまりにかけ離れています。しかし、凹天自身が「死亡」と書かざるを得なかったことに思いをはせると、どこか悲しい気持ちにもなります。


 しかし、もう一度ここで強調しておきたいのは、『ポンチ肖像』(磯部甲陽堂、1916年)の出版と、われらが凹天が、日本初のアニメーターになった時期、そして磯部たま子との恋愛から結婚にかけての時期が同じだということです。『ポンチ肖像』には、「凸坊」を見物する凹天が小川治平(おがわ じへい)により描かれています。


第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」


 凹天は以下のようにも回顧しています。「処女出版が縁となって最初の妻T子と結婚することになったのである。無収入で売り食いをやっているところへ凸坊新画帖(現在のアニメーション)の話があり、月給五十円、助手付きというのであるが、例一つ参考にするものもなく、企画もなくそのうち、ライトで眼を悪くし、入院する羽目となった。作品は芋川椋三等一巻ものである。天活社(今の日活)系の浅草映画館で封切りされたのだ」。


第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」


 この巻の最後に、長崎さんが宮国さんが急逝された直後に描いてくださった、宮国さんの似顔絵を添付しておきます。


第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」©長崎祐子


 一番座からは、以上です。


 後半は、GARRET WORKS 店主の佐藤寛(さとう ゆたか)さんです。



 宮国さんの果たされなかった夢

佐藤 寛


宮国さんと初めて会ったのは、Knock Knock の時だった。このイベントは、異業種交流をめざして、TAILOR LINE の澁(しぶ)さんが企画し、タンディ・ガ・タンディで始まった異業種交流会である。そこに、澁さんから誘われたのがきっかけになった。


この異業種交流会には、多くの方々が参加されており、大岡山での付き合いが一気に広がった。初参加した数日後にタンディに行くと、見覚えのあるロマンスグレーのダンディな方がいらっしゃった。これが踊さんで、同じ九州の伊集院出身ということもあり、それからずっと親しくさせていただいている。


そこでの宮国さんの初印象は、芯の強そうな人という感じだった。また話すうちに次第に分かってきたのは、激しい「宮古愛」だった。また、宮国さんや宮古出身の方が同世代ということも分かり、何度かタンディに通うことになった。


その後、自分が GARRET WORKS という皮革製品や古着を扱いながらお酒も飲める店を開いた時も、宮国さんは開店祝いに来てくれた。自分はもともとアパレル業界にいたが、独学で革製品の制作をしていた。


ありがたいことに、Knock Knock を自分のお店でも開催させてもらった。片岡さんはよく顔を出してくれたが、深酒することもしばしばで、宮国さんが来た時は、いつもこっぴどく怒られていた。でも傍から見ていると、まるで漫才をやっているかのようだった。


宮国さんは、片岡さんや他の人たちと宮古の研究にのめり込んでいった。宮古島は、下川凹天というすごい漫画家の出生地だと知ったのもその頃だ。


亡くなる直前、宮国さんは、宮古牛の皮革製品を制作できないかと思案していた。宮古牛はすごく肉質はいいのだが、皮をうまく流通にのせられていないからだ。自分に協力を求めてきてくれて、彼女の紹介で宮古出身の人とも製品化に向けて話し合った。宮国さんが生きていたら、宮古牛の皮革製品も完成していただろう。なにしろ、あれほど芯の強かった宮国さんのことだから。


黙とうを捧げます。




【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1935年失踪
凹天の最初の妻。詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


長崎祐子(ながさき ゆうこ)
フリーランスのイラストレーター、専門学校非常勤講師。平良市(現・宮古島市)出身。沖縄県立宮古高等学校を経て、琉球大学卒。神奈川県在住。宮国さん出身の宮古高等学校の後輩にあたる。宮国優子編著『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)のイラストを担当。


【2023/03/21 現在】



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