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2020年06月07日

第23回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その11」



今回のコロナでは、特に芸術・芸能関連ニュースを見ていました。この業界で何かあるごとに、ガソリンがぶちまけられたようにネットは、炎上していました。個人的に印象的なのは「安倍首相、星野源の動画にコラボで炎上」。芸能って政治に利用されやすいですね。



同じように「芸術、文化に対する国の助成」のニュースも。数日前に発表になりましたが「コンサートや演劇などが中止や延期に追い込まれた主催者への支援策」が決まりました。今後行う公演を収録し、海外に動画を発信する場合に最大で5000万円が補助されるそうです。

アニメーションは、特に助成はないようで、一般企業と同じような支援策でした。



法人を支援する施策が多いので、漫画家・イラストレーターの個人事業主クリエイターはもっと厳しそうです。凹天は、このような人たちと近い境遇だったと思います。

凹天の時代は、風刺画家、漫画家は、当時の超売れっ子を除き、かなり貧しそうです。凹天の晩年、デパートで自分の絵が高価で取引された時、凹天自身が一番驚いたという記述があったことも思い合わされます。

それが理由か分かりませんが、漫画を芸術まで押し上げようとした痕跡も見受けられます。地位向上のために、いくつか集団を立ち上げてはつぶれを繰り返していたからです。その一方で、お金がもらえるなら、国策のために、ビラやポスターを描くことも厭いませんでした。もっとも、絵画の方は、もっとひどい状況だったようです。後の巨匠と言われる川端龍子(かわばた りゅうし)や藤田嗣治(ふじた つぐはる)、安井曽太郎(やすい そうたろう)、東郷青児(とうごう せいじ)ですら、筆一本で食べていけなくて、漫画に手を染めた時代もあったのですから。



同時に漫画は、今はハイカルチャーではないけれど、かなり文化として認められつつあるのだな、とも感じています。というか、Cool Japanにアニメは欠かせません。

凹天の場合、新聞記事のための風刺画、広告まで仕事の幅があったような気がします。でも、今は、主にエンターティメントを主戦場とする漫画家が軽い風刺を書いただけで、話題をかっさらうのですね。いや、炎上するというか。凹天らはこんな時代が来ると思っていたでしょうか?

さて、下記は、現代の風刺画とも言えるTwitterのイラストです。


その日、私はTwitterを見ていて、リアルタイムでどんどん燃えていったのを見ていました。

発端は、漫画家・浦沢直樹(うらさわ なおき)さんのポストでした。個人的には、大好きだった『20世紀少年』が描いたディストピアを超えてる、と驚愕しました。

『STOP!ひばりくん』(今思えば、先見の明があった作品だと思います)の江口寿史(えぐち ひさし)さんが記者会見の動画を投稿して、浦沢直樹さんが反応したという感じでした。

これを悪口と思うTwitter民がうわーっと書き込んだという・・・。この国って、公人を揶揄しただけで暴れるのだろうか。実はずっと見てて気付いたことなのですが、比較的若い層が多いなという印象でした。

お上は正しい、とか文句を言うなと、いう教育が行き届いているんでしょうか。道徳の授業を強化しただけはあったかもしれない。最近の道徳の教科書、カラーでしっかり出来ていて面白い読み物らしいです(小3の娘が言うには)。

「安倍さんを侮辱!」と怒っている人はわずがで「漫画家が政治問題を書くなんて」が多かったです。凹天さん、漫画家は政治を表現しちゃダメな世の中になったみたいです。政治に、口出しするのが本分だった凹天さん、草葉の陰でどんな感じでしょう、笑。



漫画がお行儀の良い文化、いや、ハイカルチャーになってきたのだなと感じたのです。「表現の自由」はどこにいったのでしょうか。

別の角度から捉えてみると、現代の大衆は政治に関わりたくないということかもしれません。大人がギャーギャーやっているドロドロした政治は自分の生活にも頭にも入れたくないってことなのかもしれないですね。

政治への失望かもしれないし、社会変革や政治参加すら考えないってことだから、自分の一票の脆弱さを考えると投票率はさがるわけですね・・・。これって、こんな時代の一端をになったわたしたち、大人の責任だとも思います。ほんと。

 こんにちは。一番座から片岡慎泰です。

 今回は、柴田勝(しばた まさる)の巻の最後になってしまいました。この状況下では。

 柴田勝の戦後の足取りを追うために、手がかりを3点挙げておきます。というのも、柴田勝の戦後については、現在の状況下では、文献の入手や、その調査ができないからです。

 ひとつは、柴田勝のご遺族を訪問することです。国家図書館にある柴田勝の私家版は、当の本人所蔵のものが寄贈されたということが、判明しています。その時期は、生前か没後か分かりません。

 ただ、最後に住んでいた住所が、小冊子の最後に手書きで記されています。世田谷区五本木でした。ここを訪問できれば、手がかりがつかめるかもしれません。

 ふたつめは、『映画史研究』の編集責任者である佐藤忠男(さとう ただお)に手紙などでお尋ねするか、直接お会いすることです。現在の住所は不明ですが、発行所は世田谷区松原であることが、この雑誌に記されています。文化功労者に2019年に選出。勤務先だった日本映画大学に問い合わせることもありかと。




 最後は、このブログの第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その2」で書きました。そこを再掲しておきます。「1986年3月29日付『讀賣新聞』には、それを支えた久米利一という人物の特集が組まれていることも、ここで記しておきます。印刷機用ゴムローラー製造会社に勤務しつつ、自宅兼印刷所で『文芸雑魚(ぶんげいざこ)』という小冊子を発行し続けました。ここから、柴田勝、そして初期の無声映画に関わった人びとに関する私家版が続々と出版されたのです。その成果を認められ、1985年には、第6回山路ふみ子文化財団特別賞を雑誌編集者として受賞」。 


 1986年3月29日付『讀賣新聞』の記事をここで紹介しておきます。

 「最新号が発行されたのは、昨年十月。以来、五か月間休刊に追い込まれている。胃カイヨウで、胃の摘出手術を受けて入院して入院していたのである。会社勤めをしながら、原稿を集め、記事を書き、レイアウトを決め、活字を拾って印刷するのは至難の技。睡眠時間四、五時と眠る時間を削ってやってきたその無理がたたったのだろうか。
 『食事が満足にノドを通らないものですから会社も休んでいる状態で、復刊のメドはたっていません。もうだめかと思ったこともありましたが、山路さんの賞をいただいて、もう一度やろうという気力がわいてきました』と、久米さんは声に力をこめていった」。

 久米利一の読み方は不明。手がかりは、『文芸雑魚』の所蔵館である国会図書館か、公益財団法人日本近代文学館にあるかもしれません。あるいは、公益財団法人山路ふみ子文化財団にある可能性もあります。日本近代文学館と山路ふみ子文化財団に、勤務先から問い合わせていただいたのですが、不明とのことでした。


 上記に挙げた『讀賣新聞』によれば、当時の住所は、足立区保木間町です。ここを訪問できればいいのですが。

 一番座からは、夏にはコロナウィルスが一息つくか、その後、収束することを祈りつつ、擱筆(かくひつ)します。


裏座再びです。コロナでなかなか調査が進みませんが、それはそれとして、日々流れていくニュースがあるので、芸術芸能を取り巻くもの記録をしておきたいと思います。

前段で、漫画やアニメの今の状況を書きましたが、エンターテイメントという意味で、古くからある演劇やクリエイター界隈と比べてみると、もうちょっと背景が分かるような気がします。

平田オリザ(ひらた おりざ)、西田敏行(にしだ としゆき)、糸井重里(いとい しげさと)・・・この業界も同じく炎上しておりましたね。


平田オリザさんの炎上した言葉です。

「製造業の場合は、景気が回復してきたら増産してたくさん作ってたくさん売ればいいですよね。でも私たちはそうはいかないんです。客席には数が限られてますから。製造業の場合は、景気が良くなったらたくさんものを作って売ればある程度損失は回復できる」。

製造業の何を知っているねん的に(なぜか大阪弁)ツッコまれてましたが、その後の上から目線がバレて、なかなか厳しい方向に。国の文化政策にも関わっていた平田オリザさん、そういうのも関係してたのかしら。結構、彼の著作好きだったんだけどなぁ。

さらにまずかったのが、ご自分の主宰する劇団のHPで、反発するツイートを「悪意」と決めてかかって「一次資料、原典にあたっていない単なる嫌がらせ」とまで表明してしまったこと。あがい、のーぬぴーぬどぅかびゅー(えぇ、あなたなんのおならをかいだの、が直接的な訳ですが、どうしてトチ狂っちゃったの?)。

「製造業より演劇業が大変」って言う必要はあったのだろうか。その後も様々な人とやりとりしたが火に油でした。

「ある学術領域での知見や通説を披瀝してただけでバッシングを受けるというのは、天皇機関説事件の例を引くまでもなく、相当に危険な兆候であると感じます。」と書いていました。

「天皇機関説」を持ち出す、その言葉のチョイスにも驚きました。素直に謝ることは難しいのでしょうか。単に他業界への配慮がなかっただけですし。しかし、製造業従事者で演劇が好きだった人はどんな気持ちだろう。

うーむ、平田オリザの「伝える力」を使った演劇は、下々の民に与えてくれるものだったのかもしれないなぁ。この人、たまに天皇を例えに使うのですが、私はいつもピンときていなかったです。

糸井重里さんもTwitterで「責めるな。じぶんのことをしろ。」で燃えてました。みんな、ナチュラルに上から目線でした。表現者はそういうところがないといけないのかもしれないとすら思いました。

どーでもいい話かもしれませんが、個人的には、平田オリザさんが57歳で、糸井重里さんが71歳、西田敏行さんが72歳。みんな、戦後生まれなんですね。年齢も年齢だし、肩書もあるので周りの人がいさめてくれなかったんだろうか。

ふと、戦前生まれの曽野綾子(そね あやこ)さんのことを思い出しました。ちょっと似ているのですよね。職業と差別という関係性もそうですが、無意識の特権意識、差別意識が。

2015年に『産経新聞』のコラムで「老人の介護のために移民の労働力は必要だけど、そばに住まないでね」というようなことを書いて、海外でレイシスト?と炎上していました。アパルトヘイトだって「住み分け」して生活圏を共有しなかったと書いたからです。

そのコラムに対して、南アフリカ共和国のモハウ・ペコ駐日大使が「アパルトヘイトを容認し、賛美している」と抗議されたいました。日本は、人によっては、今もこういうベースで物事が語られているんだろうな、と思う。

自分たちだけが人間らしく住む自由はあって、移民には制限する。多分、彼らの文化を尊重するわけもない。「専門知識も難しい日本語も必要ない」と曽根綾子さんのコラムには書いてあったが、移民はまるで同じ社会は生きる必要がないと言う書きっぷりでした。

今回の三人のアプローチの仕方は、曽野綾子さんと同じく「特権意識、既得権益的な考え」が通底しているとも思えるのです。

英国やフランスなどのヨーロッパ各国では、多民族国家として「皆がどのようにいっしょに生きていくか」を絶えず模索して、国内法を整備しています

外国の私たちでもなんとなく分かるように、移民関連の映画はコメディからドキュメンタリーまで数多く観ることができます。私も好きな作品はたくさんあります。移民の世代は何代にもわたっていることもあり、今や基本的に「差別的なことはアウト」は暗黙の了解なのだと思う。だから、曽野綾子さんは海外からバッシングを受けたのだと思います。もちろん、曽野綾子さんは、調べた範囲では、公的謝罪はしなかった。

実は、日本に「表現、言論の自由」が育っていない、論じられていない理由はこういった「無意識の差別感覚」にどっぷり浸かってるからなのかな、と思うのです。
批判にさらされた時、「悪意」と決めつけ、真実を真っ向から見ないし、耳も貸さない。

浦沢直樹さんのイラストを論じないこと、見ないふりをすること、批判をただの悪口ととらえること。失くすものは大きいと感じます。

戦前は「表現の自由」を強圧し、戦況に向かっていきました。凹天や漫画家たちが戦意高揚のチラシを描いている時、どんな気持ちだったのでしょう。あれから75 年たっていますが、日本ではこの類いの議論をする素地は少なかったのかもしれません。

ですので、一部の表現者という名誉職の人たちに、一般人が素朴にツッコミができるTwitterは、なかなか悪くないとも思うのです。今回の木村花さんの事件で、さらに健全化するのを願っています。

さて、凹天と仲間たちは戦後どのようになったか、なのですが、芸大出身のエリートたちの多くが戦後芸術の道に入っていたりします。それも、ある種の逃避だったのかもしれません。

凹天は、選んだのか選ばなかったのかわかりませんが、多分選べなかったんだと思います。エリートでも特権階級の出身でもないので、ひたすら漫画でご飯が食べていくしかなかったのでしょう。2番目の妻が働きづめに働いて凹天を支えたという記録もありました。

それからは、柴田勝とは、まったく違った人生を凹天は歩んでいったのでした。

昭和初期には、監督を務めるなどした柴田勝も、次第に戦後は名前を忘れ去られていきます。検閲をかいくぐって苦心をした時代を思い返すこともあったのかもしれない。94歳で、急性肺炎のため死去し。筆まめだったことから、私たちにたくさんのことを教えてくれたました。感謝!

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

浦沢 直樹(うらさわ なおき)1960年〜
漫画家。東京都府中市出身。手塚治虫文化賞大賞を2度受賞している唯一の漫画家。代表作に「20世紀少年」「YAWARA!」 「MASTERキートン」「 MONSTER」。

佐藤忠男(さとう ただお)1930年~
新潟県新潟市出身。予科練出身。新潟在住のまま、国鉄へ勤務。国鉄の職員のまま、鉄道教習所を1949年に卒業。新潟市立工業高等学校(現・新潟市立高志高等学校)卒業。処女作『日本の映画』(三一書房、1956年)でキネマ旬報賞を受賞。1957年に『映画評論』の編集部員になるよう誘われ、上京。『映画評論』、『思想の科学』の編集にかかわりながら、評論活動を行う。1973年から、妻の佐藤久子と共同で個人雑誌『映画史研究』を編集・発行。日本映画学校校長(1996年~2011年)、日本映画大学学長(2011年~2017年)などを歴任。第7回川喜多賞を、妻の佐藤久子とともに受賞。その他、紫綬褒章(1996年)など受賞多数。

久米利一(鋭意調査中)1937年~鋭意調査中
会社員、出版者、編集者。不詳。1985年、第4回山路ふみ子文化財団から、映画特別賞を受賞。

平田オリザ 平田 オリザ(ひらた おりざ)1962年〜
劇作家、演出家、劇団「青年団」主宰、こまばアゴラ劇場支配人。

曽野 綾子(その あやこ)1931年〜
作家。聖心女子大学文学部英文科卒業。2003年に文化功労者。  


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2020年03月24日

第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」



こんにちは。裏座から宮国です。
さて、今回の新型コロナで世界が震撼してますが、いかがお過ごしでしょうか?
一刻も早く、特効薬が発明され、みんなが安寧のなかで過ごせますように。
私は、良くも悪くも複雑な心境で書いています。


先月の20日から一週間ほど、私は仕事でイタリアに行って来ました。今の報道を見ると、書いている時点(3月21日現在)で、イタリアは死亡者は4000人を越えており、数日違えば、私も日本に戻れなかったと思います。それは、それでしょうがないのかもしれないのですが、何よりもアジア人として、あの場にいることはきっと精神的負担でしょう。

昨今のイタリアをはじめとしたEU各国は、中国頼みの経済であり、昨年「イタリア一帯一路、中国と締結、G7切り崩し」が個人的には大ニュースでした。ギリシャやポルトガルなどが既に参加していたこともあってか、イタリア政府はノリノリで締結。

この締結にイタリア以外のG7の他の国々は、欧州の威厳がゆらいだのではないでしょうか。そういう意味では、ユルユルな(とはいえ、背に腹は変えられなかったのかも)イタリアで、中国が提唱する経済圏構想「一帯一路」におもねったのは衝撃が走ったのだと思います。

この締結は、ある意味、経済のパワーが肌の色の壁を乗り越えたとも言えます。

その経済のパワーを詳しく見ると「締結にあわせて両国政府間や企業間で技術やエネルギー、観光分野など29件、50億ユーロ(約6250億円)以上の貿易協定と契約が結ばれた」とメディアは伝えています。



私は、当時、このニュースを見て、先に書いたように人種をこえる時代になるのかも、と淡い期待を抱いていました。ですが、今回イタリアで道端でティーンエイジャーに「コロナ!コロナ!」と叫ばれたときは、やっぱりまだまだなのかなーと思わずに入られませんでした。若年層の人権のリテラシーは低いのが現状なのでしょう。

ですので、ラディカルな差別主義者がいたら、殺されかねないとも思えたわけです。イタリア滞在中に、急に人は出歩かなくなり、時代は次のフェーズにいきなり突入したと感じました。

時代における次のフェーズでは、誰もがネットリテラシーを試されるのでのでしょう。

原点に戻れば、普段の生活で言えないことは、ネットでも言わない、という当たり前のこと。裏表、二枚舌、嘘が通用しない世の中が進んでいくのだと思います。簡単に追跡されるわけですから。

同時に同調圧力的な今までの価値観も打ち砕かれつつあります。LGBTも含め、ダイバーシティ、ジェンダーレス、SDGsとは「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」などなど、こういうことが言語化されて会議されている時点で、世界の共有認識は確実に広がっているということでしょう。

そして、その土壌で、デジタルネイティブたちが新しい世界を作っていくー それこそ、ビジネスの力で世界を変えようといった経団連のいう「Society5.0」なのかとは思います。

狩猟社会(Society1.0)
農耕社会(Society 2.0)
工業社会(Society 3.0)
情報社会(Society 4.0)
超スマート社会(Society 5.0)

各国とも、まだまだ庶民や仕事の現場には落ちてきていない考えかもしれませんが、30年後には当たり前になっているのかもしれません。そして、超スマート社会とは、アニメに関して言えば、ネットを通した「表現」が庶民を触発し、時代の流れを作っていく、と言ったら良いでしょうか。

若い世代が、経団連や国の見落とした部分も鋭く、さまざまなメディアを通してどんどん表現をしていく「社会の主役」になっていけば良いのに、と個人的には思います。

ですが、ニュースでは【<2021年卒 就職活動生アンケート> 就活生、志望企業の働き方制度に「副業」「テレワーク」より「育児や介護との両立」を重視】だそうです。日本の若者たちは、個人ではなく集団として安定志向のなかで自由さを享受していくのかもしれません。

https://www.jiji.com/jc/article?k=000000144.000027235&g=prt

それは、まるでアニメを始めた凹天を含めた3人の漫画家たちが無意識に夢想した未来だったのかなと思います。自分を含め、誰もが自由に表現できるような世界を作り出したリーダーたちでもあり、実際に八面六臂の活躍でした。漫画家専業のイメージではなく、政治記者であり、芸術家で、イノベーターだったからです。

彼らは、時代に選ばれた「運命の人びと」だったような気がします。


同時代の人たちを調べていくと、時代に踊らされたり、踊ったりという様子が見えててきます。国家に弾圧され、社会世相が変わっていくなかでも「個の表現をし続ける」というチャレンジしてきました。

凹天は、戦前はアナーキストであったような痕跡が見えますが、時代の風にどんどん取り込まれて、戦争加担者になっていきます。当時の仲間たちは、逮捕されたり、その末に亡くなったりとひどい時代でした。そのなかでも凹天が生きながらえることができたのは、凹天が戦争加担者になったからでしょう。

老後は仏画を描きながら、彼は何を考えていたのかと思うと、少しさびしいような気持ちにもなります。ですが、実はそれはただの大きなお世話で、最後まで後進のために勉強会をやっていたことを考えると、凹天は過去より未来を見つめ続けたのかもしれません。

今回、イタリアで20歳前後の世界各国のモデルと話しましたが、彼らはとても日本好きでアニメや文化にとても興味をもっていました。私が人気の作品を教えてもらうほどでした。100年くらい前、凹天たちが始めたアニメは、今では日本の最大と言っても過言ではない世界的コンテンツとなったのだなと驚きがありました。

世界がスクリーンやテレビ画面を通して提供した子どもたちへのコンテンツがアニメなのです。そして、日本のさまざまな大人たちの尽力で独特に発達したアニメーションは今や世界では不動の地位なのでしょう。日本らしいユニークさは世界中の人々を夢中にさせ続けています。

凹天もそうですが、今のアニメ関係者も自分たちが思う以上に、日本アニメは世界に広がっていると考えたほうが良いかもしれません。YouTubeのような時間を遡れるメディアでは、どの時代のコンテンツでも即座に見ることができるので。



Amazon Primeなどのサブスクリプションも発達したこの数年で、コンテンツの質と量を一気に今の子どもたちは受容できる時代になりました。質と量を越えた先には、リテラシーや美意識など一層高くなっていくのではないでしょうか。ITで言葉の壁も、国家も越えつつあります。今や世界のデジタルネイティブたちが、手をつなぎ合うようになる土壌が出来たのだと思います。

「One for all, All for one」という言葉がありますが、意味は「ひとりはみんなのために、みんなはひとつの目的のために」です。私はそれがアニメなどで描かれる理想社会のような気がしています。ヒーロー、ヒロインは、運命に翻弄されたり、悩んだりしながら、意志の力で結末にたどり着きます。そこには正誤や勧善懲悪だけではなく、グレーの部分にも対話し続け、答えを探していく姿が見えます。だからこそドラマティックでハートフルなストーリーになり、世界の人びとを魅了するのでしょう。

そして、そのヒーロー、ヒロインは、いきなり生まれてきた偶像ではなく、今までの未来に希望を託した人びとの「根源的な人間らしさや理想」を考え続けた結晶なのではないかと思うのです。

 こんにちは、一番座から片岡慎泰です。

 先月、私はドイツのミュンヘンに出かける用事がありました。ご存じのとおり、全世界は新型コロナウィルスの問題でもちきりです。私もよく帰国できたものだと、柄にもなく神様に感謝しています。

 さて、今回はいい機会だと、ミュンヘンのカールスプラッツ近くのバイエルン州立図書館を訪れました。もちろん、日本初期アニメーション映画研究で知られるフリデリック・S・リッテンにお会いするためです。





 準備が遅れた当方のせいもあり、残念ながら、お会いすることはできませんでした。前もって2度のメールを送り、当日インフォーメーションから電話をしていただいたのですが、かえすがえすも惜しいことをしました。月水金とお勤めで、ちょうど月曜日だったのですが。ここで、リッテンさんのメールを紹介します。

Lieber Herr Kataoka,

es tut mir leid, dass wir uns verpasst haben. Ihre Mails sind in einem Spamfilter gelandet, der eigentlich gar nicht hätte aktiviert sein dürfen. Offenbar hat mein Provider ein Update aufgespielt und dadurch die Einstellungen verändert.

Ich hoffe, Sie hatten dennoch einen schönen Aufenthalt in Deutschland und München und kommen gut nach Japan zurück.

Übrigens: Am 5.3. erscheint にっぽんアニメ創生期 bei Shueisha. Der Band enthält neben einer japanischen Übersetzung meines "Animated Film in Japan until 1919" Beiträge von Watanabe Yasushi und Matsumoto Natsuki über die frühen Anime.

Beste Grüße

F. Litten

片岡様

 残念ですが、私たちは行き違いになりました。あなたのメールは、スパムメールに振り分けられていました。スパムの分け方が機能不全を起こしていたようです。どうやら、私のプロバイダーがアップロードを自動でしてしまい、そのため設定が変更されていました。
 ともあれ、あなたがドイツとミュンヘンでいい日を過ごして、元気に日本に帰国することを望んでおります。

 ところで、3月5日に集英社から『にっぽんアニメ創成期(記のこと)』が出版されます。この本には、私の『Animated Film in Japan until 1919』の日本語訳とならび、日本の初期アニメに関する渡辺泰(わたなべ やすし)と松本夏樹(まつもと なつき)の論文も載っております。

敬具

F・リッテン

 そこで今回は、柴田勝(しばた まさる)から離れますが、前々回にお約束したリッテンとのコメントのやりとりをできるかぎり修復し、この本について少しですが管見(かんけん)を述べたいと考えます。





 
 この本は、これまでの研究成果を上手にまとめています。今後、日本の初期アニメ映画やそこに携わったマンガ家や研究者、資料のよい指針になるでしょう。

 しかし、細かくなりますが、問題点も散見されます。ここでは3点のみ。というのも、図書館やフィルムセンター、文学館が、新型コロナウィルスのため閉鎖、そして凹天の原史料が集積された川崎市市民ミュージアムが水没してしまい、いまだ凹天資料の状況が、詳(つまび)らかにできないからです。

 今年の秋頃、宮古で、時も場所も未定ですが、シンポジウムをする予定です。しかし、そこで私が議題に出そうと予定していた凹天の父、貞文(さだふみ)の追悼式典の資料である「下川貞文石碑建設」、「下川貞文碑建設寄付金額人名簿」も行方知れず。下川貞文は、沖縄島から、宮古島に渡り、平良小学校で(現・平良第一小学校)訓導になりました。ついで、西辺尋常小学校(現・西辺小学校)も兼任し、新里尋常小学校(現・上野小学校)で、校長にもなりました。凹天は、父が亡くなった後、母の実家の鹿児島、そして上京してしまいます。せっかく宮古でシンポジウムなら、宮古でお世話になった方のお礼に貞文にも言及しようと思ったのですが。なお、『にっぽんアニメ創成記』(2020年、集英社)については、機会があれば、詳述する予定でいます。





 その1。写真の著作権について。用いられている日本アニメーションの三大始祖である、凹天、幸内純一(こううち じゅんいち)、北山清太郎(きたやま せいたろう)の写真をご覧ください。この本の第一部の扉です。



 ここには撮影者のクレジットがありません。しかし、80ページには、北山清太郎の撮影者が載っています。では、他のふたりは一体だれが撮影したのでしょうか。



 
 実は、凹天を調べ始めた当初、子どもをもたなかった凹天、幸内純一やその後継者の背景を追うのに難儀をしました。写真、作品、資料などの消息を訪ねることも難しかったからです。

  誰がどの目的で撮影したのか不思議だったのですが、ひょんなことから知るところに。山口且訓こと山口旦訓(やまぐち かつのり)に、今年1月お目にかかり、話をうかがうことができました。とりわけ、世の中に出ていない凹天の写真までいただけたのは望外の喜びでした。
 
 初期アニメーション映画を撮影した神々の写真のうちには、山口さんが撮影された写真もあるそうで。しかし、さまざまな資料で山口さんのクレジットがなく用いられています。ネットで拡散される時代といえばそれまでですが。




 そして、資料をじっくり読み込んでみると、なるほど、と思うことばかりでした。

 例えば、日本アニメーション映画史の金字塔である『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)です。

 この本を最初に精読した時に感じたことですが、本文の文体や内容、写真、資料編の統一感がおかしいのでは。つまり、第一部は共著でなく、山口旦訓単独で書かれていました。晩年の幸内純一は山口さんが撮影者だということが分かります。

 また、この本に掲載されている凹天の写真が山口さん撮影の写真かどうか明らかではありませんが、山口さんが晩年の幸内純一や凹天を直に訪ね、記事にしたことはこのブログの第12回で紹介しました。

 そして、これまで世に発表されていなかった凹天全身像があります。



 ちなみに、20代の記録では、凹天の足の大きさは10文ジャスト。体重が11貫8百。身長が5尺2寸ほど。足の大きさをご覧ください。また身なりが、南九州をよく知っている人によると、南九州人らしいと。父方が熊本人、母方が鹿児島人である凹天ならありうるとのこと。所作はいくら隠そうと思っても、ついにじみ出るのではないでしょうか。

 凹天20代の体格の記録は、『日本一』という雑誌に掲載されています。この資料は現在調査中ですが、早稲田大学中央図書館では、1915年1巻1號の資料とあります。しかし、内容から判断すると、凹天と最初の妻たま子との夭折した子どもが生まれた1919年頃に出されたのではないかと。出版社の南北社が、1915年の第1号が売れたので、二匹目の泥鰌を狙ったと推測します。目黒区駒場にある日本近代文学館が再開したら、また足を運ぶ予定です。実は、ここで『少年倶樂部』に載った下川清という名の投稿者が、凹天ではないかとずっと調査中。下川家の幼名は、調べる限り、清でした。凹天は三男ですが、兄ふたりは早逝しています。そこから清と名乗った可能性は高いと考えます。

 『にっぽんアニメ創成記』に掲載された凹天の写真については、川崎市市民ミュージアム蔵ということですが、これから詳細を調べる予定です。しかし、幸内純一の写真については、明らかに故意を感じます。『映画評論』28号には、山口旦訓による幸内純一の追悼記が載っています。長文失礼。

 「秋もたけなわの十月六日、幸内純一さんが老衰のため亡くなった。八十四歳であったと聞く。(略)私が初めて幸内さんとお会いしたのも秋だった。十年前、早稲田の学生だった私は卒論に日本漫画映画史を選んだ。資料とてなにもないので、多くの人々をたずね歩いては少しずっ資料をまとめていた。幸内さんの資料をまとめていた。幸内さんの住所を誰におそわったかはおぼえていない。が、吉祥寺の駅をおりて十分、静かな住宅街に幸内さんは住んでいた。
 他の多くの人と同じように、幸内さんもまた戦災で資料をすべて失っていた。しかしとても記憶力のよい方で、四十余年も前のことを正確におぼえておられた。うかがいみるにそのころ、体の調子が悪いらしく、元気がなかった。私は、たまたま買い持っていたアンプル入り疲労回復剤を、『これでもお飲みになって元気を出して・・・』と置いてきたことをいまでもおぼえている。
 その後、ごぶさたを続けたが、本誌に漫画映画史を寄稿するにあたり、再取材のため吉祥寺をたずねた。すでに調布の仙川へ移転ののちだった。仙川での幸内さんは以前よりずうっと元気であった。
 下川凹天さんや山本早苗さんなど、私がお会いした人々の近況を伝えると、なっかしげに目をしばたいていた幸内さん。そして自分は久しく昔の仲間と連絡をたっているが、これからはおつきあいをしたいものだともいっていた」。

 この文章から分かるように、われらが凹天や幸内純一だけではありません。2005年、日本のアニメを制作し、特別功労章をもらった20人の中で、創成期のパイオニア10名の半数以上の人物、そしてその他の漫画家やその研究者にも、山口旦訓は、実際に会っているのです。村田安司(むらた やすじ)、山本善次郎(やまもと ぜんじろう)ないし山本早苗(やまもと さなえ)、正岡憲三(まさおか けんぞう)、大藤信郎(おおふじ のぶろう)、須山計一(すやま けいいち)、津堅信之(つがた のぶゆき)などなど。

  『にっぽんアニメ創成記』(集英社、2020年)に掲載された写真ひとつにとっても、これだけ功績があった山口さんの名前がクレジットされていない、参加されていないのは、とても残念と思わずにいられません。

 その2。日本における初期アニメーション映画リストについて。

 少なくとも第二次世界大戦前や戦後直後の映画リストについて、だれが作成したのでしょうか。『日本アニメーション映画史』の記述や『映画評論』のリストを読むと、当時、これを作れたのは、山口旦訓以外にいないのでは。





 その3。資料の扱い方について。

 最初に述べたとおり、『にっぽんアニメ創成記』は今後の若い研究者にとって、よい資料になることは請け合いです。しかし、私自身がこのブログで紹介した資料や、その気になれば現在手に入る資料について、言葉は悪くなりますが、杜撰(ずさん)な扱いが目立ちます。先ほどの『日本一』や凹天第2作『凸凹人間』(1925年、新作社)、凹天の『自筆年譜』(1970年頃、石川進介の加筆あり)、佐宗美邦(さそう よしくに)主宰の東京漫画スケッチ会『漫画百年』シリーズ、大城冝武(おおしろ よしたけ)の論文、清水勲(しみず いさお)の『風刺画研究』、新漫画派集團、漫画集団、漫画家協会の一連の書物、各新聞などをもう少しきちんと突き合わせて、どこまで判明して、どこまで不明でないのかという点が、正直、物足りません。

 付言すると、アニメ研究業界の狭さ、換言すれば、団結の固さにも、かなり困りました。業界全体を盛り上げようという気がまるでないのです。すべてではないと思いたいのですが。『日本アニメーション映画史』という名著が、なぜ再販されないのか、そして、『にっぽんアニメ創成記』が出版されたのでしょうか。個人名は控えておきます。

 さてさて、気を取り直して、リッテンとのコメントのやり取りを最後にできるかぎり再現しておきます。いくつかミスタッチや思い違いもありましたので、手直しした部分もありますがご容赦を。l


 
リッテン:

Hello,
I'd like to comment that a) Mr Kataoka should have read my research note from 2013 more carefully - or, even better, should have read my book from 2017 on early Japanese animation (see http://litten.de/abstrtoc/abstr6.htm). I certainly did not confuse 「一巻」with「最初」. b) 『活動之世界』 nowhere gives any information that might help in deducing when 『芋川椋三玄關番の卷』 was released. That is one of the reasons why the report by Mr Watanabe Yasushi and others confirms my statements regarding this film (see http://anime100.jp/series.html). c) The quotations from Asahi Shimbun and Yomiuri Shimbun that are claimed to date from 13th and 14th July 1909 actually are from 1916. These texts have been used in my above-mentioned book, which also gives the most accurate information on Shimokawa's role in Japanese animation history.

Mit freundlichen Gruessen

F.S. Litten

Posted by F.S. Litten at 2019年09月26日 02:17

こんにちは、以下のようにコメントいたします。

a)片岡氏は2013年の私の研究ノートをもっと注意深く読むべきです。日本の初期アニメーションに関する2017年に出版された本を読むとさらに良いでしょう(http://litten.de/abstrtoc/を参照) abstr6.htm)。 私は「一巻」と「最初」をもちろん混同していません。

b) 『活動之世界』には 『芋川椋三玄關番の卷』がいつリリースされたかを推測するのに役立つ情報はどこにもありません。
それが渡辺泰氏らの報告がこの映画に関する私の声明を裏付けている理由の一つです(http://anime100.jp/series.htmlを参照)。

c)朝日新聞と読売新聞からの引用で、1909年7月13日と14日と主張されていますが、実際には1916年のものです。これらのテキストは、上記の本で使用され、日本のアニメーション歴史における下川凹天の役割について、最も正確な情報を提供しています。

敬具

F.S.リッテン


 宮国:

コメントありがとうございます。
先程気づきました、ごめんなさい。

最初に、aについて答えます。
私たちはすでに、日本の商業アニメ映画の最初の公開リリース日を特定しました。東京朝日新聞の1916年の12月30日と1917年の1月3日を
チェックしました。
そちらでもチェックして頂けますか?

https://atalas.ti-da.net/e11104588.html

二番目の質問ですが、片岡氏があなたに写真をお送りすると思うので、しばしお待ちを。

三番目の質問ですが、あなたのおっしゃるとおり、間違っていると思います。こちらでチェックしますね。

今回は宮国が答えました。
コミュニケートは、英語、日本語、ドイツ語のどちらのほうが良いでしょうか?

宮国



 リッテン:

ご返答ありがとうございます。
しかしながら、私はすでに1916年の12月30日の朝日新聞の予告については論じてあります。私の本の80ページです。
ここでは「凸坊が日本のアニメーションを指す」とは示していません。実際、フィルムも特定していません。
下川のアニメーションであるという可能性もあまり高くありません。
最終的に、天活の凸坊大会は1917年の1月10日の朝日新聞によると輸入された凸坊(注・アニメ)が上映されました。国産のものだという言及はありません。
もし、あなたのほうがドイツ語がよければ、Eメールも含めて、ドイツ語にしましょう。
私の日本語はかなり貧弱なので。

F.S.リッテン



 片岡:

Hallo aus Tokyo/Japan,Litten-san,vielen Dank dafür,dass Sie auf unserem Blog kommentierten.

Ich antworte auf zwei Punkte. Erstens:hier muss man nicht nur 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916,sondern auch 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 3.1.1917 und 6.1.1917 bestätigen. Dann lässt sich das sehr wichtige Problem leicht verstehen, dass 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916 gerade der erste Animationsfilm von 下川凹天 bedeutet.

Zweitens:in 活動之世界 kann man natürlich nicht wissen,wann das erste,zweite,diritte Werk von 下川凹天,wie Sie schrieben.Das weiß ich doch. Warum? Weil dort die Liste der japanischen Filme noch nicht steht.Solange ich die Ursache untersucht,konnte ich sie zuerst in 活動之世界,September bestätigen.Ich schrieb darüber.

Übrigens behaupteten Sie, dass 芋川椋三 玄關番之巻 im April,1917 erst aufgeführt würdet.Woraus konnten Sie die ausreichende Beweise herausfinden?

Mit freundlichen Grüßen

Noriyasu Kataoka

 日本の東京から、こんにちは、リッテンさん。私たちのブログにコメントをいただきありがとうございます。

 ふたつの点についてお答えします。まず、ここで確認する必要があるのは、12月30日付だけでなく、1月3日と6日付朝日新聞です。すると、きわめて重要な問題が氷解します。12月30日付朝日新聞が、まさに下川凹天の最初の映画を指しているということを。

 次に、あなたがお書きになったように、『活動之世界』では、下川凹天の第1作、第2作、第3作が判明しません。そのことは私も存じております。なぜでしょうか。邦画のリストが、その時には存していないからです。その原因を調べてみますと、『活動之世界』では7月号になって、ようやく掲載されているからです。これについて、私は述べております。

 ところで、あなたは1917年4月に『芋川椋三 玄關番の巻』が上映されたと主張しています。その主張に適う証拠をどこで見つけられたのでしょうか。

敬具

片岡慎泰


 リッテン:

Hallo Kataoka-san,

es tut mir leid, aber es blieibt reine Spekulation, dass 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916 sich auf einen Film von Shimokawa bezieht. Der erste Film Shimokawas - und damit der erste ja panischen Animationsfilm fuer eine normale Kinovorfuehrung - war nach unserem derzeitigen Kenntnisstand
凸坊新画帖 芋助猪狩の巻 vom Januar 1917. Ich vermute(!), dass dieser Film auich unter dem Titel 凸坊新画帖 明暗の失敗 gezeigt wurde, aber das ist nur moeglich, nicht sicher.
Sie fragen, woher ich wissen will, dass 芋川椋三 玄關番の巻 im April 1917 gezeigt wurde. Ganz einfach: der einzige zeitgenoessische Beleg fuer diesen Film, den ich 2013 entdeckte und den Sie auch nennen, ist der Beitrag in “The Kinema Record” mit dem Titel フィルム見物 四月の巻. Und der Titel bezieht sich nun einmal auf den April, nicht den Maerz.
Natuerlich ist es moeglich, dass dieser Film bereits Ende Maerz 1917 im Kino gezeigt wurde, aber das waere wiederum reine Spekulation. Im April 1917 war er auf jeden Fall zu sehen.
All das steht aber in meinem “Animated Film in Japan until 1919”, das es uebrigens zur Zeit bei Amazon Japan recht guenstig gibt.
Beste Gruesse
F.Litten

 こんにちは、片岡さん。

 残念ですが、1916年12月30日付朝日新聞の凸坊が、下川の作品と関連しているというのはまったくの憶測にすぎません。下川の最初の映画ーこう言ってよければ、通常の映画上映からすれば、あわてふためいたような下川によるアニメーション初映画は、目下の知見では、1917年1月の『凸坊線画帖 芋助猪狩』でした。私は推測(!)しているのですが、この映画が『凸坊線画帖 明暗の失敗』というタイトルでも、上映されたと。もちろん、これは可能性であって、確証されたわけではありません。
 あなたは、『芋川椋三 玄關番の巻』が1917年4月に上映されたことを私がどこで知ったか、お尋ねしております。まったく簡単。この作品唯一の同時代の証拠を私が2013年に発見したのです。あなたも挙げていましたね。この証拠は、田村が寄稿した『キネマ・レコード』の「ファイルム見物 四月の巻」というタイトルのところです。このタイトルは、どう見ても、4月であって3月ではありませんよね。
 もちろん、この映画が、すでに2017年3月末に上映されたとも言えますよ。でも、それはまた、まったくの憶測でしかないでしょう。1917年4月にこの作品が演目にあったのは確実なのです。ともかく、このことすべては、私の『『アニメ』が始まった時ー1919年までの日本・欧米のアニメーションを通してー』に述べています。それはそうと、この本は、アマゾン・ジャパンで、現在入手できます。

敬具

F・リッテン

 
 片岡:

Lieber Litten-san,

wie Sie wissen, ist es ja ein der größten Probleme für Anime- und Mangaforscher, das Datum des ersten Animationsfilms von Shimokawa genau zu definieren, da die Animationswerke Shimokawas bis jetzt noch nicht gefunden wurden. Es gibt daher viele „Spekulationen“ und deswegen das große Interesse seitens der Fachleute.

Ich würde trotz allem sagen, dass es ganz und gar keine Spekulation ist, dass sich 凸坊 in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916 gerade auf einen Film von Simokawa bezieht: Diese Werbung ist nämlich als Neujahrsanzeige gedacht, wobei angekündigt wurde, dass ein gewisser 凸坊 im シ子マ倶樂部(シネマ倶楽部), dem berühmten Spielhaus in 有楽町 (Yuraku-Cho)–シ子マ倶樂部(シネマ倶楽部) ist kein einfaches Kino, sondern ein Spielhaus auch für andere Genres –, vorgeführt wird. Und die Neujahrsaufführungen begannen damals in Japan immer am 3.Januar. Das Spielhaus シネマ倶楽部 gehörte seinerzeit zur 天活(1914-1919), der damals berühmtesten Filmfirma, wo Shimokawa als der einzige Animator arbeitete. Daraus ist es wohl leicht zu folgern, dass als Autorschaft des Artikels in der Asahi Shimbun vom 30.12.1916 nur Shimokawa in Frage käme.
Dazu würde ich auf zwei sehr bedeutende Dokumente hinweisen: 1) In der Asahi Shimbun vom 2.1.1917 steht der Artikel „演芸風月録„. 2) In der Asahi Shimbun vom 6.1.1917 ist der Artikel „演芸風月録 “ zu finden. Dieser Artikel ist eine Art Filmkritik und bezieht sich auf die zweite Neujahrsaufführung im 天活. Aus diesen Gründen bin ich zwar davon überzeugt, dass der erste Animationsfilm von Shimokawa wohl zunächst am 3. Januar aufgeführt wurde. Da wir als Forscher jedoch vorsichtig mit solchen Daten und Fakten umgehen sollten, würde ich sagen, dass der 3. bis 5. Januar 1917 der Jubiläumstag des japanischen Animationsfilms sein sollte.

Was 芋川椋三 玄關番之巻 betriff, arbeite ich schon lange daran und würde gerne mit Ihnen später diskutieren.

Herzliche Grüße aus Japan

Noriyasu Kataoka

 こんにちは、リッテンさん。

 ご存じの通り、アニメ研究者やマンガ研究者にとって、下川のアニメーション映画の初日を正確に定義することは、大きな問題のひとつです。下川の作品は、今までひとつも見つかっていないのですから。そこで多くの「憶測」が生まれ、結果として、専門家サイドから大きな関心を惹起しているのです。

 私はそれでも申し上げたいのですが、憶測ではけっしてありません。1916年12月30日付朝日新聞の凸坊は、まさに下川のアニメーション初映画を指しているのです。つまり、この広告は、新春興業の告知と考えられ、とすれば凸坊というものが、シ子マ倶楽部(シネマ倶楽部)ーシ子マ倶楽部(シネマ倶楽部)は有楽町の有名な劇場で、単なる映画館ではなく、さまざまなジャンルのための劇場ーにおける上演の予告だったのです。そして、当時、日本では新春興業は1月3日に始まるのが常でした。その頃、シネマ倶楽部は、当時高名な映画会社である天活(1914-1919)直轄館でした。そこで、下川は唯一のアニメーターとして働いていたのです。ここから容易に結論付けられるのですが、1916年12月30日付朝日新聞の記事にある原作者は下川が問題になるのではないでしょうか。

 加えて、私はふたつのきわめて重要な記録を挙げておきたく存じます。1)1917年1月2日付朝日新聞の「演芸風聞録」の掲載記事。2)1月6日付朝日新聞の「演芸風聞録」の掲載は見逃せません。後者は、ある種の映画批評で、天活の新春興業第二弾についての試写会です。このふたつの理由から、私は、下川のアニメーション初上映は、まずもって1月3日だと、確信しております。研究者としてはしかし、日付や出来事に関して慎重に取り扱う必要がございますので、1917年1月3日から5日の間が、日本のアニメーション映画の記念日ということだと述べる次第です。

敬具

片岡慎泰


 リッテン:

Hallo Kataoka-san,
vielleicht ist Ihnen aufgefallen, dass es sich bei den im Kinema Club aufgefuehrten Filmen um auslaendische Filme handelte. Waere "Dekobô" tatsaechlich als Titel eines japanischen Films gedacht, dann wuerde man erwarten, dass erstens ein Titel angegeben waere ("Dekobô" allein ist nicht aussagekraeftig) und zweitens ein Hinweis darauf, dass es sich eben um ein japanisches Produkt handelte. So, wie es in der Anzeige steht, ist die Wahrscheinlichkeit sehr viel hoeher, dass damit gemeint ist: Gezeigt werden "...", "..." und (auslaendische) Trickfilme.
Man muss hier eben mit Wahrscheinlichkeiten operieren, aber die Wahrscheinlichkeit fuer Ihre Annahme ist leider relativ gering, wenn auch sicherlich nicht 0.
Beste Gruesse
F. Litten

 こんにちは、片岡さん。
 あなたは、シネマ倶楽部で上演された映画が、外国映画だったと気づいているかもしれません。凸坊が実際、日本映画のタイトルだと考えられるとしても、まずタイトルが示していること(凸坊だけでは説得力がありません)、次に、まさに日本製の作品だという証拠が望まれるのです。だから、広告に載っていますように、「・・・」、「・・・」、そして、次も(外国の)アニメーション映画が上演される公算がきわめて高いのです。
ここではまさに公算について考えるべきなのです。しかし、あなたの仮定の公算は、残念ですがかなり低いですね。まったくの0とまではありませんが。

敬具

F・リッテン


 片岡:

Lieber Litten-san,

wie Sie auch wissen, werden in Japan sowohl der ausländische als auch der japanische Zeichentrickfilm in der Entstehungsphase des japanischen Animationsfilms als „凸坊(Dekobô)“ , „線画(Senga)“ , „トリック(Trick)“, „カートゥーンコメディ(Cartooncomedy)“ oder „凸坊新画帖(帳)(Dekobô-Shingachô)“ usw. bezeichnet. Laut dem klassischen Meisterwerk von 田中純一郎(Tanaka Junichro), „日本映画発達史Ⅱ“ (中公文庫,1976), sollten diese Termini keinen Unterschied zwischen dem ausländischen und dem japanischen Zeichentrickfilm gemacht haben.

Aufgrund dessen sollten alle Möglichkeiten in Betracht gezogen werden, und in diesem Kontext müsste die Bedeutung von zwei Artikeln in der Asahi Shimbun – vom 2.1.1917 sowie vom 6.1.1917 – nochmals betont werden. Es geht nämlich hier um das Datum und das Faktum des ersten Animationswerks von Shimokawa, und zumal Sie in ihrem Buch „Anmationsfilm in Japan bis 1917“ folgendermaßen schreiben: „Außerdem fehlt in Anzeigen des Kinema Kurabu Anfang 1917 in der Asahi shinbun jeglicher Hinweis darauf„ (S.56).

Dazu sollen noch drei Dokumente als Beweis für unsere These erwähnt werden: 1) Im Artikel „演芸風聞録„ vom 10.1.1917 in der Asahi Shimbun, den Sie auch zitierten, ist der folgende Satz zu lesen. „天活会社は十日より七日間有楽座に新輸入の凸坊喜劇大会を毎夕五時半より開催“. Was die ab 10. Januar in Yurakuza aufgeführten Animationsfilme betrifft, handelt es sich also eindeutig um „新輸入の凸坊“ (neu importierte Dekobô“), d.h. ohne Zweifel um ausländische Zeichentrickfilme. 2) In seinem zweiten Werk „凸凹人間„(新作社, 1925) schreibt Shimokawa: „大正六年一月、私は天活會社と契約して、活動漫画フイルム制作に従事した、月一本づゝ作つて淺草キネマ倶樂部で封切上映して居た“ (S.94) Wie hier abzulesen ist, behauptet Shimokawa selbst, dass er seit Januar 1917 sehr aktiv war, einen Film pro Monat drehte und diesen gerade im Asakusa Kinema Club zeigte. 3) In einem Memoire von Shimokawa in der Zeitschrift „映画評論“ (September,1934), „日本最初の漫畫映画の思ひ出“, schreibt er auch: „第一回作品『芋川椋三玄關番』他二作品はキネマ倶樂部で封切りされました“. Das muss ein genügender Hinweis darauf sein, dass die (ersten) Animationsfilme von Shimokawa tatsächlich im Kinema Club aufgeführt wurden.

Herzliche Grüße

Noriyasu Kataoka

 リッテンさん。

 あなたもご存じのとおり、日本ではそのアニメーション映画の成立期において、外国産も日本産も「凸坊(Dekobô)」「線画(Senga)」「トリック(Trick)」、「カートゥーンコメディ(Cartooncomedy)」、あるいは「凸坊新画帖(帳)(Dekobô-Shingachô)」 と表現されていました。田中純一郎の古典的名著『日本映画発達史Ⅱ』(中公文庫、1976年) によると、これらの用語に外国と日本との区別はなかったとあります。

 これに基づけば、あらゆる可能性を考慮に入れる必要があるでしょう。すなわち、このコンテクストにおいては、朝日新聞の記事の重要性ー1月2日ならびに1月6日ーをもう一度強調せざるを得ないかと存じます。すなわち、ここで問題になっているのは、下川のアニメーション初作品の日付と出来事なのです。さらに、あなたの著作『Anmationsfilm in Japan bis 1917』において、「加えて、1917年初頭の朝日新聞では、キネマ倶楽部の広告においてあらゆる証拠が欠けている」とお書きになっています。

 その上、さらに3つの例証を私たちのテーゼのために言及しておきましょう。1)あなたが引用されている1917年1月10日付朝日新聞で、次の文を読むことができます。「天活会社は十日より七日間有楽座に新輸入の凸坊喜劇大会を毎夕五時半より開催」。有楽座で1月10日から上映されたアニメーション映画に関しては、「新輸入の凸坊」(新しく輸入された凸坊)という意味以外に取りようがありません。つまり、外国のアニメーション映画です。2)下川の第2作『凸凹人間』(1925年、新作社)において、 こう書かれています。「大正六年一月、私は天活會社と契約して、活動漫画フイルム制作に従事した、月一本づゝ作つて淺草キネマ倶樂部で封切上映して居た」(94ページ)。ここから読み取れるのは、 下川が1917年1月からとても意欲的に、ひと月に一作づつ映画を制作し、まさに浅草シネマ倶楽部で上映していたと主張していることです。3)『映画評論』(1934年9月号) 「日本最初の漫畫映画の思ひ出」で、下川は次のように書いています。 「第一回作品『芋川椋三玄關番』他二作品はキネマ倶樂部で封切りされました」。これは、下川のアニメーション映画が、実際にシネマ倶楽部で初上映されたことの十分な証拠に違いありません。


 リッテン:ここが再掲載できません。記してお詫びします。『凸凹人間』の記述は興味深いが、仮にそうだとしても、凹天の作品が1917年の1月初頭に上映できるのは、技術的に不可能で、1月末でないと無理という論旨でした。

 片岡:

Lieber Litten-san,
vielen Dank für Ihre Anmerkungen. Wie Sie wissen, trägt ein gut begründeter Meinungsaustausch zur Vertiefung und Weiterentwicklung der Forschung bei. Wir mussten allerdings leider feststellen, dass dies mit Ihnen nicht immer der Fall ist. Wir würden sagen, eine Besserwisserei bringt nichts, hindert nur eine fruchttragende wissenschaftliche Diskussion. Bleiben wir aber hier nüchtern und sachlich:

Im letzten Antwortschreiben haben wir drei Dokumente genannt.

Was den ersten Punkt 1) betrifft, ist Ihr Argument keinerlei zu finden. Wollen Sie darauf keine Antwort geben (oder haben)?

Zum Punkt 2). Sie haben folgendermaßen formuliert: „Da Shimokawa sich erst einmal eine Technik aneignen musste, (…)“. Um dies zu behaupten, braucht man bekanntlich einen Beweis. Da Sie dabei ohne jeglichen Beweis einfach so behaupten, ist Ihre „These“, wenn man dies so nennen könnte, unplausibel und bleibt NUR eine bloße Spekulation. Dazu gibt es von uns aus einen Gegenbeweis dafür: In einem selbst publizierten Broschüre von 柴田勝 (Shibata Masaru) „天活、国活の記録 大正時代の映画会社“ (1973) ist die Notiz von 岡部繁之 (Okabe Shigeyuki) „マンガ凸坊新画帖、作画下川凹天 岡部繁之撮影“ (1916) zu finden. Auch Okabe war schon damals als „撮影技師“ von Shimokawa tätig. („撮影技師“ war seinerzeit in Japan kein einfacher „cameraman“, sondern arbeitete für die ganze Dreharbeit.) Das zeigt sich deutlich, dass sich Shimokawa NICHT „erst einmal eine Technik aneignen musste“. Da Ihre Annahme, dass der erste Film von Shimokawa gerade im „(späten) Januar“ aufgeführt worden sei, von dieser falschen Spekulation begründet wurde, ist sie wiederum nicht überzeugend. Oder haben Sie einen noch nicht uns gezeigten Beweis?

Wir nehmen an, dass Sie „凸凹人間“ nicht so im Ernst genommen hätten, um nicht zu sagen, einfach nicht gewusst. Sie haben immer wieder auf Ihr eigenes Buch hingewiesen, ohne jedoch dabei andere Quelle zu nennen. Um Ihre Argumente plausibel machen zu lassen, bräuchten Sie unseres Erachtens zumindest andere Quelle als Beweis zu nennen.

Mit herzlichen Grüßen

Noriyasu Kataoka

 リッテンさん、コメントありがとうございます。

 あなたもご存じのとおり、きちんと根拠のある意見交換は、研究を深め発展させるのに貢献します。しかしながら、残念なことに確認せざるを得ないのは、あなたにとってこれが必ずしも自明ではないということです。知ったかぶりはなにももたらしませんし、実りある学術的議論の邪魔になるだけです。でも、私たちは、落ち着いたままですし、相変わらず事実に基づいております。
 前回の回答で、三つの記録を挙げました。

 1)に関して、あなたの反証はまったく見当たりません。ご回答するおつもりがない(もしくはなにもおもちではない)のでしょうか。

 2)について。あなたは以下のように論を立てられました。「下川は、どうにか技術を習得せざるを得なかったので」。このことを主張するためには、周知のとおり、論拠が必要です。にもかかわらず、なんの論拠もなくそう言い放つだけならば、あなたの「テーゼ」は、こう言ってよろしければ、理解不能で、単なる憶測以外の何物でもありません。さらに、当方から反証を重ねましょう。柴田勝の自己出版の小冊子『天活、国活の記録 大正時代の映画会社』(1973年)には、岡部繁之についてのメモが載っています。「マンガ凸坊新画帖、作画下川凹天、岡部繁之撮影」(1916年)。岡部も当時、下川の撮影技師として働いていました。(撮影技師はその頃の日本では、単なるカメラマンではなく、撮影全体を取り仕切ってました)。ここから明白なように、「下川は、どうにか技術を習得せざるを得なかった」わけがありません。下川の最初の映画が、本当に1月(後半)に上映されたというあなたの仮定が、このように誤った憶測に基づいている以上、それもまた説得力がありません。それとも、私たちにまだお示しいただけなかった論拠をおもちでしょうか。
 あなたが『凸凹人間』を真面目に受け取らないようなのは、単に知らなかったと言いたくないためとご推察いたします。再三再四、ご自身の著作をお示しておられますが、他になにも根拠がないということですね。論を説得あるものにするためには、論拠を挙げていただく必要がございます。

敬具

片岡慎泰

 リッテン:

Lieber Kataoka-san,
凸凹人間 war und ist mir leider nicht zugaenglich.
Aber unter diesen Umstaenden ist es ohnehin besser, die Diskussion zu beenden.
Beste Gruesse

F. Litten

 片岡さん。

 『凸凹人間』は手に入りませんでしたし、残念ですが、今もです。しかし、現況では、どのみち議論を止めた方がいいでしょう。

敬具

F・リッテン

 一番座からは以上です。




裏座まで、たどりつけましたでしょうか?

今回は、前回のブログで断ったように、コメントが消えてしまったことで、せっかくのやり取りが無駄になってしまうと思い、お約束通り再現しました。

簡単にまとめるとこうです。

リッテンさんは、コメントで、まずふたつの指摘をしてくれました。ご自身の新しい本の紹介もしてくれました。

こちらでは2013年のリッテンさんの論文だけ読んでいたので、その後のドイツ語や英語の著作は知らなかったので、ありがたかったです。

さて、ここでのやり取りで、さまざまな情報が飛び交っています。もう少し議論が成熟するまで進められれば良かったなと個人的には思います。で、まとめてみました。

大事なことは、
①記録上、凹天のアニメーションは国内初であっただろう、ということ。
②上映は、1917年の1月3日から5日であっただろう、ということ。
③作品名は、まだ調査の余地がある。
と、いうことです。

ですので、まだあたれる資料がある限りは、こちらもあたっていきたいということなのです。

今回は、新型コロナで国会図書館や他の図書館も閉鎖されており、しばらくは身動きができませんが、今まで集めた資料とともに他の可能性もないかということも含めて研究していきたいと思います。

私事ですが、後半の方のドイツ語のやり取りは、私にはチンプンカンプンでした・・・。ですが、レクチャーしてもらいつつ、もう一度振り返ることができたので良かったです。

まぁ、なぜこのように情報が交錯するかというと、川崎市市民ミュージアムの所蔵の凹天の自筆年譜を軸にして話をすすめると、辻褄が合わないところが多いからでしょう。

私もそうですが、一般の現代人は、履歴書や職務経歴書くらいしか書くことはないのでは。自筆年譜のようなものは書かないと思います。宮古島に生まれ、鹿児島から東京、大阪、関東近辺で、戦争や関東大震災などを体験した凹天。時代を考えれば、1、2年ずれたとしても大きな問題はなかったでしょう。

ですが、凹天の後ろ姿を追いかける身としては、なかなか厳しいものがあります。さらに、彼はその時、気にしていなかったかもしれませんが、誰が日本アニメの幕開けをしたか、それはいつで、どんな作品なのか、どんな人が周囲にいて、世相はどうだったか、ということは日本アニメの原点を考えるうえでは大きな役割を果たしたのだと思います。

この謎解きを凹天が見守っているような気がしています。今頃、天国で凹天がほくそえんでいるんでしょうか。

今年の5月2日で、凹天が宮古島で生まれてから128年になります。今年は、凹天の父、貞文や母のモトなどのことも含めてさらに調査できればと思います。それは随時、ブログに上げていきたいと思います。

さて、今回のブログは、最初の方で「嘘のつけない社会になる」というようなことを書きましたが、それはこのようなデジタルデバイドのなかで一層可視化されていくような気がします。

少しずつですが、凹天に続く細い糸をたどりながら、存命の方から聞き取りをすすめたいと思うばかりです。そして、資料もできるだけ収集し、その時代背景までも理解できるように進めていきたいです。宮古島には、下川家の跡形もないような状態ですが、何か糸口があるような気がしています。 

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

フレデリック・S・リッテン1964年~
図書館司書、中国学研究者、日本創生期アニメーション映画研究者。カナダ・ケベック州モントリオールに生まれ、ドイツで育つ。ミュンヘン大学卒。1988年中国学で修士号、1991年に科学史で、博士号取得。ミュンヘン大学やアウクスブルク大学で、研究員や非常勤講師。2006年からバイエルン州立図書館に勤務。新聞や雑誌に、近・現代史について寄稿をする。日本のアニメやマンガなどについての論文や著作もある。代表作は『Animated Film in Japan until 1919. Western Animation and the Beginnings of Anime』。

渡辺泰(わたなべ やすし)1934年~2020年
アニメーション研究者。大阪市生まれ。高校1年生の時、学校の団体鑑賞でロードショーのディズニー長編アニメーション『白雪姫』を見て感動。以来、世界のアニメーションの歴史研究を開始。高校卒業後、毎日新聞大阪本社で36年間、新聞制作に従事。山口旦訓、プラネット映画資料図書館、フィルムコレクターの杉本五郎の協力を得て、『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を上梓。ついで89年『劇場アニメ70年史』(共著、アニメージュ編集部編、徳間書店)を出版。以降、非常勤で大学アニメーション学部の「アニメーション概論」で世界のアニメーションの歴史を教える。98年3月から竹内オサム氏編集の『ビランジ』で「戦後劇場アニメ公開史」連載。また2010年3月より文生書院刊の「『キネマ旬報』昭和前期 復刻版」の総目次集に「日本で上映された外国アニメの歴史」連載。2014年、第18回文化庁メディア芸術祭功労章受章。特にディズニーを中心としたアニメーションの歴史を研究課題とする。2017年に、山口旦訓に絶縁の手紙を送る。近親者のみで葬儀が執り行われる。喪主は、長男の渡辺聡。

下川貞文(しもかわ さだふみ)1858年~1898年
肥後國生まれ。幼名は清。1876年、熊本師範学校卒。1881年、巡査として沖縄本島に赴任。1882年、首里西小(現・琉球大学教育学部附属小学校)で勤める。月給10円。1884年、那覇から平良小の訓導として宮古島に渡る。貞文は、1888年、「平良校ト当校詰兼務ヲ嘱託」の命を受け、1892年まで、西辺小の訓導として兼任する。同年、早逝した兄ふたりに続き、凹天が生まれる。妻はモトで鹿児島県人。同年から逝去するまで、上野小訓導も兼任する。その間の1894年には上野小初代校長に兼任として就任もしている。当時の教え子に国仲寛徒、盛島明長、立津春方がいた。なお、教え子が中心となって、死後に石碑が建てられ、祭典が開催された。明治34年9月11日付『琉球新報』によると、「故下川貞文氏の墓碑 故下川貞文氏は熊本県の産にして同県の師範学校を卒業し明治十三年の頃本件に来り初め六ヶ月間は首里に於いて巡査を奉職し次の二ヶ年は同西小学校の教員に奉職し十六年至り宮古の小学校に轉し爾来同島の子弟を薫陶すること十五ヶ年の久しき孜々怠らざること一日の如く子弟は勿論父兄も大に信用されたりしが去る三十一年十二月不幸にして長逝せり嘗ての氏の薫陶を受けたる立津春方、富盛寛卓友人臼井勝之助、執行生駒の諸氏墓碑を建設し氏生前の功績を永く同島に伝へんと欲し廣く全島の有志に謀りたる處賛成者多く四十餘圓の寄附金立どころにあつまりたれは早速牌を鹿児島に注文し、先月廿日に至り建設一切の工事を竣りたるに依り同日盛大なる祭典を執行したる由なるが當日は炎天に拘はらす参列者頗る多く真宗の僧侶白井氏の讀經あり發起者及ひ有志の祭文演説等あり同島に於て未曾有の祭典なりしと云ふ」。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家、アニメーション監督。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。岡山県での足跡は不明。両親と弟、姪と上京する。父の名は、幸内久太郎。荒畑寒村によれば、父の職業はかざり職人の親方。元々、熱心な仏教徒だったが、片山潜と知り合い、社会主義者となる。日本社会党の評議員にも選ばれている。最初は画家を目指しており、水彩画家の三宅克己(みやけ かつみ)、次いで太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに序言を書いている。1917年、小林商會からアニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を前川千帆と製作。これは、現存する最古の作品である。続いて、同年には『茶目坊 空気銃の巻』、『塙凹内 かっぱまつり』の2作品を発表するが、小林商會の経営難でアニメーション製作を断念。しかし、『活動之世界』に載った『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』についての評論は、これも本格的なアニメ評として日本最古とされる。1918年に小林商会が経営難で映画製作を断念。1918年、『東京毎夕新聞』に入社し、漫画家に戻る。その後、1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、『人気の焦点に立てる後藤新平』(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに『ちょん切れ蛇』など10作品を発表。その時の弟子に、大藤信郎がいる。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天と最後に会ったのは、記録上では、前川千帆の葬式後、直会の時だった。老衰のため、自宅で死去。

北山清太郎(きたやま せいたろう)1888年~1945年
水彩画家、雑誌編集者、アニメーション監督。1888年、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現・和歌山県和歌山市住吉町)に生まれる。父清兵衛、母かつ乃の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、家督を相続。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。大下藤次郎が1907年に起こした日本水彩画会に入会し、1911年、同会の大阪支部を自宅である大阪市南区大宝寺町中之丁151番地(現・同市中央区東心斎橋1丁目)に設立したことを発表する。同年、東京に移り、自らの雑誌『現代の洋画』を発刊するべく、「日本洋画協会」を設立。1912年、斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援した。経済的事情もあって事業化も目的として友人の斎藤五百枝の紹介により日活に接触し、1917年、日活向島撮影所へ入る。北山は日本活動冩写眞株式會社(日活)にて日本初のアニメーション映画に取り組み、当時、東京市麹町区麹町平河町(現・東京都千代田区平河町)の自宅で作画し、日活向島撮影所で撮影する、という体制をとった。第1作は『猿と蟹の合戦(サルとカニの合戦)』で、1917年に劇場公開。以降、短篇のアニメーション映画を量産するが、その体制は、作画に戸田早苗(山本善次郎)、嶺田弘、石川隆弘、橋口壽、山川国三、撮影に高城泰策、金井喜一郎という集団製作体制であった。1921年に日活を退社し、北山映画製作所を設立。同年、同様に日活を退社し牧野教育映画製作所を設立した牧野省三の教育映画にも協力した。1923年に起きた関東大震災で同製作所は壊滅、北山は大阪に移った。1945年大阪府泉北郡高石町北55番地(現・大阪府高石市)で、脳腫瘍により死去。

山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。詳しくは、第10回「凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」

清水勲(しみず いさお)1939年~2021年
風刺漫画研究家。現在の東京都大田区生まれ。立教大学理学部卒。1963年三省堂に入社して編集者となる。1968年~1983年リーダースダイジェスト社勤務。勤務の傍ら、風刺漫画研究に打ち込む。『明治の風刺画家ビゴー』(1982年、新潮社)で第1回高橋邦太郎賞(現・日仏賞)受賞。その他、受賞多数。その後、日本漫画資料館館長、川崎市市民ミュージアム専門研究員、平成帝京大学教授、京都国際マンガミュージアム顧問などを歴任。1992年「日本風刺画史学会」を設立。季刊誌『風刺画研究』は、さまざまな漫画研究の必読書となっている。凹天や同時代に関しても、貴重な資料多数。人生の集大成として、江戸時代の風刺画に打ち込んでいた。前立腺がんのため自宅で死去。
【2023/04/15 現在】  

Posted by atalas at 22:15Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2020年01月18日

第21回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その9」



あけましておめでとうございます!
裏座の宮国です。

まずは、お詫び申し上げます。
このニッチな凹天研究を読んでくださったドイツのアニメ研究者のリッテンさんがせっかくコメントを書いてくださったのですが、なぜかそのコメントが消えてしまうという不手際がありました。

First of all, I would like to apologize.
Mr. Litten, a Japan ANIME researcher who read this niche 凹TEN study, wrote comments, but there was a mistake that the comments disappeared for some reasons. I apologize for that.

当初、このブログは、複数の人で管理していたため、パスワードはそのまま使っていました。それで、事故が起きたと思います。ですので、パスワードを変更いたしました。ですが、コメントの下書き等残っておりますので、2、3ヶ月のうちにできる限り再現したいと思います。

We used the original password that started this blog. Because this blog was managed by many people, the password was used as it was. I think an accident occurred for that.
Now, we changed that.However, there are draft comments left, so I'd like to reproduce them as much as possible within a few months.

リッテンさんには、深くお詫び申し上げます。また、いろいろなやり取りができたことをとてもうれしく思います。いつかぜひお会いしたいと思っています!

I apologize to Mr. Litten deeply. I am also very glad that we were able to exchange opinions. I want to see you :) SOMEDAY!!

と、リッテンさんにも分かるように、お詫びだけ、つたない英語でいたしました・・・。お付き合いありがとうございました。


さて、いきなりですが、新年早々、凹天を大きな枠からとらえ直したいと思います。
私、宮国が凹天を最初に知ったきっかけは、小学校の頃からの宮古の友人からでした。前回、ちょろっと書きました。その友人が凹天の足跡をたどって東京に訪ねてきた十年以上前の話です。

当時は、宮古出身の漫画家というぼんやりしたものでしたが、彼の生きた時代を追いかければ追いかけるほど、彼のいぶし銀のようなきらめきが私の心をとらえて離しません。

漫画の当時の立ち位置は、ジャーナリスティックでもあり、アナーキズムでもあり、エンターティメントでもあり、コマーシャリズム。激動の時代に寄り添いつつ「特異な」発展を遂げました。

また、凹天の生きた頃は、メディアが静止した表現から、動的な表現への移行期に立ち会うことができた稀有(けう)な時代でもあります。新聞社に働き、政治家などの風刺画だけでなく、新聞、広告、書籍の挿絵、そして漫文も書いていたからかもしれません。

そして、今のようなメディアの細分化の分岐点であったため、漫画家はジャーナリストであり、芸術家であり、批評家であり、イラストレーター、物書きであったのです。カオスな時代状況ともいえます。

現在、手塚治虫(てづか おさむ)は漫画の神様。ここでの「神」とは、人間に隔たりがあるということが前提で使われていると思います。手塚治虫のような作品は誰も真似することができない、ということでしょう。


では、その以前の漫画家であった凹天たちは、全知全能の神ではなく、道祖神のような立ち位置かもしれません。より泥臭く、土と風の香りがする、道端でそっと人びとを眺めながらも、それぞれが個性的な風貌で。

現代の人工知能 (AI)が登場するような社会では、漫画家はメディアに対する本質的な力をもった人びとだと思います。手塚治虫のようなマイルストーンがありつつ、百年以上たって、テクノロジーが進化してまたゼロイチの表現者、批評家、時代の担い手になりつつあるような気がします。

今も昔も、漫画家たちはどれだけテクノロジーが進化しても人間にしかできない「生の表現」に直接リンクしているように思います。凹天たちの時代の漫画家たちを取り巻く状況、メディアが当時どのようであったか、今回も柴田勝(しばた まさる)を中心に、漫画、トーキー、アニメーションとお伝えします。


 一番座から片岡慎泰です。

 今回はまず謝辞を述べたいと思います。このブログに、バイエルン州立図書館司書F・リッテンからコメントをいただきました。リッテンの議論そのものやその進め方については、私としても思うことがいろいろあります。しかし、遠くドイツから、日本の商業アニメーション映画について、研究してくださったことに対して、名前をここで記して、感謝したいと存じます。


 大阪で順調に仕事をする柴田勝の話を続けます。

 1927年には、次女の寿子(としこ)誕生。この年は、そうです。われらが凹天と山口豊専(やまぐち ほうせん)が、『東京毎夕新聞』で出会った記念すべき年でもあります。

 前述しましたが、帝シネ(帝國キネマ演藝株式會社)には、『籠の鳥』で大当たりした豊富な資金がありました。それを元手に、現在の東大阪市の長瀬駅近くの長瀬川河畔に敷地面積約30,000平方メートル、そして3000平方メートルの屋内ステージ2棟を備え「東洋のハリウッド」と呼ばれた「長瀬撮影所」が完成します。それは、1928年のことでした。


 柴田勝は、1929年には帝シネ監督作品58作目『波浮の港』を制作。これは日活(日本活動冩眞株式會社)と東亜(東亞キネマ株式會社)と競作になりました。『波浮の港』は、伊豆大島を舞台とした作品で、川端康成(かわばた やすなり)の初期代表作『伊豆の踊子』にも描かれています。

 しかし、もう帝シネには、体力がありませんでした。トーキー時代の到来や長瀬撮影所、撮影機材への投資が経営を圧迫し、ライバルである日活や松竹(まつたけ)の現代劇の映画製作が、帝シネ以上の資本投資で洗練された映画作品を送り出すようになったため、帝キネの映画興行も窮地に陥ります。同社は1929年以後、松竹(松竹シネマ株式會社)と提携し映画製作をするように。


 1930年には、厳しい検閲の鋏をかいくぐり完成された左翼映画『何が彼女をさうさせたか』が大ヒットし、学生やインテリ層の間でも評判になりますが、長瀬撮影所が焼失。以降、同社の映画は京都太秦の松竹太秦撮影所を借りて撮影が行われます。柴田勝は、この長瀬撮影所の焼失についてこう記しています。

 「あさ、スタジオへ行くと、門の前で高見組が『素晴らしい奴』を鍋本君のカメラで撮影していた。あとで思えば、これが長瀬スタジオの姿を最終に撮影した映画だった。夜、寝てから暫くすると烈しい半鐘の音がするので、窓をあけて、南の方を見ると、真赤に空が焦げている。どうも長瀬らしい。寝巻をの上にオーバーコートを羽織って家を飛び出す。(略)鉄骨の建物は一面の火の海だった。しまった、瞬間情けなくなって、足が重くなったが、こころを、はげまして非常線を突破。技術部の建物も火と煙りで一杯、焼付室のマチポプリント機も駄目だ。手のほどこしようが無いので、火のついていないフィルム倉庫に飛び込んで、フィルムを持ち出す(略)。
 夜があけて焼跡を見ると、東京の震災の跡そのままであった」。

 こうして、一世を風靡(ふうび)した帝キネも、その終焉は、はかないものでした。柴田勝は、「帝シネ改め新興シネマ」と記しています。内紛や火事、時代背景ばかりでなく、内部事情はそんなに単純ではなかったようです。それは、帝シネが映画会社として、プロ意識に決定的に欠けていたから。そこの背後には、松竹がいました。



 田中純一郎(たなか じゅんいちろう)は、帝キネから新興シネマ(新興シネマ株式會社)に移った事情事情をこのようにまとめています。

 「日本トーキーの初期時代から、戦前の一時代を画した絢爛期へかけて、日本の映画界には数限りない興亡の歴史があるが、平凡な大衆嗜好のあぐらをかいて、何らかの指向性も前進性も持たぬ娯楽映画を、今日的常識のみを唯一の手がかりとして作って来た一部の映画会所の歩んだ道は、ただにトーキー資本に圧迫されたというだけでなく、それも重要な理由であろうが、現状維持から退嬰へ、退嬰から没落への、単なる歴史的段階を辿ったとしか見られない場合が多いとしか見られない場合が多い。その代表的な会社に新興キネマがある」。

 帝キネ、そして新興シネマの問題点を田中純一郎の著作から記しておきます。

 「新興キネマは、(略)帝国キネマの持つ若干の配給市場と、製作機構を合流せしめて、自己企業の拡充を図ろうとした松竹によって経営を代行され、後に社名を解消して松竹資本の一翼に列なった映画会社であるが、一時相当の人材を擁したにもかかわらず、ついに他社映画のレベルを突破することを得ず、不得要領な第二級作品を目標にせざるを得なかったという不幸な運命を持っていた」。

 「(略)帝国キネマ以来、適当な製作指導者を持たなかったから、この系統から生え抜きの優秀な映画芸術家も生まれず、つねに他社の芸術家を引き抜いたり、独立プロダクションの映画を購入したりして、経営を糊塗し、会社本来の製作陣を整備育成することができなかった」。
 
 さまざまな資本関係の内紛がありながらも、新興キネマは、1942年戦時統合によって、日活の製作部門、大都映画(大都映畫株式會社)と合併、同年、創立総会をもって大日本映畫製作株式會社(現・株式会社KADOKAWA)に。新興キネマの本社は、大映(大日本映畫株式會社)に引き継がれます。創立登記は、同年消滅し、2つの撮影所、11館の直営劇場はいずれも大映が引き継ぎました。

 さて、われらが凹天はどうしていたでしょうか。凹天とならび日本アニメーション映画の始祖といわれる幸内純一(こううち じゅんいち)や(きたやま せいざぶろう)は、紆余曲折(うよきょくせつ)がありましたが、アニメーション映画を製作していました。そして、その次世代である村田安司(むらた やすじ)、山本早苗(やまもと さなえ)、正岡憲三(まさおか けんぞう)、大藤信郎(おおふじ のぶろう)、大石郁雄(おおいし いくお)など、現在のアニメーション業界からすると神々のような存在が登場した時代でもあります。


 煙り草物語
A Story of Tobacco
製作年:1926年 監督:大藤信郎
お嬢さんに対して小さな男が煙草の由来を物語る、アニメと実写の合成による大藤信郎の試作品


 残念ですが、この時代、われらが凹天は、商業アニメ―ション映画には右眼を失明した(諸説あります)ため、一切関わっていません。アニメーション制作による職業病第1号だったのです。須山計一著『日本漫画100年』(芳賀書店、1968年)によると、1937年『マンガ王国』を個人雑誌として創刊しました。ここでのペンネームは下川平馬。凹天の得意とするエロマンガやプロレタリア漫画が、軍国主義の足音とともに自由に描けなくなったことがうかがえます。

 しかし、トーキー映画についてずっと関心をもっていました。それは、自分が日本初の商業アニメーション映画を製作したという自負心があったためではないでしょうか。それは、『新漫畫派集團 漫画年鑑』を読むと、分かります。凹天は「新漫畫派集團」には属していなかったのですが、岡本一平とともに、この本に寄稿しています。



『新漫畫派集團 漫画年鑑』(文座書林、1933年)より。

 「今日の漫画界には判然として大家の仕事と小家の仕事が區分されてゐる。大家の仕事はとは新聞の日曜漫畫と諸雑誌の諸雑誌の漫画頁執筆である。それは質の上での區別ではなく種類の上での區別である。今日の所謂小家の仕事なるものはほとんどナンセンス漫画に限られてゐる、それは現代の只笑ふにあるからとも一つはトーキー漫画の影響である『ノラクロ兵隊』が最も人氣があるのを觀ても如何にトーキー映画に似たものが現代の要求であることが判る。そこで小家乃ち新進漫画家の悩みであるが、トーキーの方には聲と動きが有る故に如何にナンセンス漫画がフン張つたとて3/1だけ力の足りない事は當然である、僕がナンセンス漫画の非存在性を主張していゐのはそれが為で、機械力の勝利は如何に笑ひの要素があつてもナンセンス漫画を以てしては讀者を満足し得ないのである」。
 終戦直前から戦後にかけても、凹天はずっとアニメーションに関心をもっていたことが、記録に残されています。

 一番座からは以上です。



再び、宮国です。いやはや、内紛やら没落やら、当時の混沌は読んでいるだけでも心が折れそうです。ですが、そのなかにいた人たち、特に漫画家たちは、それぞれ独自の道を歩んでいることが他の資料でもよく分かります(これは次回くらいに!)

さて、今後ロボットや人工知能といったテクノロジーが、どれほど発展していっても、代替できない「人間の仕事」があるとしたら、このふたつは大きな要素になるでしょう。これは、私の妄想ですが、多くの人もすでに同じように感じていると思います。

その人らしさという唯一無二の創造性。
人としての北極星を掲げ、ともに生き抜くリーダーシップ。

そのふたつを凹天たちは、すでに百年以上前に漫画を通して体現していたと思うのです。そんな大げさではないかもしれませんが、時代と対話し、表現をする人たちで「できることを、できる人が、できる時に」と自然的な集団がいたとすれば、この時代を生きた漫画家たちではないかな、と思うのです。ジャーナリスティックな政治漫画から芸術的なエロマンガ、アナーキズムに根ざした社会風刺本、社会風俗を生きる芸能活動まで、守備範囲の広さは驚くばかりです。

彼らは生粋の生けるコンテンツホルダーだったのでしょう。

さて、芸能、コンテンツ、メディアについて、少し考えたいと思います。「芸能(げいのう)とは、芸術の諸ジャンルのうち人間の身体をもって表現する技法」。大衆芸能から伝統芸能まで幅広く、もちろん人工知能では今のところできないこと。

コンテンツとは、contents。一般的には、電子的な情報の中身のこと。コンテンツは、直訳すれば「内容」や「中身」。現段階では意味は大きくふたつに分かれると思いますが、「デジタルコンテンツ」とは、映画や音楽、アニメ、ゲーム、漫画、キャラクターなどの創造性を持ついわゆるソフト面と、単にデジタルサービスとしてのスピードを重視した情報発信でしょう。

ですが、最近はさらにWebサイトでも後者のスピードとサービスの情報発信でなく、前者の具体的な「情報の中身」に焦点が向かいつつあります。また、そこに含まれる情報が重要視されている傾向が顕著で、グーグルなどの優先順位もその指針でシフトしていっていると言われています。

どの時代もいわゆる情報、芸術、芸能はコンテンツとして、メディアを通して表現されます。1960年代のスマホやPCがない時代からすでに現在のメディアの発展を予言し、まさしくメディアの本質を言い当てた人物がいます。カナダ出身の英文学者マーシャル・マクルーハンです。

「コンテンツはメディアにあたり、メディアとはメッセージである」という名言を残しています。メディアとは、媒体。情報の記録、伝達、保管などに用いられる物や装置。言葉の語源は、ラテン語のmedium(メディウム)から派生した言葉で、16世紀の初期においては、シャーマン、巫女と神と人とを「媒介」する人たちを指していました。まさしくメッセージ、ご信託です。

現代は、ITを通して「コンテンツはメディアにあたり、メディアとはメッセージである」。

そっか、今も昔も、本質はメッセージなのか。そして、このITの便利さは、昔の人から見れば、神の領域。そして、言葉がITを通して、メッセージというよりも集合知による御信託かもしれません。

形あるものは壊れてしまいますが、メッセージを受けて、人の心に灯った炎は可逆性があって、いつでも戻ることができます。薄れたとしても、また何かあれば再燃することもあるでしょう。喜怒哀楽、なにかしらの感情は、思い出とともに心に灯りやすいからです。

「まつりの島 太平山 沖縄県 宮古島」シネマ沖縄1975年製作

たとえば、私が8歳の頃、沖縄本島に住む祖父母との久しぶりの再会を思い出すと、脳内ワープして、今でも胸がほっこりします。そして、彼らが語っていた言葉や歌っていた神謡、選ばざるを得なかった生き方は、私の考え方の雛形にしっかりとなっています。

そして、宮古の芸能であるあやぐ(綾語)や神歌を聴いていると、言葉にできない感情が湧き上がります。私は、完全な方言話者ではないにもかかわらず、です。言っている意味も、ところどころ分かりません。

ですが、言葉で表現できないような懐かしいような、恋しいような不思議な感情がわきあがります。私はそれが先人たちが残してくれた種火であり、灯火のような気がしています。

崎田川(サキタガワ)| 與那城美和 が歌う宮古島の民謡

太古の昔の自然とともに暮らした時代、人頭税の頃のような厳しい時代、数世代前は波乱万丈な歴史を生き抜いて、歌謡があります。それはどの地域でも一緒でしょう。島の言葉にする必要のない暗黙のルールである「何が大事か」ってこと。

「歌や踊り」いわゆる芸能として伝えてきてくれたことは、この場で呼吸をし、脈を打ち、魂のままに自由であること。いくら苦しいことがあっても、喜びを分かち合うこと。

「複雑性を抱えた現代を生き抜くためには、この本質さえたがえなければいい」と、最近はよく思います。

そこで、ふと、私たちがなぜこの凹天の記事をネット配信という道を選んだのか、ということを考えます。それは時代。ただの偶然です。ですが、このコンテンツは、現在の自分たちでできること。私自身は宮古の歴史を掘ることは「継ぐべきこと」のひとつだと思っています。誰から頼まれたわけでもありません。私は、島の共同体的公共性に基づいて動いているのに過ぎません。


愛しゃ(かなしゃ) (沖縄 宮古島 下地暁 しもじさとる)
https://youtu.be/kd-U7A-CUOQ


凹天を通して時代を学びながら、凹天の心情や信念を学んでいるのかもしれません。土壌のないところで、どう表現し、後世に残すか、彼らの思いをすくい上げて共振することができるか。

でも、決して誰かのためではなく、自分のため。島の先輩を見るようで、楽しくて、喜ばしいのです。過去を振り返ることで、先人の知恵を礎(いしずえ)にして、自分が未来を生きるためです。

島的に言うと、過去に生きるように未来を生きる、もしくは未来を生きるように過去を生きる、私たちの心は自由自在なのです。そのためには、島の芸能の灯火を、凹天、そして凹天をめぐっての表現をこれからも深堀りしていきたいと思います。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

手塚治虫(てづか おさむ)1928年~1989年
漫画家、アニメーター、アニメーション監督。現在の大阪府豊中市生まれ。本名は治。大阪帝国大学医学部卒。5歳の時に、現在の兵庫県宝塚市に移住。小林十三(こばやし いちぞう)が作った行楽施設の中心に宝塚少年歌劇団(現・宝塚歌劇団)があった。この歌劇団と周りの人工的な風景は、治虫の作品に大きな影響を与えたといわれる。1946年『小国民新聞』に『マアチャンの日記帳』でプロデビュー。1947年に『新寶島』が、当時異例の大ヒット。赤本ブームを起こす。本格的SF漫画を手がけ、戦後漫画のトップランナーである横井福次郎の影響を受ける。映画的構成とスピーディーな物語展開をもつ『新寶島』は、戦後ストーリー漫画の原点として考えられている。代表作に『鉄腕アトム』、『火の鳥』など。仕事への異常なまでの取り組み、そして後進の育成にも努め、それは今なおトキワ荘伝説として語られる。1963年、日本で初めてテレビで放映された漫画『鉄腕アトム』の翌年には、当時凹天の住む野田市の住処に訪ねたことが記録に残っている。元々、手塚治虫は、凹天の似顔絵のうまさを認めていた。漫画界、アニメ界に大きな足跡を残す。胃がんのため亡くなる。受賞多数。しかし、昭和天皇崩御のため、国民栄誉賞受賞はもらえなかった。

ハーバート・マーシャル・マクルーハン1911年~1980年
英文学者、文明批評家。カナダアルバータ州エドモントンに生まれ。ケンンブリッジ大学大学院修士課程卒。元は英文学教授だったが、あらゆる視点からのメディア論を展開。「ポップカルチャーの大司祭」とも呼ばれる。著書に『グーテンベルクの銀河系』、『人間拡張の原理――メディアの理解』、『メディア論――人間の拡張の諸』など。カナダ勲章受賞。カナダオンタリオ州トロントで死去。

フレデリック・S・リッテン1964年~
図書館司書、中国学研究者、日本創生期アニメーション映画研究者。カナダ・ケベック州モントリオールに生まれ、ドイツで育つ。ミュンヘン大学卒。1988年中国学で修士号、1991年に科学史で、博士号取得。ミュンヘン大学やアウクスブルク大学で、研究員や非常勤講師。2006年からバイエルン州立図書館に勤務。新聞や雑誌に、近・現代史について寄稿をする。日本のアニメやマンガなどについての論文や著作もある。代表作は『Animated Film in Japan until 1919. Western Animation and the Beginnings of Anime』。

山口豊専(やまぐち ほうせん)1891年~1987年
漫画家、日本画家。千葉県印旛郡白井村(現在の千葉市若葉区)に生まれる。詳しくは、第9回「凹天の盟友 山口豊専の巻その1」

川端康成(かわばた やすなり)1899年~1972年
大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名をもつ。その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立。人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も知り尽くした上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に燦然とかがやく名作を遺し、日本文学の最高峰として不動の地位を築く。日本人として初のノーベル文学賞受賞。代表作に『伊豆の踊子』、『雪国』、『山の音』、『古都』など。逗子の別荘で、ガス自殺。

田中純一郎(たなか じゅんいちろう)1902年~1989年
映画史家、映画評論家、編集者。本名は松倉寿一。群馬県新田郡生品村(現・同県太田市新田地区)に生まれる。東洋大学卒。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、糸屋に奉公に出されてしまう。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうような映画狂で、映画雑誌によく投稿していた。当時の投稿仲間には、飯島正、古川緑波がいた。1919年、16歳のころに流行したスペイン風邪に罹患、死線をさまよう。在学中に批評家としてデビュー。1925年に雑誌『映画時代』、1930年に雑誌『キネマ週報』をそれぞれ創刊した。。主著に『日本映画発達史』全5巻がある。老衰のため、石神井台桜井病院で、死去

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家、アニメーション監督。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。岡山県での足跡は不明。両親と弟、姪と上京する。父の名は、幸内久太郎。荒畑寒村によれば、父の職業はかざり職人の親方。元々、熱心な仏教徒だったが、片山潜と知り合い、社会主義者となる。日本社会党の評議員にも選ばれている。最初は画家を目指しており、水彩画家の三宅克己(みやけ かつみ)、次いで太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに序言を書いている。1917年、小林商會からアニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を前川千帆と製作。これは、現存する最古の作品である。続いて、同年には『茶目坊 空気銃の巻』、『塙凹内 かっぱまつり』の2作品を発表するが、小林商會の経営難でアニメーション製作を断念。しかし、『活動之世界』に載った『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』についての評論は、これも本格的なアニメ評として日本最古とされる。1918年に小林商会が経営難で映画製作を断念。1918年、『東京毎夕新聞』に入社し、漫画家に戻る。その後、1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、『人気の焦点に立てる後藤新平』(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに『ちょん切れ蛇』など10作品を発表。その時の弟子に、大藤信郎がいる。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天と最後に会ったのは、記録上では、前川千帆の葬式後、直会の時だった。老衰のため、自宅で死去。

北山清太郎(きたやま せいたろう)1888年~1945年
水彩画家、雑誌編集者、アニメーション監督。1888年、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現・和歌山県和歌山市住吉町)に生まれる。父清兵衛、母かつ乃の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、家督を相続。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。大下藤次郎が1907年に起こした日本水彩画会に入会し、1911年、同会の大阪支部を自宅である大阪市南区大宝寺町中之丁151番地(現・同市中央区東心斎橋1丁目)に設立したことを発表する。同年、東京に移り、自らの雑誌『現代の洋画』を発刊するべく、「日本洋画協会」を設立。1912年、斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援した。経済的事情もあって事業化も目的として友人の斎藤五百枝の紹介により日活に接触し、1917年、日活向島撮影所へ入る。北山は日本活動冩写眞株式會社(日活)にて日本初のアニメーション映画に取り組み、当時、東京市麹町区麹町平河町(現・東京都千代田区平河町)の自宅で作画し、日活向島撮影所で撮影する、という体制をとった。第1作は『猿と蟹の合戦(サルとカニの合戦)』で、1917年に劇場公開。以降、短篇のアニメーション映画を量産するが、その体制は、作画に戸田早苗(山本善次郎)、嶺田弘、石川隆弘、橋口壽、山川国三、撮影に高城泰策、金井喜一郎という集団製作体制であった。1921年に日活を退社し、北山映画製作所を設立。同年、同様に日活を退社し牧野教育映画製作所を設立した牧野省三の教育映画にも協力した。1923年に起きた関東大震災で同製作所は壊滅、北山は大阪に移った。大阪府泉北郡高石町北(現・大阪府高石市)で、脳腫瘍により死去。
【2023/04/15 現在】









  


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2019年12月23日

第20回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その8」



さて、師走ですね。宮国です。皆さん、いかがお過ごしでしょうか?年の瀬ついでに、いろいろサマリーを書いてみたいと思います。

結構、いろんなところで書き散らしていますが、私は宮古出身で東京在住です。このブログを書くきっかけがいくつかあります。

・宮古に住む友人が上京した際に、凹天を教えてくれたこと。
・これまで定説とされていた商業アニメーション映画公開年が100周年を迎え、凹天がフューチャーされることになったこと。
・(個人的にですが)『読めば宮古』がベストセラーになって、宮古の歴史をまったく知らないことに気づかされたこと。
・宮古研究をするつながりができたこと。

この12~3年くらいが本格的に宮古研究(というほどたいしたことはありませんが)生活の一部になってきたのだと思います。


12月の宮古研究会@法政大学沖縄文化研究所

では、なぜ、宮古を出た私が宮古研究をするきっかけになったか、というと、それも徐々ですが、確実にあります。宮古毎日新聞で東京の記者として取材したことや先日、終了したメールマガジン「くまから・かまから」など、自分から積極的に動いたわけではなく、なんとなく人のつながりから始まったような気がしています。

くまから・かまからの松谷さんに会うために、よく行った吉祥寺のルノアールです。先日、懐かしさについ入ってしまいました・・・。

私生活では、結婚をすることになって、改めて「血のつながり」「故郷」について考えたということもあります。その際に、東京に住んで、独身だった私が目をつむっていた「常識の違い」に直面したからでもあります。

子どもをもつ前はあまり気にしていなかったのですが、子どもをもって初めて東京という地域のコミュニティに入ったことで、皮肉にも宮古に住んでいたときと同じように「こうあらねばならぬ」という常識に押しつぶされるようになりました。

東京はとても優しい都市です。いろんな人がいて、いろんな生き方がある。でも、根をおろそうとすると、日本人と私には長い深い川があることに気づきました。独身で、気ままに暮らしているときはなんとなく知らんふりで、多世代との交流もなければ、東京の地元の人と関わることも少なかったです。要はプライベートで地域と関わることはほとんど無かったと言っても過言ではありません。

ですが、子どもが生まれると一転、実は東京もローカルルールばかりで「宮古と変わんないじゃん!」と悶ました。宮古のローカルルールは子どもの頃から叩き込まれているので、察することはできますが、東京のローカルルールは考えの成り立ちが違いすぎて察することができません。いや、なんとなく察することはできますが、まわりに合わせていると、彼らは私がローカルルールを熟知していると思い始めるから厄介でした。

なので、今までの仕事仲間だけでなく、ママ友や、宮古研究を始めたことで知り合うことになった人や、友人の輪は格段に広がりました。ですが、親しくなったと思ったら、相手が本音で話してくれるので、その言葉に対する私のストレートな感想が発端で決裂したり、たまに絶交ということもありました。

私からは絶交しないですが、相手がこういう人(わたし)に話しても無駄だと思うようです。残念ですが。代わりに、宮古のように深く話せる友人も得られるようになったという嬉しい側面もあります。

なぜ、私が東京に合わせていたか。それは、私が移住組だからです。東京があまりよく分からないので、とりあえず静観する、といった感じです。ただ、公的な場所で意見を求められたら、はっきりと自分の意見は言いました。それは今も変わりません。それはあまり拒否されることはありませんでした。

ただプライベートで個人的に仲良くなると、自分の意見を言うと、相手が共感してくれないことに腹をたてる、ということがありました。宮古のズキバキ(はっきりいうこと)は、東京のような多種多様な人が多いところではしょうに合わない人がいても当然だと思います。私にとっては、はっきりと対話することが友情の証くらいに思っているのですが、それは人によっては過剰なのかもしれません。

ですが、先述したとおり、一生ものの友人ができたのも東京です。それは、私の意見を受け入れてくれたというよりは「自分の常識とはちょっと違うけど、そんな人もいるんだ、さて、宮国さんの言うことも聞いてみよう、理解してみよう」と胸襟を開いてくれた人でした。

宮古の人に「東京は怖いよ」と言うつもりはまるでありません。でも、違うルールで動いている人がたくさんいて、話を聞いてくれる人もいれば、まったく聞き入れない人もいる。あまりにも当たり前で書く意味がないことかもしれません。さらに、沖縄というだけで、自分とは違う、島の人間は温かいはずだ、という勝手な決めつけやあからさまに下に見る人もいます。

人間関係や、世の世知辛さで「なんだこりゃ」の連続だった日々を振り返っても、苦しかったけど良い経験だったなと思うのです。なぜなら、私が橋をかけられた人たちがどういう人かも分かってきたし、さらに言えば「自分とは何か、どこから来てどこに行くのか」「私の思考の自然の成り立ちを育んだ宮古島とはどういうところか」などなど、自分新発見ができたからです。

私の子どもたちを見ていると、幼児の頃は宮古式子育てでも楽しそうでしたが、学齢期になると外との常識の違いにストレスを感じているようでした。それが原因で親子でぶつかりますが、向き合い続けています。それは、私の超宮古的な側面だと思います。

宮古の人がみんな私と同じとは思いませんが、私のような人は宮古ではある種のステロタイプだと思います。親子での諍いは、今も続いていますが、宮古と東京、言ってしまえば、沖縄と日本を考えるうえで、私の大きな軸になっています。そして、人間関係を切るのではなく、とことんまで向き合うか、上手に距離を取るという、島の鉄則の方が私には合っています。

そして、私が最近、肌身にしみて感じていることですが、時代が進むにつれて「東京の優しさ」と「島のユルさ」が近づいてきているようにも思えるのです。序盤は、私事で満載でしたが、きっと地方出身の人が東京で暮らしていくのには、時代を超えて、ある種のズレや無意識の意識化をさせられるように思います。それは、凹天を含めた漫画家たちにも色濃く現れているように思います。

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)は、前回のブログで述べたとおり、『籠の鳥』のおかげで全盛期を迎えますが、あっという間に内紛の渦に巻き込まれます。

 その中にあって、柴田勝(しばた まさる)は、次々と映画を製作。

 ここでの大きな思い出は、1926年の第22回作品『長屋太平記』。撮影中に大正天皇の崩御があったことは、当時の人びとには極めて大きなことですが、この作品について、柴田勝の意図を的確に表現した批評が載ったからです。

 「江戸情緒が濃厚である、落語の面白さの完全なる映画化である、この映画はキザな新しさがない、黄金万能の社会意識がない、そこには昔の江戸ッ子が持っていた純粋な情熱があり、正直な一本気がある。長屋中の者がみんな貧乏であるというのも江戸ッ子の性質をよく現わしているし、大工の長吉に惚れた芸妓が母親から進められた金持ちとの結婚に反対して貧乏人のたたき大工と添いとげるところなど全く胸のすくような気持ちの良さで、それから長屋中の人達が長吉のために一肌ぬいでやるあたりなんかは、江戸ッ子の美風である他人のために骨をおるという気持を実によく語っていると思う。(略)とにかくこの『長屋太平記』は我々のような江戸情緒の讃美者には古い浮世絵よりも、名人の高座よりも、もっともっと懐かしい興味の深いものである」。


 ところで「江戸ッ子の美徳」とは、実際に何を意味しているのでしょうか。柴田勝は、江戸っ子の後継者としてプライドをもっていました。確かに、長屋に住む者同士では、誰かが生活物資に困ると、周りがすぐに助けるというような美徳が、あったのは確かでしょう。私の子ども時代を過ごした岐阜県大垣市や愛知県名古屋市守山区にも、いただきものを勝手口からそっと届けたり、醤油を分けあうなど普通にあった光景でした。

 漫画家に限定しますが、山本富夫(やまもと とみお)は、江戸っ子について、こう書いています。ちょうど、渥美清(あつみ きよし)と沢村貞子(さわむら さだこ)という下町生まれのふたりが相次いでなくなった1996年でした。

 「昔から下町生れの人々の多くは、シャイで、ざっくばらん、かざり気がなく、親切でおせっかいといったとことがあり、こういう根っこに個人の資質が重なって、寅さん、おていちゃんの個性や生き方が生れたのだろう」。

 「東京はもともと地方から出て来た人々の植民地である。昔流に言えば、地方から青雲の志を抱いて上京した人々は、バイタリティーも豊富で一生懸命働いて山ノ手、都心部などに念願の家を構える(戦後の高度成長期は大分変わったが)。二代目は親の苦労をつぶさに見ているのでこれまた真面目である。
 ところがようやく三代目になると、花の都の水に洗われてバイタリティーも失せ、『唐様(からよう)に貸家と書く三代目』といわれるように、都会的洗練さを身に着けるが、力も金も無力化してくる。やがて高水準の生活は維持できなくなって徐々に気楽な下町に移っていくー。そういう人が幾世代も重って構成されたのが下町である。自己の出世のために人を押しのけてーという我欲も失せた気のいい人、弱い人々の集団は義理、人情のきずなで固く結ばれることによってはじめて生きていける。
 下町の祭りなどイベントが盛大なのは、カヨワイ下町っ子の自己主張であり、せめてものウサの捨てどころである」。

 こうした美点をもつにもかかわらず、ざっくりした言い方になりますが、長屋に住む江戸っ子やその後継者である東京っ子の一番良くないところは、地方出身者を小馬鹿にするところではないでしょうか。それは、自分たち自身が、元々地方出身者であることが、その背景にあるのではないかと考えます。

 江戸っ子の意気を示すとされる「宵越しの銭はもたない」とは、地方から出てきて日銭で働いていた裏返しですから。もちろん、江戸っ子や東京っ子といっても、一心太助のようないなせで、向こうっ気が強く、喧嘩っ早いタイプ、幡随院長兵衛のような町奴風の顔役、御家人風のぞろっぺい、山の手の華族などなど。

 戦前はもっと容赦がなかったようで。まず江戸っ子が、長野県更埴市(現・篠ノ井市)出身の近藤日出造(こんどう ひでぞう)にしたエピソードをいくつか。新漫畫派集團のキーパーソンのひとりである近藤日出造は、潔癖な堅物として通っていました。

 まずは、深川育ちの黒沢はじめ(くろさわ はじめ)。

 「近藤、もちろんお前は吉原に行ったこたあねえだろう。女郎買いも出来ねえで、漫画賭けるかよ。それで人間てものが書けるのか。おれは吉原に行くと、女郎屋の帳面に、必ずお前の名前をかくことにしてんだ。お前のかわりに、女の勉強に行ってやってやるって心意気さ。だから、吉原じゃ近藤日出造は相当な遊びに人てことになってるぞ」。これは、峯島正行『近藤日出造の世界』(青蛙房、1984年)148ページにある近藤日出造の自叙伝草稿からの引用です。




 同じ本には、黒沢はじめと同じ旧制中学校卒で、本所育ちの益子善六(ましこ ぜんろく)が近藤日出造に述べた言葉もあります。前掲書には、益子善六も遊郭に登楼した時に、近藤日出造の名前を使ったとの記述もあります。

 「君はいろいろめんどくさい理屈をいうけどね、それじゃ世間は通らないよ、などとしたり顔をして」。

 本郷區(現・文京区)生まれの杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)も、近藤日出造に対してこんなことをしています。彼は、新漫畫派集團の仲間からも、鼻持ちならない東京人として、叩き潰す計画があったほどでした。杉浦幸雄『杉浦幸雄のまんが交遊録』(家の光協会、1978年)78ページ。

 「やはりその頃『近藤日出造の童貞を破らせる会』というのが、われら悪童仲間ででき、新宿の裏通りの小さなバーへ近藤氏をつれていき、飲めない彼に無理やり飲ませて酔っぱらわせて、女郎屋へかつぎこもうとしました。
 カフェーまでは来て、会の趣旨を聞かされると、絶 対に負けずぎらいの彼は、
 『おれはそんなにウブでもなければ、野暮天でもないぞ』
 とばかりに、そばにいた女給さんにと延々数分にわたる長い長いキッスをして見せて、一同を驚かせましたが、結局女郎屋へはいかなかったのです。恐らくその晩童貞を守ったのは彼だけで、他の者は皆女郎屋へ『沈没』してしまいました」。



 もちろん、近藤日出造にだけこのようなエピソードが集中するのには、彼自身にもそれなりの理由があるかと。でも、それだけに、その周りの悪乗りぶりは目に余り、性質(たち)が悪い印象を受けます。

 というのも、新漫畫派集團は、思想的にはアナーキーズムを目標にして創設された団体だったからです。この集団は、上下の関係や規則も決めず、自由平等な関係にある構成員であるという目標がありました。もちろん、アナーキズムは国禁の時代。そのような重要な秘話が、実際に出てきたのは、近藤日出造の通夜の席でした。

 岡本一平(おかもと いっぺい)は、江戸っ子について、こう書いています。

 「處が可笑しな事にはこの江戸ツ子という奴は瘠我慢が強くて何でも判らないというふ事を唇から出すのが嫌ひです。それから善惡に係わらず變わつたものに飛付きます。江戸ツ子のよく遣う言葉に『乙だね』というふのがあります。何を見せても、何を喰わせても、何を聴かせても『こいつは乙だ』で一切を辨じ升。関心する言葉かと思へば、手を戸の隙に挟んで血豆を拵えた時なぞは『あいち・・・・ ・・・、こいつあ、乙に痛え』と申升。あまり関心せぬ時にも遣つて居る。つまり善い惡い好む好まぬ、の批判を明確に與ふる丈けの智識は無い、強ひて云へばお里が現れる。といふて、判らぬとはどうしても唇から出ぬ」。

 「それから彼等が如何に新奇なものを追ふかはお芝居の外題をご覧なさい。いくら自然に外れてもどうか見物の好奇心に投じて呉れゝばよいがといふ腹が無理にこじつけて讀ませる七字の勘定流の名題の上に歴々として見え透いて居るではありませんか。役者の顔の彩りなぞの如きも段々その目的で遂に平家蟹の甲羅みたいにして了ひました」。

 最後に、われらが凹天と同じく、樂天門下であった岐阜県可児郡中村(現・御嵩町)出身の田中比佐良(たなか ひさら)の言葉を引用します。これは『繪説き汗と人生 』(靖南社、1943年)にある「江戸ッ兒」についての記述です。



 「その缺點は、恐ろしく氣短かで、ものに粘りといふものが無いこと、獨善的で氣宇が狭いこと」。

 「美點は、呑みこみが早くて、言語動作がキビ/\してゐて、洗煉された趣味情操生活が多いことである。だから、江戸ッ兒は感覺的に爽々しく鑑賞物として左なるものだし、一抹町人操志化された士魂といふものがうかゞはれ曲つた事は犬の糞でも嫌ひといつた稟性、花川戸の助六なんぞ、その標本でせう、ベラボウにスマートで、ベラボウに氣短かで、そいつて一先づ衆人に負けぬ實力も持たぬではない、といつたところ、これは要するに、地方色的な人情風俗分布の一典型として、江戸ッ兒氣質なるものゝ存在は一方の横綱の貫祿には買える代物であることは認められました」。

 「だがどうも缺點も露はに著るしい。仕事を共にする場合なぞヘンに潔癖で、もの別れになつたり恒心といふものにいかにも缺けている點が殊に毀だといふことでした。
 多少のエゲつなさも認容して協力一致、一つの企てを重厚にでつち上げる推量と粘りに缺けてゐる、だから江戸ッ兒からあまり大政治家なぞ出てゐないのでせう。
 獨善的で視野狭く井の内蛙の多いといふこと、これは案外で吾々田舎者が井の内蛙だと思つてゐたのに、東京者の方がより以上のそれだつたのです」。

 「なあに、百姓は神妙に観劇してるんで、そうぞうしいのは東京人なのです。そうぞうしいことやエゲつないことや、氣の利かないことの代用語として百姓々々と罵詈されちややりきれないと思ひました」。

 「三十年前の東京はまだ、つい先頃までは、コンチクシヨウと、コノヤロウと、ベラボウメイと、ドビヤクシヨウ等は、江戸ッ兒の啖呵用通り文句でした」。

 田中比佐良は1890年生まれで、1892年生まれの凹天と、いろいろなところで関わり、「日本漫畫會」や「讀賣サンデー漫画」の同士ともいえる存在です。

 われらが凹天が、田中比佐良ほど、江戸っ子について詳しく述べた文言は、現段階では分かりません。こうした東京人に囲まれて、凹天は、自分が宮古島生まれだということをどう感じていたのだろうと思いを馳せつつ、一番座を終えたいと。


裏座の宮国です!最近、ふと思うことがあって、漫画家やクリエイターの人たちは東京出身ということはアドバンテージだな、と思いました。なぜなら、東京は、下町、山の手、武蔵野と地続きの多様な街を感じることができるからです。また、街に出入りする人も多く、街の移り変わりの様子もあるので、刺激を受けたい人はもってこいの都市だと思います。子どもの頃から、感性さえあれば、子どもの頃から毎日センスを磨くことができます。

年の瀬の国会議事堂。凹天たちが新聞の風刺画を描いていた頃は真新しい国会議事堂に足繁く通った。1936年に竣工

柴田勝をはじめ、この頃の江戸の頃の香りをふんだんに残した東京に住んでいた彼らの言葉はとても鮮やかに写ります。今、自分が住んでいる東京と比べて新鮮に感じます。「粋」という言葉は、江戸の専売特許みたいなものですが、この辛辣さは私にとっては「粋」。それは、東京出身の人だけじゃなく、本気で「東京とは何か」「粋とは何か」本気で考える地方出身の評論家、活動家のような人たちが盛り上げた時代だったのでしょう。

今や世界最大の都市圏は、東京。通勤圏である近郊地域を含めると人口3700万人は、当時から比べれば圧倒的な数です。大正9(1920)年、第1回国勢調査時は、首都圏の大都市(さいたま市、千葉市、東京都区部、川崎市、横浜市、相模原市)の人口は 272 万 618 人でした。ざっと14.5倍です。

ちなみに関西圏の大都市(京都市、大阪市、堺市、神戸市)の人口は 253 万 7949 人,
首都圏とその差は 18 万 2669 人。なんとその5年後の大正 14(1925)年の第2回調査時は、関西圏 354 万 3988 人に対し首都圏 258 万 2271 人で、関西圏が首都圏を 96 万 1717 人上回る結果になりました。そして、昭和5(1930)年の第3回調査時ではその差が 118 万 3189 人にまで広がりました(関西圏:412 万 6679 人、首都圏:294 万 3490 人)。大正末期から昭和初期にかけては、関西圏が中心だったと言えます。

当時、柴田勝もそうですが、凹天も関西で働いた理由はここにあるんですね、きっと。今も大阪は大都市ですが、都市圏の人口は1200万人ですから、東京の三分の一なので、当時とは桁違い、イメージ違いでしょう。

話を戻しますが、東京は、世界の一大観光都市ですから、日本語だけでなく、各国の言葉でコスモポリタン都市として、さらに注目されるのでしょう。外国からの旅行者が多い100都市の2019年版ランキングでは、東京は17位。1位からいくと、香港、バンコク、ロンドン、マカオ、シンガポール、パリ、ドバイ、ニューヨーク、クアラルンプール、イスタンブールですから、東京はまだ伸びしろがありそうです。

そして、大阪ですが、前年17.0%増総合30位。大阪は、注目すべき世界の4大都市に選ばれています。千葉も90位にランクインしています。この背景を考えると、現在にいたるまでの漫画家やクリエイターの数は激増して、ポップカルチャーとしてのMANGA、ANIME、OTAKUと世界で有名になっていったのだろうと思うのです。

その礎がこの江戸の雰囲気をまとった凹天たちだったと考えると、感慨深いです。時代背景とともにその発露をたどっていくことは、温故知新なのかな、などと思うのです。そして、何故か宮古を彷彿としてしまいます。口が悪くて、喧嘩っ早くて、人情があって、貧乏で、自分の信条がはっきりしていて。

そして、東京にいると、そんな人たちも意外といるなとも思うのです。それは江戸っ子、いわゆる東京出身でもなかったりします。なので、実は生まれたところは関係なくて、個々の性質なのかも、とも思うようになりました。これだけ人が移動して、情報も東京と宮古でも変わらず届くのですから。

東京や宮古は出身地が話のネタにはなると思いますが、殊更、それを自分の根拠にしてしまうと、井の中の蛙になると思います。なので、私が宮古の人だから、という理由で近づいてくる人は宮古への過剰な期待や思い込みがあったりします。ある種、島の人はこうあらねばならぬ、という自分の正しさがあるからです。

そして、そういう人は、私と付き合っているうちに、自身の生まれや育ちを意識化していき、自分の根拠や自分が思う自分のローカルの正しさを考え始めるようです。私は、地域に正しさというような曖昧で主観的な尺度はそぐわないと思っていますが。その様子は、はたから見ていると、よく見えるし、とても興味深いです。そこには、その人が持つ地域性やコンプレックス、自尊心みたいなものが言動や行動に現れてくるからです。

謙虚であれ、人に迷惑をかけるな、と教えられた世代や個人は、その主体性と天秤にかけるので、自己矛盾が起こるのでしょう。私から見るとスデる(脱皮する)ようにも見えます。現代の若者たちの軽やかさは、実はそのちょっと前の世代が悩ましく思ったアイデンティティの問題をさらりとかわして、武器にしているようにも思えます。まぁ、人間ですから別の新たな悩みも生まれるようですが。

さて、田中比左良が書いている「度量の狭さ」は当時は東京という同質性の高いなかで育った人が多かったということかもしれません。現代であれば、意見が違うこと、相手が自分の言いたいことを汲み取ってくれないことに、非常にストレスを感じることが「度量の狭さ」なのかも。宮古も同じで、同質性の高さが生み出す島の良さもありますが、自己批判することは難しいということと似ていると思います。私の尊敬する宮古出身者は自己批判する強さがあります。その人たちの芯の強さは、宮古の未来系の軽やかさにつながるのかな、と妄想しています。

東京は100年たって洗練されましたが、それが江戸っ子の良さも消したのかもしれません。現代はどこの出身というよりは当時のクリエイターたちが喧々諤々「何が粋か」を語ったような、江戸というか関東平野の地域の良さが培われているような気がしています。なにせ3600万の大都市、切磋琢磨するには素敵な場所なのですから。

ちなみに、世界ビーチランキングでは日本では、宮古島の与那覇前浜が1位だそうなので、注目されるという意味では東京と似たような構造が生まれているのではないか、と日々思っています。「地球儀にない宮古島ってなんだか悲しい」と思っていた子どもの頃の私に、タイムマシーンに乗って教えてあげたいです。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

近藤日出造(こんどう ひでぞう)1908年~1979年
漫画家。現在の千曲市稲荷山に生まれる。本名は秀蔵。生家は、衣料品・雑貨商を営み、6人兄弟の次男。洋服の空き箱に熱した火鉢をあてて焦がし、絵を描いていたところ、父親から絵を投稿するよう勧められる。『朝日新聞』に入賞し3円をもらう。そこで、上京し、東京美術学校を目指すも、中学校を出ていないため受験資格がないことが判明。後年の負けず嫌いの性格はこの頃から養われた。叔父の親戚に宮尾しげをがおり、「一平塾」に入る。ここで、後の同志となる、横山隆一や杉浦幸雄と出会う。あごがでかいことが、トレードマーク。『東京パック』(第四次)でプロデビュー。1932年「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとり。その後、さまざまな団体の創設に関わる。政治風刺漫画の名手。戦後の二科展漫画部創設時には、横山隆一、清水昆と共に選出される。戦後は、対談のホストとしてテレビなどでも名が知られる。1964年には、「日本漫画家協会」初代理事長に。1974年には、漫画家として初めて、横山隆一とともに紫綬褒章を受章。1979年、肺炎のため、江古田病院で亡くなる。

黒沢はじめ(くろさわ はじめ)1911年~1932年
漫画家。東京府本所区押上町(現・東京都墨田区太平)生まれ。本名は、黒澤肇。実家は判子屋。東京府立三中(現・両国高校)卒。早くから遊廓遊びを覚えた早熟な男。凹天門下。「新漫畫派集團」でも年少だったが、実質的には、近藤日出造や横山隆一とともに、集団のリーダー格。『足軽かる助』が売れてレコードになり、印税が1枚1銭入る。近所でも評判の孝行息子で、上等の嫁がもらえると、評判に。森比呂志と並ぶ凹天の高弟である石川進介が「新漫畫派集團」に入った日の宴会で、集団最大の事件を起こす。酔っ払って、まず数寄屋橋交番の上で安木節を踊り、その後、建築中の日劇に登ろうとして、勝木貞夫とともに墜落。うめき声を聞いた横山隆一が、当時近くにあった朝日新聞本社に助けを求めて、すぐに朝日新聞の車を使って病院へ。しかし、築地の林病院で息を引きとる。新聞の見出しは「漫画家漫死」。駆けつけた母親れんは、茫然と息子の枕元に座り、近藤日出造に「一人っ子でした」ポツリと一言。その後、母親の黒澤れんは、新漫畫派集團に引き取られ、浪花的美談として新聞にも掲載される。ここで、れんを引き取るために、一席ぶったのが横山隆一。横山隆一は、大塚の従兄の本屋の手伝いをしていた頃、本所に住んでいた黒沢はじめと、無灯火になるまで、漫画論を戦わせた仲であった。しかし、れんは、毎晩寂しいのでだれか一緒にいてほしいと、集團の若者を悩ませる。その後、彼女は神田で碁会所を始め、そこで再婚相手を見つける。

益子善六(ましこ ぜんろく)鋭意調査中~1961年
漫画家。東京府本所区柳島町(現・東京都墨田区錦糸)生まれ。本名は、益子秀雄。実家は印刷所。最初のペンネームは、益子しでを。東京府立三中(現・両国高校)卒。黒沢はじめと同学年。いつまでたっても人によりかかる性格で、黒沢はじめの子分のようにまとわりついていたとの横山隆一の評あり。凹天門下。「慧星会」、「新漫畫派集團」、「文化奉公会」、「日本漫画奉公会」、「漫画集団」に所属。凹天門下でありながら、新漫畫派集團に属したのは、凹天のリリシズムよりも、ナンセンス漫画に惹かれたためとの森比呂志の評もある。会計係ができた時、月番制で2番目の会計係。中国に漫画記者として従軍。これは、漫画家の従軍の嚆矢とされる。戦争末期には、横須賀海兵弾副長附班製図班に、井崎一夫、村山しげる、杉浦幸雄という漫画家や、画家、挿画家などの面々と配属される。終戦時近くには、沼津にあった海軍工廠機銃砲台に出張し、空襲に遭うが助かる。その際、牧場で丸焼けになった牛を井崎一夫、村山しげる、杉浦幸雄と食べる。代表作に『月月金チャン』、『ヒットくん』、『ほらふき男爵』。ペットは、雑種犬のシロとクロ、センター雑種犬のコロ。コロは、小田急線にあった有名な魔の踏切で死亡。益子善六のあだ名は、気楽のキンちゃん。しかし、潔癖すぎた益子善六は、突然、自分の漫画に疑問をもち、最期は、目黒の大鳥神社にある小さな火の番小屋の中で、ミカン箱ほどの机に白いケント紙を載せて、あたり一面、新しいペン先を散らして亡くなる。公式には、肺炎のため、自宅で死去。

杉浦幸雄(すぎうら ゆきお)1911年~2004年
漫画家。現在の東京都文京区に生まれる。旧制郁文館中学校出身。杉浦家は、旗本の出身。杉浦一族には、芸能家が多かった。父親の友人であった緒方竹虎のつてで、「一平塾」に入る。ユーモアと独特の色気をたたえたエロマンガで知られる。1932年、近藤日出造や横山隆一などとともに、自宅に集まり、「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとりとなる。集団名に「派」を入れたのは、杉浦幸雄が「印象派」、「未来派」などを真似て、強く押したため。侃侃諤諤の議論になったが、黒沢はじめが、表向きには芸術集団、裏では商業主義も取り入れるといいことで、その場は収まる。漫画では横山隆一、近藤日出造の後塵を拝していたが、ようやく1938年『主婦の友』から出した『銃後のハナ子さん』の大ヒットで、有名になる。戦後もエロマンガを描き続け、「現代の浮世絵師」と呼ばれた。1976年「日本漫画家協会」第二代理事長に。1980年、紫綬褒章受章。1988年、喜寿のお祝いの席で、小唄師匠の柴小百合と婚約発表し、話題となる。肺炎のため、東京都内の病院で亡くなる。

岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館区汐見町生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげを、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった

田中比佐良(たなか ひさら)1891年~1974年
漫画家、挿絵家、画家。岐阜県可児郡中村(現・岐阜県御嵩町)生まれ。本名は久三。名古屋逓信省官吏養成所卒。父嘉代三郎、母いとの次男として、6人兄弟の第3子。実家は脇本陣を務める、造り酒屋。濃尾大震災で、実家は没落。5歳頃から、素焼き雛人形の絵付けをして、家を支える。御嵩郵便局や八百津郵便局で勤めながら、独学で絵の勉強を続ける。南画家の松浦天竜に師事し、本名の久と、「左甚五郎に比べるべく、良くなるべし」という意味を込められて、比佐良の号をもらう。この名前には、日光東照宮の彫刻で有名な左甚五郎に比べても良いという意味が込められている。1914年、伯父小島菊次郎を頼って上京。小島ゴム・ランバート社に図案広告係として、入社。主に『萬新報』に漫画の投稿を続ける。1919年、『東京パック』(第2次)で、本格的な漫画家デビュー。1921年、主婦之友社社長石川武美に認められ。主婦之友社挿絵部主任となる。月給がゴム会社の70円から、210円になる。『主婦之友』で挿絵が有名になり、特に日本女性の着物美を追求した絵は、多くのファンを作った。トロンコ会を主催。門下に勝木貞夫や大羽比羅夫がいる。1930年、凹天が主催する『讀賣新聞』漫画部に所属。『甘辛新家庭』を連載。この漫画は、鶴岡市酒井伯爵家系令嬢と結婚した比佐良の自画像という評もある。美人漫画の名手のひとり。「日本漫畫會」、「日本画東陽會」「日本漫畫奉公會」、「漫画協団」、「日本漫画家協会」などに属する。日本漫畫奉公會では、副会長。1937年吉屋信子とともに、中支派遣軍報道員となり、上海へ。1945年、山形県鶴岡市に疎開。1948年、岡本一平の葬儀に参列。1959年、田中比佐良デザインアトリエを作り、後進の指導にあたった。1974年、動脈硬化のため、八王子相武病院で死去。  


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2019年11月23日

第19回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その7」



皆さん、いかがお過ごしですか?裏座から宮国です!

関東大震災は、関東近辺ばかりか、当時の大日本帝國に住む人たちに大きな影響を与えました。それは、われらが凹天など漫画家も同じでした。職の安定、暮らしそのものの困難という意味でも大変苦労があったのだと思います。

細かく資料を読んでみると、一人ひとりの小さな物語が、その頃は生々しく描かれています。自然災害は、偶然その時いた場所、その時一緒にいた人と新しい物語が始まる瞬間かもしれません。惨事を目の前で経験した時、心がどう動いたかで、その人の人生が一瞬にして決まってしまうように思います。

もしかしたら、隠していたもの、隠れていたものの強弱が露呈しやすいのかもしれません。江戸期、そして明治期から積み上げた近世近代が作った江戸や東京という大都市が、曲がりなりにも保たれ続けたにも関わらず、大災害とそれに続く大火は、そのインフラをあっという間に燃やし尽くしてしまいました。とりわけ、明治維新以降、日清・日露戦争の戦勝気分に浮かれていた人びとにとって、まさに晴天の霹靂だったのではないでしょうか。

当時の大阪朝日新聞社の『大震災寫眞画報』で特集が組まれています。表紙は昭和の皇后陛下が赤十字を慰問している写真です。



当時の宗教者たちは、関東大震災を自らの信仰に従って、意味付けをしました。例えば、明治神宮や日比谷公園などに数千人を収容する規模もするバラック建設。そして漫画家たちも俊敏に動きました。当時、凹天はどういう思いで、何を感じたのでしょうか。手元の資料を見ると、関東大震災の3年前の1920年に『中央新聞』に入社。当時、中央新聞社は旧内幸町一丁目にありました。

ここは、かつて寛永期に、陸奥盛岡藩南部家、肥前唐津藩寺沢家、陸奥会津藩加藤家、日向飫肥藩伊東家、肥後人吉藩相良家の上屋敷が実在。なので、なんの因果か、凹天は、実は「肥後国」という自分の父である下川貞文のルーツに接触しながら、働いていたのです。





1922年には『東海道五十三次漫畫紀行』に執筆しています。その現物を手に入れたので、家でじっくり眺めていると感慨深かったです。特に、落胤やアクセントの色があまりにも可愛らしく、凹天の女性性を感じました。


さて、自筆年譜によると、関東大震災のあった1923年は、 日本漫畫會参加。幽門狭窄にて日本赤十字病院に入院。

「日本漫画会」は4月に結成されたばかり。その前身である「東京漫画会」が東京・帝国ホテルと箱根で行った第10回漫画祭をもって解散。その流れに棹差すように、新たに結成されました。

関東大震災が9月1日ですから、4月は「東京漫画会」のメンバーで新しく名前も変え、気分も一新して、各々の仕事に邁進していたことでしょう。凹天の自筆年譜は、だいたい一年に一行程度です。そこにしっかりと書いてあるのは、凹天にとっても、節目として印象深かったのではないでしょうか。

日本漫画会の存在を世に知らしめたのは1923年9月1日の関東大震災後の活動であった。大震災直後に漫画家らが東京の状況を描いたスケッチを集め、11月17日に大阪三越百貨店にて展覧会を開催し、11月21日には大阪に避難していた金尾文淵堂を版元として『大震災画集』を出版した。

展覧会・画集の出版共に震災から二か月余という異例の速さであったが、これは漫画家たちの「大被害を全国の人々に伝えねばならぬ」という義務感によるものであった。これについては『画集』の序文において水島爾保布(みずしま におう)が「こういう変災と試練に遭遇し、幾多非常の問題乃至生活に当面した事、そうしてそれらを解決あるいは描写して発表するということは、画家及漫画家として平常の主張に対して誠に愉快な責任でなければならない(中略)誰も彼も同じ意見であった」と述べている。

『画集』は大きな反響を呼び、定価5円と当時としては高価であったにもかかわらず、初版から一ヶ月で増刷がかけられた。

石子順『日本漫画史 上巻』(大月書店、1979年)


「大震災直後に漫画家らが東京の状況を描いたスケッチ」「『大被害を全国の人々に伝えねばならぬ』という義務感」というところに、その当時の漫画家の立ち位置が見えます。
凹天らも、結束があったからこそ『大震災畫集』を迅速に作れたのでしょう。当時、凹天は31歳。20代半ばにアニメーションを作り、眼病で入院。続いて幽門狭窄になってしまいます。私事で恐縮ですが、私も同じ時期に、一度目は難病、二度目は妊娠による幽門狭窄で入院しました。不思議な一致です。凹天は、満身創痍という記述は多いのですが、当時としては長生きだったと思うので、ひとまず安心しました。

関東大震災では190万人が被災、およそ10万5千人が死亡あるいは行方不明という大惨事でした。心身ともに傷ついた時、失意の時、人は死が身近かもしれません。でも、生きることを謳歌している時に、突然の災害や不幸に見舞われたら・・・。

関東大震災は、たとえ自分の身が安全だったとしても、家族や友人は無事かどうかはすぐに分からなかったと思います。当時、これから先も一緒に生きられると思っていた人たちと生きられなくなるのも、大きな悲しみでしょう。


凹天は、磯部たま子と結婚して7年目でした。詳しいことは書いていませんが、その頃には精神的に病んで、臥せっていたのではないかと推測しています。私が凹天展で見た写真では、たま子の姿は、結婚した頃の健康的な雰囲気ではなかったからです。その記念写真は結婚して数年後で、関東大震災前でした。

そして、たま子は、関東大震災の17年後に失踪します。その年に凹天は菅原なみをと再婚します。菅原なみをもなかなかの名家出身ですが、言動から推測するに、当時の女性像からは少し浮いているように思えます。もしかしたら、凹天の周囲には普通の女性ではなく、そんな反時代性を帯びて一風変わった女性しかいなかったのかもしれません。

たま子の写真を思い浮かべると、私は複雑な心境になります。人は生まれながら因果なものなのか、軽率な行動や行き違い、理解不足で、縁すらも自分で切り離してしまうこともあるからです。芸術家肌でありながら、型破りな凹天と一緒にいたら、関係を修復どころではなく、自らが壊れていくことでしか物理的な別離はできなかったのかもしれません。一緒にいるためには荷が重いと感じざるを得ない相手もいますから。


高村光太郎・智恵子夫妻

岡本一平・かの子夫妻

スコット・フィッツジェラルド・ゼルダ夫妻

島尾敏雄・ミホ夫妻

同時期では、高村光太郎、智恵子夫妻、岡本一平、かの子夫妻などや、スコット・フィッツジェラルド、ゼルダ夫妻、島尾敏雄、ミホ夫妻など、夫の才能を開花させるため献身的に支える妻や、夫の浮気をきっかけにタガが外れていく妻、出会ったこと自体が不幸だったのかな・・・と、つい思うのです。

小説が残っていたからこそ、彼女たちがある種、特権的にふるまっている印象もしますが、傷ついたり葛藤したりすることには嘘はなかったように思います。たま子やなみをはどうだったんだろう、とついつい女性目線で考えてしまいます。

凹天が自ら招いたことかもしれませんし、なかなか変えられない性質のようなものが凹天の独自性そのものかも。時折、転々と仕事を変えながら(変えさせられながら)、人が遠くなったり、馬鹿騒ぎしたり、孤独になったり、ハメを外したり、病気になったり。凹天自身も気持ちの休まる暇はあったんだろうか、とも思うのです。

一番座にも出てきますが、関東大震災は宗教者からも「天譴論(てんけんろん)」と言う言葉で受け止められ、「関東大震災=天罰」という考え方で、その時代を省みたようです。今、そんなことを言ったら、ヘイトスピーチも真っ青なくらい炎上しそうですが、御年83歳の澁澤榮一(しぶさわ えいいち)の言葉は重みがあります。東京、横浜の明治以降の発展について以下のように話しています。

「この文化は果して道理にかなひ、天道にかなつた文化であつたらうか。近来の政治は如何、また経済界は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか」。

天道にかなった文化であっただろうか、という言葉はとても重い。多分、当時の漫画家たちにもさまざまな意味で重かったのだろうと思います。


宮古島・前浜のお天道さま

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。
 
 関東大震災が起きた翌年、撮影技師として、柴田勝(しばた まさる)の代表作が生れます。それは『籠の鳥』。

 演歌師・鳥取春陽(とっとり しゅんよう)の作曲による流行歌『籠の鳥』にモチーフをとった作品でした。


 『籠の鳥』の歌
https://youtu.be/C5JWYOKItWM



 原作松屋春翠、監督松本栄一(まつもと えいいち)、撮影は柴田勝の結婚前の姓である大森勝でクレジットされています。配役は、沢蘭子(さわ らんこ)のお糸、歌川八重子(うたがわ やえこ)の女給お光、久世小夜子(くぜ さよこ)のお糸の友人勝子、松本泰(まつもと やすし)の友人岡本、里見明(さとみ あきら)の文雄、若井信雄(わかい のぶお)の番頭豊助。

 『籠の鳥』は、1924年に『大阪毎日新聞』から最優秀映画賞を受賞。この時の表彰状を一生柴田勝は身体から離しませんでした。

 「表彰、撮影大森勝殿、一、純金賞牌壱個、右本大会に於て大正十三年度中の最優秀映画と認めた籠の鳥の制作に従事された功労に酬ゆるため、贈呈します。大正十四年八月、大阪朝日新聞社内、全大阪映画協会」

 帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)は、設立以来、バックに大きな資本もありません。そこで、コストの安い作品ばかりを作っていたため、配給収入と制作費のバランスが悪く、絶えず資金難に悩まされることに。内紛も常に起こっていました。そこを狙って、金儲けに長けた人びとから提携や合併話がもちこまれ続けます。

 しかし、東京や横浜を壊滅状態にした関東大震災は、大阪にあった帝キネには、またとない「神風」ともなったと述べることができるかと。多くの映画をダンピングして安く手に入れたりすることが可能に。

 そして、『籠の鳥』は、帝キネ創業以来最大のドル箱に。初演から6週連続上映され、余勢をかって、『続籠の鳥』もすぐに制作されます。このブログの第7回と第10回で述べた『船頭小唄』とともに、『籠の鳥』は「小唄映画」というジャンルを生み出します。

 ところで、天災と流行小唄との関係、そしてその背景にある大衆文化と為政者との関係についての研究の決定版ともいえる永嶺重敏(ながみね しげとし)著『歌う大衆と関東 大震災』(青弓社、2019年)があります。この著作によれば、『船頭小唄』が震災前から人びとの口に乗っていたのに対し、『籠の鳥』は震災後に本格的に流行しました。




 『籠の鳥』は、さまざまなバージョンを生み出しました。ここでは、永峰重敏の説として、原曲にかなり近いとされる『流行小唄籠の鳥』( 親弦楽譜出版社、1924年) を引用しておきます。
 
あいたさ見たさに こわさもわすれ
暗い夜道を たゞ ひとり。

あひに来たのに なぜ出て来ない
僕の呼ぶ声 忘れたか、

あなたの呼ぶ声 忘れはせぬが
出るに出られぬ 籠の鳥。

かごの鳥さえ ちえある鳥は
ひと目しのんで 会ひにくる。

ひと目しのべば せけんの人は
あやしのをとめと ゆびをさす。

ゆびをさゝれちや いやだよわたし
だからわたしは 籠の鳥

 しかし、こうした「小唄映画」に当局は目を光らせます。なぜなら、大震災とその後の荒廃は、マイノリティへの虐待と同時に、時の権力に怒りの刃(やいば)を向けなねないからです。子どもたちは、『籠の鳥』をこぞって歌いました。こうした、子どもの歌は、古来日本では、童謡(わざうた)として、不吉な出来事の前兆として解されていました。すでに、『船頭小唄』は、そうした関東大震災を招いたとして、澁澤榮一(しぶさわ えいいち)など、多くの人びとの「天譴論(てんけんろん)」の標的に。

 天譴論とは、関東大震災は、「天罰」だという意味で、政治や経済の腐敗、そして庶民の生活や風俗の乱れに対し、天から警告を与えたとする説のことです。これは、当局にしてみても、まかり間違えば、耳の痛い論になりかねません。

 もっとも、日本的土壌では、天譴論は、常に民衆の側に落ち度があることになるという説もあるのですが。

 ともあれ、当局は、小唄合唱の禁止など次々と手を打ちます。ただし、このブログでは、「国民精神作興ニ関スル詔書」を挙げるに留めます。この詔書は、日本社会の享楽的刹那的傾向や、社会主義の深化に警告を与えるためでした。ひいては、それは、大正デモクラシーという時代の大きな流れに楔(くさび)を打つものでした。かの治安維持法(1925年)は、ここから始まったという説もあります。


「国民精神作興ニ関スル詔書」の写真 国立公文書館より
 永嶺重敏は、こうした小唄の流行とその取締りについて、以下のように説明しています。
 「大正後期という時代の最も大きな特徴として、『大衆』の登場をあげることができる。それまで政治の世界から疎外されてきた諸階層からなる大衆が、大正後期に政治の新たな主体や社会運動の担い手として、一斉に前面に躍り出てくる動きである。
 その際に、大衆は歌うことが社会的に大きな力をもつことを発見した。歌うこと、多人数によって合唱することは、労働運動や社会主義運動に関わる人々にとって、連帯と闘争のための大きな武器になりうることを知ったのである。
 何千人という群衆が街頭を合唱しながらデモ行進していく、このような光景が日本の歴史上初めて出現してきた時代、それが大正時代である。
 しかし、合唱という武器を持ち始めた大衆は権力の側にとっては大いに警戒すべき存在になってきたため、合唱の統制に乗り出すことになった。『革命の歌』の禁止や『メーデー歌』の認可制がそれである。
 そして、この合唱の統制がついには映画館内での観客による流行小唄の合唱にまで飛び火した結果が、警視庁による小唄禁止令だったといえるだろう」。

 もっとも、私自身、この解釈とは異なる部分もあります。流行小唄の合唱こそが、古来、日本社会の底流にある為政者批判の心性を呼び覚ましたのではないでしょうか。そして、ここが肝心なところですが、当時、柳田國男以来流布した日本の原型が南島にあったという欲望の源流をあぶり出すと考えるのです。

 いささか話が跳躍(ちょうやく)したようで。この点については、別の機会があれば述べたいと。

 『籠の鳥』の後、柴田勝は帝シネ上層部から認められたようで、同1924年から監督部に籍をおくことになり、第1回作品『笑って働け』を制作。
 「帝シネ旋風」といわれる時代が到来。帝シネは、東亜(東亜キネマ株式會社)から、坂東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)、牧野省三(まきの しょうぞう)など、多くの映画人を引き抜きます。



 しかし、天シネも大きな内紛が起きて、あっという間に窮地に立たされます。その大きな理由は、引き抜いたスタッフと帝シネに元からいたスタッフとの給料格差でした。帝シネは、旧劇は小阪撮影所、新劇は芦辺撮影所に分かれていました。小坂撮影所には、帝シネ社内の権力関係により、次々と良い映画人が引き抜かれます。しかし、『籠の鳥』は芦辺撮影所作品。これは当然ながら、芦辺派にとって、面白かろうはずがありません。こうした内紛は、多方面に影響を与え、帝シネと契約した映画館も次々と他社へ。

 冒頭で「神風」と述べましたが、そういう時こそ凋落の始まりでもあります。田中純一郎(たなか じゅんいちろう)は、『日本映画発達史Ⅱ』(中央文庫、1970年)で次のように記しています。

 「あれからちょうど半年、夢の工場は、冷たい現実に放り出された。巡業先で御難にあった旅役者とはちがう。現代文化の寵児を誇り、一躍天下に名声を馳せた映画芸術家にとって、迷夢にしてはあまりに悲惨な犠牲である。一野心家によって描かれた一片の夢想が、いま四百数十名の生命を脅かす現実にまで発展したことを思えば、粗大で思慮浅き彼ら野望家こそ映画の敵、人道の敵といわねばならない。しかもこの種の敵が、新興産業として、まだ経済的基礎も方則も固まらない映画産業の隙をねらって、関西の地方には、ことに繰り返し繰り返された」。

 「一野心家」とは、当時、帝シネ、東亜を金儲けのために、無理矢理合併しようと画策し、思うがままに操った立石駒吉(たていし こまきち)。田中純一郎によれば「六尺豊かの大男で、もたもたしたアゴひげを生やし、桜のステッキを振って株主総会などによく出かけ、大言壮語して相手の度肝を抜き、あやよくば一攫千金を得ようとする立石は、一種の暴漢であった」。

 ここで、これまでのブログの記述とも重複しますが、われらが凹天の動きを、簡単に述べておきます。これは、当時の漫画が、映画とは異なり、大衆文化において、どのような立ち位置にあったか、そして凹天が、いかに特異な漫画家であったかを知ることができるからです。

1915年 第二回東京漫畫祭参加。
1916年 天然色寫眞株式会社と契約。磯部たま子と結婚。『ポンチ肖像』刊行。
1917年 眼病で日本赤十字病院に入院。失明。『トバエ』に寄稿。
1918年 『讀賣新聞』入社。『東京パック』(第三次)参加。長男矩夫誕生、半年後に死亡。
1920年 『中央新聞』入社。
1922年 『東海道五十三次漫畫紀行』に執筆。
1923年 日本漫畫會参加。幽門狭窄にて日本赤十字病院に入院。『大震災畫集』に寄稿。
1924年 『凸凹人間』刊行。『漫畫人間描法』刊行。
1926年 『漫画』(北斗社)、『漫画』(漫画社)創刊。 『東京毎夕新聞』入社。『東京パック』(第四次)参加。日本漫畫家聯盟設立。日本漫畫家聯盟機關誌『ユウモア』創刊。
1928年 オーストリア人のクラウス博士より『日本人の性生活』執筆を依頼され、完成するも未発表。『漫畫スケツチブツクと描き方』刊行。
1929年 『裸の世相と女』刊行。
1930年 『讀賣新聞』再度入社。

 この間、『新愛知新聞』(現・『中部新聞』)、『東京日日新聞』(現・毎日新聞)、『大阪朝日新聞』、『やまと新聞』(現・『東京スポーツ』)、『婦人界』、『キング』などにも執筆。

 注目しておきたいのは、われらが凹天が、新聞社や、その新聞社をバックにもった雑誌社、凹天自身や他の人びとが設立した独立系雑誌社に、次々と漫画を描いている事実です。出版業界から、いかに評価されていたことが分かります。ここでは、いわゆる大御所といわれた当時の漫画家では、凹天だけに際立つということを強調しておきたいと。その頃の大御所は、写真が貴重だった時代には、新聞社の政治部に属していました。その意味でも、当時の漫画家にとって、この「フットワークの軽さ」は驚天動地のことでした。

 一番座からは以上です。


現代も映画は斜陽といいながら、映画関連の職業は今も人気です。その創成期がこんなに混乱の只中だったのかと思うと、その関係者たちはどのような喜びや苦しみを担ったのでしょう。

凹天がアニメーションを作り始めてから100年ちょっと。今や、MangaやAnimeは、国際共通語として、押しも押されぬクールジャパンの輸出産業。凹天は想像したでしょうか。可能性は感じていたのかもしれないけれど、現実は、その当時のメディアの中で、仕事から仕事に追われるように働いていたんだと思います。漫画家というのは、当時、高価だった写真ではなかなか表現できないため、随一とも言えるジャーナリストでもあり、クリエイターだったのですから。きっと引く手あまただったでしょう。それでも暮らしぶりは満足できるものではなかったようですが・・・。

凹天は広告媒体としての漫画も描いていました。岡本一平は「漫画漫文」の名手でしたが、そこまで有名人でなくとも、その広告漫画漫談は人気がありました。小さな範囲に書くので、イラストは的確に、言葉にリズムをもたせて、飽きさせないようにしていたように思います。印刷もまだ荒いので、しっかり見ることはできませんが、試行錯誤したのであろうな、ということが見てとれます。

漫画(イラスト)と漫文(言葉)のコラボレーションは、何か機嫌の良い、楽しいリズムが聞こえてくるようです。私は、それが当時の最大限のクリエイティブのような気がしています。

余談ですが、私は文章を日本人と島の人に書いていると意識しています。なので、島の人が直観的に分かるような具体例だと思って提示することがあります。上記の凹天のコラボレーションは、何に似ているのかと考えた時、私は島の歌と踊りに似ていると思うのです。

それは、まるでクイチャーのような、声合わせの歌と踊りです。合わさることで、倍増するもの。「合唱という武器を持ち始めた大衆」という言葉が一番座にありますが、私の感覚では、歌や踊りは武器ではありません。クイチャーが武器という考えは、まるで頭にも浮かばなかったです。

確かに、人頭税廃止運動のクイチャーもあるし、宮古上布を織りながら歌った労働歌、村を開拓するために移動させられた歌も残っています。でも、そこに攻撃としての歌や踊りとイコールではないという確信があります。

私の大好きな歌で『かにくばた』という民謡があります。いわゆる男女の交換歌(クイチャー)です。そこには親が村分けのために移動させられる子どもたち向かって歌っています。それは「やるしかない」、「幸せになれ」という祈りの歌。

ただただ力強く、生まれたてのような生命力しか感じないのです。

「新しく村建をする為野原地から狩俣大浦に移動を余儀無くさせられた子供達に対し親が開墾地の麦の様に勢いよく栄えよ家近くの豆の莢(さや)のように栄えに栄えよと励まし将来の幸福を祈念する歌である」。(平良重信著『解説付 宮古民謡集』)

私の大好きな與那城美和(よなしろ みわ)さんが歌っているYouTubeがあります。初っ端から「かにくばたよ 抱きみいぶす 乙女小(ブナリヤガマ)」という言葉がありますが、これは性的な抱くという表現というよりハグに近い感じかな、と思います。その後、よく働き、よく稼ぎ、生まれた子どもを自分たちのふるさとの地域に連れて帰っておいでよ、というような歌詞の流れ。それは、宮古の民謡によくありますが、恋愛の歌を歌っているような入り口なのです。最終的には共同体や社会、人のあり方などの島の教訓歌のような気がします。もしかしたら、宮古方言の民衆の恋愛歌という形にしか、人頭税時代には残せなかったのかもしれません。

この動画では、手拍子がメインで、いわゆる合唱のような型になっています。古くからある宮古民謡は楽器を使わず、無伴奏のアカペラ。三線(さんしん)が入るようになったのは1950年代頃です。ほんと、つい最近なのですね。


そして、宮古民謡のメインは、恋愛の歌のような気がしています。50年たてば、いやもっと早くかもしれませんが、下地さんの『民衆の躍動』は、宮古民謡誌に掲載されるのではないかと思っています。宮古人の心のど真ん中ストレート。そして、よくある沖縄民謡の三線でないところが、実はとても宮古的だと思っています。

手元にライナーノーツが見当たらないので、ネット上で探しました。うわ、これは高度な宮古久松方言です・・・とり急ぎ、宮国訳詞にて。ほんとに情熱的です。語気のニュアンスすら萌え!です、笑。この情熱は宮古ではいまだデフォルトな気がしています。もし、違うなら教えてほしいくらいです。




今夜、君となら踊ってみせようか、
踊り方は何ひとつ知らないけれど。
君のそばにいたいという僕の心が
踊ったことのない僕を踊らせるんだよ。

地面を這いつくばって、闇夜で手探りで
落ちている硬貨を拾うように
先も見えない、道も歩きづらくて
立ち止まっているときに
君と出逢ったんだ。



そうなんだよ、君に僕は夢中になってしまったんだよ
本当に君を思っているんだ。
君のことを僕は死にそうなくらい愛している。
本当にこういう風に思っているんだよ。
身体が言う通りに。
僕の魂が踊らせるんだ。

本当に君を思っているんだ。
君のことを僕は狂おしいほど愛している。
これをしても、あれをしても、
何をしていても、君を欲っさずにはいられない。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

水島爾保布(みずしま におう)1884年〜1958年
画家、小説家、漫画家、随筆家。東京府下谷区根岸に生まれ。東京美術学校現・東京藝術大学)卒。本名は爾保有。これは『難訓辞典』の著者である父、水島慎次郎(鳶魚斎)による命名。1915年、大阪朝日新聞社入社、1920年より東京日日新聞社勤務、時事世相漫画を描く。また同人雑誌『モザイク』に小説や戯曲を発表する。著書に『絵本太平記』、『新東京繁昌記』などがある。膵臓癌のため、自宅で死去。SF作家で有名な今日泊亜蘭(水島太郎など、ペンネーム多数)は息子で、漫画家の杉浦幸雄とは中学校からの親友。

鳥取春陽(とっとり しゅんよう)1900年~1932年
演歌師。岩手県新里村苅谷(現在の宮古市)生まれ。本名は貫一。父民五郎、母キクノの長男として生まれ る。刈谷尋常小学校卒。実家の製糸工場が倒産し、14歳で家出して上京。17歳から作曲活動を始め、シンガーソングライターとして活躍。幅広いジャンルで3000曲以上を作曲し、『復興節』、『籠の鳥』、『船頭小唄』、『のんき節』など数々のヒット曲を生み出した。1930年に出版した『モダン小唄集』は、昭和流行歌の源泉ともいわれる。肺結核で、死去。郷土には、宮古新里生涯学習センター玄翁会には、遺品が収められている。

永嶺重敏(ながみね しげとし)1955年~
出版文化、大衆文化研究者。鹿児島県生まれ。九州大学文学部史学科卒業、図書館短期大学別科修了。東京大学経済学部図書室勤務、同法学部附属明治新聞雑誌文庫、史料編纂所図書室、駒場図書館、情報学環図書室、文学部図書室勤務。1997年『雑誌と読者の近代』で日本出版学会賞、国立大学図書館協議会賞、2001年『モダン都市の読書空間』で日本図書館情報学会賞、2006年『怪盗ジゴマと活動写真の時代』で内川芳美記念マス・コミュニケーション学会賞受賞。

澁澤榮一(しぶさわ えいいち)1840年~1931年
官僚、実業家。次回の一万円札の肖像となり、話題となる。武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に父親の渋澤市郎右衛門元助、母親のエイの長男として生まれた。幼名は栄二郎慶喜より「これからはお前の道を行きなさい」との言葉を拝受した。同年には、大蔵省に入省。しかし、予算編成で大久保利通達と対立。退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われている。渋澤が三井高福、岩崎弥太郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋澤財閥」を作らなかったことにある。当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋澤は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現・一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現・東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現・二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。国士舘の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。社会活動にも邁進。社会福祉事業の原点ともいえる養育院の院長を50年以上も務め、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加病院などの創立にも関わる。1890年貴族院議員。自宅で、左腹壁腫瘍の手術後、死去。1927年、1928年にノーベル平和賞の候補にも。著作は国会図書館デジタルコレクションで読める。

坂東妻三郎(ばんどう つまさぶろう)1901年~1953年
俳優。本名は田村傳吉(でんきち)。1901年、東京府神田区橋本町(現・東京都千代田区東神田)の田村長五郎という木綿問屋の次男坊として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産。1915年、片岡仁左衛門の門に入り、片岡千久満の名をもらって歌舞伎の舞台を踏んだ。その後、地方巡業や端役で映画に出たが、1910年に青年歌舞伎座を作り、阪東妻三郎を名乗った。12年マキノ映画製作所に入社。同年『紫頭巾・浮世絵師』に出演。端役ながらそのニヒリストぶりが注目を浴び、次の沼田紅緑監督『鮮血の手型』前後編で主役、リアルな立ち回りで人気を得た。1924年、二川文太郎監督の『江戸怪賊伝・影法師』と『雄呂血(おろち)』でチャンバラ・ファンを熱狂させ、「阪妻」の名は全国に広まり、「剣戟王」と呼ばれた。同年阪妻プロを作り、1931年、千葉に撮影所を建てたが火事で消失。新興キネマに移ったがトーキー出現で発声が不向きで人気は下降線をたどる。1943年、『無法松の一生』で富島松五郎役を熱演し、日本映画を代表する名優の一人となる。『尊王』、『闇』、『血煙高田の馬場』、『破れ太鼓』など200本の映画に出た。脳溢血のため、自宅で死去。俳優の田村高広、正和、亮は遺児。

牧野省三(まきの しょうぞう)1878年〜1929年
映画監督、プロデューサー。京都府北桑田郡山国村(現・京都市右京区)に生まれる。父は漢方医で幕末の勤王派農兵隊・山国隊の西軍沙汰人であった藤野齋、母は娘義太夫師の竹本弥奈吉(牧野彌奈)である。日本映画の黎明期において先駆的な役割を果たした。劇場経営から映画制作に乗り出し、1908年初監督作品『本能寺合戦』を公開。以来数多くの作品の制作、監督、脚本などを務めた。日本最初の映画スター尾上松之助を見出したほか、時代劇映画のプロデューサーとして寿々喜多呂九平、山上伊太郎らシナリオライター、マキノ雅広、衣笠貞之助ら映画監督、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門らのスターを育て上げた。心臓麻痺のため、自宅で死去。

田中純一郎(たなか じゅんいちろう)1902年~1989年
映画史家、映画評論家、編集者。本名は松倉寿一。群馬県新田郡生品村(現・同県太田市新田地区)に生まれる。東洋大学卒。映画に夢中になり、卒業後には映画界に入る旨を祖父に表明すると、糸屋に奉公に出されてしまう。奉公先の主人が簿記学校に通わせてくれるので、外出するとやはり映画館に入ってしまうような映画狂で、映画雑誌によく投稿していた。当時の投稿仲間には、飯島正、古川緑波がいた。1919年、16歳のころに流行したスペイン風邪に罹患、死線をさまよう。在学中に批評家としてデビュー。1925年に雑誌『映画時代』、1930年に雑誌『キネマ週報』をそれぞれ創刊した。老衰のため、石神井台桜井病院で、死去。主著に『日本映画発達史』がある。

【2023/04/15 現在】





  


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2019年10月19日

第18回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その6」



こんにちは。裏座から宮国です。
さてさて、今回はタイトルの通り、関東大震災(1923年9月1日)が背景としてのテーマになっております。なぜかと言うと、やはり自然災害は人の人生を大きく変えるファクターでもあると思うからです。

今回もたくさんの台風の被害があり、いまだ大変な人も多くいると思います。
台風を子どもの頃から経験してきた私としては「備えあれば憂いなし」という言葉が浮かびます。

今回、SNSで「怖がらせるな!」という声がありましたが、そんな気持ちは毛頭ありません。なぜなら、いちばん大事なのは命だからです。

がんずーさどぅぬ いちばん。健康こそ宝です。


外苑前での関東大震災時の様子

そして、まさしく「天災は天の災い」なのか、個人の人生を揺り動かし、フォーカスさせる理由があるかもしれません。個人的なことですが、私は2011年の東日本大震災のとき、三女をみごもっていて臨月間近でした。

今、考えると、私の人生は一変したように思います。宮古島の活動に力が入り始めたのは「このままでは私が娘たちに何も伝えることができない」という焦りからでした。死ぬほど嫌いな歴史(勉強的にっていう意味で)に手を付け始めたのも、不思議といえば不思議です。

私はいつも現在でいっぱいいっぱいなので、基本的に過去は振り返りません。無意識に過去が反映するようなこともありますが、ほとんど「現在」のことで脳みそが99%で満タンです。

でもひとつだけ、歴史に興味がもてることがあるとすれば「人」を介して、歴史がまなべるんじゃないか、と一筋の光が、笑。

宮古の歴史を学ぶにあたって、凹天はほんとに勉強になります。さて、それは後述するとして、凹天たちの時代の立役者でもある柴田勝(しばた まさる)も関東大震災という激動を乗り越えてきたひとりなのです。

今回は、震災に直面した柴田勝(しばた まさる)の仕事ぶりやプライベート、そして周りの人びとの行動に迫ります。その当時の映画人がどのような暮らしだったかも透けて見えます。ほんと、筆まめな人って、有り難いです。

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 1922年、帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)で順調に仕事を続けていた柴田勝に息子が生れます。名前は勝美。

 「六時半頃床を出る。妻は腹が痛いとて苦しんでいた。柴田の父が来て一緒に食事をした。心配にはなるが産婆の角南さんが夕方頃生まれるというので母に頼んで撮影所に行く。唐沢君が『水戸黄門』の試写をやっていたので見る。そしてカメラの掃除をしたりする。然し何をしていても妻が苦悶している姿が眼の先にちらついて堕ちつかない」。

 「家の格子をあける時、堪えいるような苦悶の声が聞えるような気がしたが、入ると静かだ。母が『生れたよ』という。男か女かと聴くと男の子だという。まだ見ぬ我児に一種の不気味さを感じて奥の間に行く。産婆さんが『おめでとうございます』と祝ってくれた。赤いキモノを着て布団へくるまっている赤ん坊、頭が馬鹿に長いので気になったが自然に直ってくるというので安心する。オギャアオギャアと高く泣いている顔をジッと見ているうちに、ああ己もとうとう親になった。今まで子供のような気持でいたのが急にこの子の親になったのが不思議に思われた。そして、子を持って知る親の恩ということをツクズク思った。妻もがっかりしたようだが元気がいいので安心した。夜、各氏にあてて出産通知のハガキを書いた」。 

 翌年、関東大震災が起きます。柴田勝は、淡路島で『島新太郎』を撮影中でした。ラジオもテレビも、ましてやインターネットもない時代。

  「(略)忍術のトリックで家が動くところがあるので、カメラを横にして三脚をグラグラと動かしていたら、なんだかほんとうに大地がゆれているような気がして目まいがして来た。どうしたのかと思って近くの溝を見ると溝の中の水が波を打っている。本物の地震だ」。

 翌日、柴田勝は、横浜を中心とした地震の号外が、帝シネの撮影所があった小阪(こさか)にも出ます。「東京は大した事はあるまいと思って」、昨日は大きな長い地震がありましたが、東京は如何でしょうかという内容を妹に書こうとしたら第2の号外が。

 「それには、東京横浜の震災につぐ大火災とて神田区を中心に焼けているとの事であった」。「浅草も十二階が倒れたという。一日だから弟は公休日だ。浅草でも遊びに行っていたらどうしたか知ら。どうぞ、みんな何事もなくいてくれと祈るばかりであった」。

 通称「十二階」こと淺草凌雲閣とは、1890年に竣工(しゅんこう)されました。東京における高層建築物の先駆けとして建築され、日本初の電動式エレベーターが設置。現在エレベーターの日という記念日の由来になっています。当時の淺草の繁栄ぶりを象徴する建築物でした。






凌雲閣の震災前と震災後

1923年の関東大震災で崩壊した東京・淺草の凌雲閣。「淺草12 階」とも呼ばれ、西洋式の摩天楼として人気を集めたが、激しい揺れでよって8階から崩れた=日時は地震発生=(1923年09月01日) 【時事通信社】

 その日の夕方、また号外が。「『丸の内ビルテイング』は全部倒れた。警視庁帝劇も焼けた」と驚く記事ばかり汽車、電信、汽船もおぼつかない」。

 淡路島から大阪に行き、次々と出る号外を読んで、柴田勝は「江戸文化、東京文化が焼けていく。泣いて来てたまらなかった」。柴田勝は江戸っ子人としてのプライドをもっていました。

 いてもたってもいられず、柴田勝は東京に行くことに。東京は戒厳令が公布され、警察の証明書が必要でした。



 そこで御厨(みくりや)署から、「御証明願、大阪府中河内郡小阪村下小阪六百七十五帝国キネマ社内技師、大森勝、明治参拾年五月二十六日生、右ノ者東京市神田区表神保町四番地ニ現戸主兄大森清次郎、母並ニ下谷区仲根岸町三十三番地ニ弟大森光住居致シ居リ今回ノ震災ニテ生死ノ程モ判明致サズ候ニ付至急上京致シ度何卒入京ノ証明書御下附相成度御願候也、大正十二年九月四日 右御厨文書御中」という証明書をもらいます。いくつか押印(おういん)ももらい、翌日、柴田勝は上京するつもりでした。

 しかし、大阪では激しい雨が降っていました。近所の老人の意見を取り入れて、出発は翌6日に。梅田駅から名古屋駅まで東海道本線。そこから中央本線に乗り換えます。東海道本線は、関東に入ると壊滅状態だったからかと。

 電車で、「一人の老人は軍人あがりらしく戒厳令というものの趣旨を語って、自分は大阪師団の許可を得たから大丈夫だが、刑務所位では入京することは出来ないだろう」などと述べて、柴田勝を不安がらせます。七日に篠ノ井駅、軽井沢駅、翌日に大宮駅到着。そこで証明書を銃剣を突き付けられながら見せます。「大宮へついていよいよ証明書調べだ。銃付鉄砲をもつ軍人の姿は物々しく戦場に近づいたという感じがしたか許可された時はうれしくて涙が出た」。

 そこから翌日の夜明けに田端駅へ。彼の家族は、幸いにも無事でした。

 9月9日の日記。「本所の被服省跡へ行くと三万二千余の焼死体を、いくつも重ねて火葬にしているところであった。あまりの悲惨さに通り抜ける事が出来ず。引返して国技館前から両国橋を渡る。橋は片側落ちていた。川を見ると、九日を経過した今日でも無数の焼死体が流れて行く。これではほんとうに罹災した人の実数は分からないと思った。柳橋から代地を通って雷門へ行く。仲見世は、ほとんど倒れていた。然し倖ひにして残った仁王門、五重塔、観音道、六区へ出ると十二階は八階から上が倒れていた。活動館は全部あとかたも無かった。最も人の出る土曜日の朔日だったからその騒ぎは大変だったろうと思った」。

 その後、東本願寺跡、車坂、御成道、須田町、小川町、九段、三番町、市ヶ谷、四谷塩町と歩きます。そこで市電に乗るつもりでしたが、終電は出ていました。

 「重い足を曳きづって練兵場を抜けて青山通りへ出る。人力車があったが渋谷迄、二円だという。馬鹿高い値段だが、あまりにも疲労したので乗って帰る。おそいので母は心配していた。私が青っぽい色のアルバカの洋服を着ていたので朝鮮人と間違えられて殺されはしないかと母は心配していたが、私は故郷の東京で殺されたら本望だとばかり平気だった」。

 「アルバカ」ことアルパカとは南米原産の動物で、体毛が、洋服やカーペットに用いられました。




 ここからも、当時の大衆文化を支えた映画館、寄席、劇場などハコモノが壊滅的打撃を受けたことが分かります。しかし、映画は不死鳥のように復活。関東大震災前の東京周辺の映画館は112ほど。入場者は年間1740万人。それが、1927年には映画館数178。入場者は2487万人。警察が厳しく取り締まっていた映画館建築制限が撤廃されたのもその大きな要因です。

 ところで、われらが凹天の当時の活動を記しておきます。

 1921年に中央新聞社に入社。『中央新聞』は、1883年、『絵入朝野新聞』として創刊。1889年に『江戸新聞』と名を変えます。1890年、大岡育造(おおおか いくぞう)がそれを買収して『東京中新聞』と改名し、さらに1891年8月16日、『中央新聞』とした。紙面は大岡育造の政治的足取りに合わせ、1892年から国民協会、1900年から立憲政友会の機関紙的存在として編集。立憲政友会が大岡から買い取って機関紙とし、合資会社組織に変え、鶴原定吉(つるはら さだきち)が社長に就任。社屋(しゃおく)は、麹町區内山下町(現・内幸町1丁目)の政友会の場所へ。その後、第二次世界大戦中の1944年に廃刊。

 また、凹天は、新聞社に所属した漫画家を中心に結成された東京漫畫會の一員として、「漫画祭」に参加し、日本各地で悪ふざけ。1922年の第9回「漫画祭」でのレポートを『中央新聞』にも載せています。東京漫畫會とは、漫画家に風刺された人びとの恨みを和らげようという趣旨で、1915年、岡本一平(おかもと いっぺい)を中心に結成。この漫画集団の代表作が、『東海道五十三次漫画絵巻』。このブログの第4回で述べましたが、凹天担当の場所が川崎宿でした。凹天は、川崎にご縁があるようで、ここでは彼の筆になる六郷橋(ろくごうばし)の絵を紹介しておきます。




 1922年、第10回の帝国ホテルと箱根をもって東京漫畫會は、日本漫畫會に発展解消。凹天は、1923年には幽門狭窄(ゆうもんきょうさく)のため入院。しかし、ずっと日本漫畫會に所属し、『大震災画集』(金尾文淵堂、1923年)で、「逃げる一家」を制作。この画集は、漫画家が当時新聞社の政治部に所属し、ジャーリストとして義務感をもって活動していたことの証言となっています。

 箱根の方は、京谷金介(きょうや きんすけ)の具体的な証言が残されています。『漫画百年』第6号(東京漫画スケッチ会、1969年)2ページからの引用です。
 「漫画祭というものも毎年行ってきた。自分は殆ど記憶がない。箱根ででやったときだけだが、恐らくあれが最後かもしれない。箱根振興会や何かの招待で、小田原駅前には漫画会歓迎という人形が立っていたり、中々物々しく、まづ第一日は宮ノ下富士ホテル見物、夜は底倉の宿の宴会・隣の栄治さん、芸者と相手になっている。『どこから くるの、』『富士屋の裏の山の方、』『狸みたいだわ』芸者の手踊りや『松づくし』キョトンとした狐つき見たいな顔の半玉の『浅い川』などあり、服部さんのラオコーン式裸踊りも披露された。
 二日目は元箱根、湖尻、仙石原宿泊、かへり御殿場まで汽車の時間におくれるというので運転手はフールスピードで長尾峠の七曲りを飛ばす。『ヒャー、運転手さん、ゆっくりやってくれ、汽車遅れてもいヽよ。』大きな悲鳴を挙げるのは服部亮英さん、清水対岳坊さんなどの悲鳴が大きい。ゆきの塔の沢から宮の下へあがる崖ふちの幾曲りも大声をあげて悲鳴をあげたがこれは漫画でなく、本気で皆こわがっている。本音である。バスの窓からのぞくと道はみえなくてすぐ谷底ばかり見えるからこわい筈である」。

 さて、中央新聞での活動をまとめた本が、凹天の第2作『凸凹人間』(新作社、1925年)。東京漫畫會と日本漫畫會が連続する同グループと当時認識されていたことの証(あかし)として、ここでの凹天の文章を引用しておきます。

 「日本漫畫會は創立以來、今年で、拾壹年になる、創立當時の人は、何人も居無くなつた、平福百穂氏も、會員の一名だつたことがある。今日の會員は左の通りだ。
 岡本一平、池部釣、小川治平、前川千帆、幸内純一、山田みのる、宍戸左行、柳瀬正夢、麻生豊、田中比佐良、宮尾しげを、北澤楽天、近藤浩一郎、水島爾保布、清水對岳坊、細木原靑起、代田収一、池田永治、服部亮英、在田稠、中西立頃、小林克己、森島直三、牛島一水、森火山、下川凹天(以上二十六名)
 漫畫会は、議員閉會後に、漫畫祭を必ず行ふことになつて居た、第一回は東京多摩川で、最後の一昨年は、箱根でやつた、其間大阪の寳塚温泉でやつたり出雲の國でやつたり、別府や、赤倉でやつたりした。第一囘當時の靑年も今日は、ちら/\白髪が混り、子供は小學中學へ行く様になり、カツポレも少々遠慮氣味になつてきて、誰云ふとはなく、漫畫祭は自然、一昨年限り廢止される事になつて了つた。

 一番座からは以上です。




1923年9月1日11時58分32秒ごろに起きた関東大地震は、お昼頃だったため、大火災に結びつき、関東大震災という言葉になった、ということを聞いたことがあります。

資料を眺めていると、その時代の人にどれだけインパクトがあったか、想像の域を超えます。多くの資料が残る「東京都復興記念館」は、東京都墨田区にあり、1931年に建設されました。

関東大震災の状況を永く後世に伝えるため、当時の被災品や遺品、写真などを保存陳列されています。


東京都復興記念館
http://visit-sumida.jp/spot/6155

さて、関東大震災からあと4年もすれば、100年になります。この一世紀の間、未曾有の震災は東京では起きていませんが、思い出してみれば、神戸や福島、北海道、新潟、熊本と、頭にすぐに浮かびます。

今回の柴田勝もそうですが、凹天も、多分、その他の人たちも「今、自分にできること」に集中している様子がわかります。家族の安否や生活を立て直すこと、仕事で表現することです。きっと、私たちと同じに違いありません。

凹天にいたっては、入院までしています。その頃の凹天は、自分が齢80歳まで生きるとは思っても見なかったのではないでしょうか?

冒頭に書きましたが、2011年の地震は、個人的に、自分を振り返ることになりました。と、いうか、自分自身が「命」に対してどう思っていたか、ということを思い出しました。

大方の宮古の人は、まわりに親戚縁者が多いので、幼い頃から葬式も多かったと思います。私も類にもれずそうでした。

なので、明日の命が保証されている、とは、あまり思ったことがありません。どんなに元気な人でも急に亡くなったりします。年齢順という感じもなかったです。

そのメンタルのまま、東京で暮らしていると「宮国さん、生き急いでいるよ!」と突っ込まれることも多かったです。でも、なかなか「明日も私は生きている!」と自信満々な気持ちにはなりません。

そして、この関東大震災を考えるとき、さらに私の心は戒厳令にどうしても目が行ってしまいます。よく知られているのは「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人暴動」というデマを信じた住民らによって、およそ7000もの人が殺されたという事件です。

沖縄タイムスでは、2017年にも島袋和幸(しまぶくろ かずゆき)さんという方がしっかりと取り上げていますから、ご知の方も多いのではないでしょうか。有名な「検見川(けみがわ)事件」です。


デマに殺された沖縄出身者ら 「信じ込む力、今も拡大」沖縄タイムス
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/165810

実際は、いろいろ調べてみると、沖縄県の人だけではなく、三重県や秋田県、香川県出身の人も殺されています。要は、素性のよく知らない人、訛っている人など、様々な要素がからみあって、「やられる前にやれ」と思う集団から暴行を受けたのでしょう。

時期も時期なので、アナキストの大杉栄(おおすぎ さかえ)やその愛人で婦人解放運動家の伊藤野枝(いとう のえ)も殺害されています。かの有名な甘粕事件です。ほぼ全裸で古井戸に投げこまれ、馬糞やレンガで埋められるという恐ろしさ。



犯行を指揮した甘粕正彦(あまかす まさひこ)は「上官の命令だからやりそこなうな」と証言したと言われ、私は、ついあのアイヒマンを思い起こしました。甘粕たちの「政府転覆の恐れのある人を殺した」という言い訳は、大杉らといっしょに殺された大杉の甥の6歳の橘宗一(たちばた そういち)を殺した理由にはなりませんから。

「変わったことを言う」「自分たちとは違う」というような人たちは、今より少数だったのでしょう。そして、危険視されて、はじかれるならいいけれど、命まで失ってしまう。その怖さは、普段から言いたい放題の私でも恐怖を感じます。なぜなら、前述の絶対多数の「信じ込む力」や世間や国やマスコミは「どんな危害を加えても良い」というお墨付きを与えてしまうからです。

凹天が晩年になってから宮古島のことを語りだしますが、それは、関東大震災あたりのときはボヤかしておきたかったのではないでしょうか。私ならそうします。命に関わりますから。

関東大震災の時期は、すでに下川凹天は有名人でした。だからこそ、ジャーナリズム精神を発揮した作品を描いたのではないかと思うのです。他の漫画家たちもそうです。彼らは、翻弄されながらも自分なりの思想や表現を深め、作品を作っていったのではないかと思います。実際に、柳瀬正夢などは、事故とはいいながら不審な死をとげています。

それは、実は表現者仲間の作家たちも同じで、殺されないまでも自分の立ち位置や生活を守るために、試行錯誤したはずです。「いつ殺られるかわからない」からです。だからこそ、信用できる人や仲間を大事にしたのではないか、とも思うのです。ただのパーティではなく、結束する会を何度か作ったり、壊したりするのはその現れではないでしょうか。

さて、その頃の宮古島はどうだったでしょうか?

実は、宮古郡織物同業組合が発足しています。翌年にあたる1924年に平良村が町制施行。同年に野村安重が西里で酒造所をスタートさせています。

1925年には、宮古神社が鎮座祭。その翌年には、沖縄県宮古島庁、宮古支庁となります。

ここから何がわかるかですが、勝手な仮説ですが、人頭税廃止から四半世紀近くなり、ゆるやかにしっかりと日本化が進んだとも言えます。その間、特別町村制施行、電線開通、コレラ大流行、マラリア、台風襲来、とさまざまなことがありますが、島が日本化にともなって、急速に近代化していくのです。

その後、1927年には慶世村恒任( きよむら こうにん)の『宮古史伝』が発表されます。奇しくも南洋漁業がスタートした年でもあります。ここからさらに宮古の人たちの官民一体の活躍がはじまります。いや、苦難の歴史を乗り越える人材が、生み出されていったとも言えるでしょう。それは、特に肩書がある人ばかりではなく、民衆も同じように生き抜いていく力強さを見せていきます。


宮古は宮古の世界がありながら、東京で起こることは決して別次元ではありません。現在も形は違えども、自衛隊誘致や観光爆発など、宮古島はまだそのなかにいるような気がします。いまだ荒い波をサーフィンしているようです。たまに突風も吹きながら。

だからこそ、その時、宮古の人はどう考え、どう動いたか、わたしたちに大きな示唆を与えていくれるような気がしています。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

大岡育造(おおおか いくぞう)1856年〜1928年
弁護士、政治家。長門国(ながとのくに)豊浦郡(とようらぐん)(現・山口県下関市)生まれ。講法学館、司法省法学校などに学び、1890年『中央新聞』を発刊。同年帝国議会開設に際し山口県より衆議院に当選、政界界に入った。以来当選12回。 1900年伊藤博文の立憲政友会創設に参加、政友会総務となる。東京市参事会員、東京市会議長などを歴任。 12年衆議院議長となり、14年には山本内閣の文相に就任した。

鶴原定吉(つるはら さだきち)1857年〜1914年
官僚、実業家、政治家。筑前国(ちくぜんのくに)福岡雁林町(がんりんのちょう)生まれ。東京帝國大学卒。外務省に勤める。1882年、日本銀行に入行。1900年、関西鉄道社長。同年、政友会創立に参加、翌年大阪市長。1905年、伊藤博文の推薦で韓国統監府の総務長官となり、第3次日韓協約締結を推進した。1909年から実業界に入り、1910年に中央新聞社長になる。1912年、衆議院議員。1914年に死去。

岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。北海道函館区汐見町生まれ。妻は小説家の岡本かの子。芸術家・岡本太郎の父親。東京美術学校西洋画科に進学。同級生に、田邊至、田中良、安宅五郎、加藤静兒、近藤浩一路、長谷川昇、藤田嗣治、香田勝太、新井完、九里四郎、池部釣、望月桂(犀川凡太郎)がいる。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルでヒット・メーカーになる。凹天の処女作『ポンチ肖像』(磯部甲陽堂、1916年)の序言を書く。その後、『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。漫画家養成の私塾を主宰し、後進を育てた。疎開先の岐阜県美濃加茂市で脳内出血のため死去。

京谷金介(きょうや きんすけ)
漫画家。本名は橋村金介。京屋金介とも。鋭意調査中。

慶世村恒任(きよむら こうにん)1891年~1929年
郷土史家。砂川間切下里村大原(現・宮古島市下里)生まれ。代用教員をつとめるかたわら研究し、1927年、宮古初めての通史といわれる『宮古史傳』を刊行した。詳しくは、「 んなま to んきゃーん 」第1回「宮古研究乃父 慶世村恒任之碑」。
【2023/04/15 現在】  


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2019年09月20日

第17回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その5」



Buon giorno !毎度おなじみ裏座から宮国です!
なぜ、イタリア語かって・・・それは私が出張でイタリアにいるからです・・・。というか、すごいよな、文明の利器。インターネット!

今、この原稿も東京の一番座の片岡さんとイタリアの宮国という、二元編集をしているのです。ありがとう、グーグルさま。原稿を書いているとポーランドにいる與那城美和さんからメッセージが飛んできました。子どもの頃は考えられなかったよな。ドラえもんくらいしか。

さて、実は、インターネットは私と同じくらいの年齢なんです。通信という枠ではなく、パケット交換ネットワークという考え方ですが、1960年代末から1970年代初めに開発されました。「ネットワークのネットワークを構築するインターネットワーキングのためのプロトコルの開発」っていうらしいです。

1982年、インターネット・プロトコル・スイート(TCP/IP)が標準化された頃は、私は、ちょうど私が十三祝をやっているような時期です。十三祝いって何?と思われる方がほとんどだと思うのですが、子どもから大人への節目として、島では親子の行事のようなものです。干支が一回りしたころになります。昔は盛大にお祝いしたようです。

私は、なぜか御嶽(うたき)に母親といました。こういう生活を積み重ねるとパリピと反対の人間が出来上がります。おっと、それた。

「インターネットサービスプロバイダ(ISP)が1995年に商業化が完了した」と言われていますが、インターネットの営利目的の利用についての制限がなくなったんですね。1990年代初頭は、私たちにとって、まだインターネットは少しむずかしいような感じだったと思います。

でも、1995年頃にはワープロからパソコンに変わった頃。なにせWindows95ですから。それが5Gが2020年の春から始まるのです。そして、AIかー、すごいなぁ。通信とともに生きている気がします。

私たちは、そんな時代の真っ只中に生きているのですが、同じような変革期を凹天たちは生きてきたのじゃないのかとも思うのです。新しく職業が生まれ、生活も激動だったのだと思います。その時は、日本がある意味広がったのかなと思いますが、今は世界に広がっているのかもしれません、

明治維新にできた富国強兵が目的の教育のなかに私たちはいますが、その教育すらもこのような技術が凌駕していくような気がします。多様性が発達しやすいようになるのかもしれせん。

私たちはなんのために学ぶか、それは凹天のように独自の創造性を伸ばすためかも。アニメーションなんて、本当に当時最先端だったのですから。

そして、今では海外にいると、アニメはまるで日本が元祖のようなコアファンがたくさんいることに驚かされます。若い外国人と話すと、必ずアニメーションの質問されたりするからです。

百年以上前に、凹天たちが芸術や飯のタネに漫画の可能性の希望に燃えていた頃、現在のようにマンガやアニメが世界の共通語になり、そのイノベーションが日本の大きな産業になると誰が予想したでしょうか。凹天らですら考えなかったと思います。

そんな嵐のような黎明期だからこそ、凹天の作品が残っていないとも言えます。ですが、少しでも解き明すことができるのは、商業活動にしようとしたベンチャー起業家やその業界のなかで超筆マメな柴田勝という人間がいたからでしょう。

今回も彼らの人間模様と私たちのある意味しつこい考察をどうぞ〜。

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 今回は、柴田勝(しばた まさる)の巻の第1回と第2回に続き、アニメNEXT_100の中間報告について考察を加えたいと思います。ただし、現段階では「仮説」というか「妄想」レベルなので、その点ご容赦ください。 

 凹天の回想録『映画評論』1934年七月號所収(映画評論社、1934年)「日本最初の漫畫映畫の思ひ出」39ページには、「漫畫映畫乃ち其頃の『凸坊の線畫帳』は日本で其前に誰もやつた話を訊かないところをみると私が一番最初だつたかもしれない」「第一回作品『芋川椋三玄關番の卷』他二本はキネマ倶樂部で封切りされました」とあります。

 ここから、2017年以前には、凹天のシネマ倶樂部で上映された第1作との結論を出しています。それに対し、アニメNEXT_100は、新たな記録を提示し『凸坊新畫帖、芋助猪狩の巻』が劇場公開第1作だとしました。

 しかし、果たして1917年1月公開作品は、その作品だけだったのでしょうか。

 確かに『キネマレコード』の記録では、シネマ倶樂部の2月に上映の「第二次線畫トリツク」作品が『凸坊新畫帖 明暗の失敗の巻』、3月に上映の「天活第三次の線畫トリツク」作品が『芋川椋三 玄關番の卷』とあります。この記録は、何人かのアニメ研究者の議論の中心になったところでした。

 まず、2013年バイエルン州立図書館に勤めるフレデリク・S・リッテンが、『芋川椋三玄關番の卷』が第1作目という従来の定説に、異を唱えています。リッテンは、当時の上演記録を丹念に調べて、『キネマレコード』の公開リストから『凸坊新画帖明暗の失敗』であったと結論づけています。Frederick S. Litten: Some remarks on the first Japanese animation films in 1917 (http://litten.de/fulltext/ani1917.pdf)。確かに、『キネマレコード』大正六年參月号の140ページには、「凸坊線畫帖明暗の失敗(一卷)[ト]第二次線畫トリックで椋三、猪を生取りにする可く落穴を作って反って大失敗を惹き起す。上期キネマ」との記述。もっとも、リッテンは、最初の(一卷)を「最初」と読み誤ったかと。なぜなら、その後に「第二次」とあるということは第一次を前提とした記述。「一巻」とは、当時のフィルムの単位です。日本語、そして日本で映画公開の順序を知っているなら、ここから第1次作品があったことを想定できます。
 加えてリッテンは、『芋川椋三玄關番の卷』を4月公開としていますが、上記に挙げた理由から、これも誤りです。『キネマレコード』大正六年五月特別號240ページに3月上映作品として、「「芋川椋三玄關番の巻 Mr. Imokawa’s Janitor(天活)天活第三次の線畫トリックだ。こういふ試みは嬉しい、タイトルが馬鹿に氣に入つた。巧妙である」との批評が掲載されています。


 
 もうひとつ『キネマレコード』とともに同時代に発行された貴重な公開映画資料の双璧とも言える『活動之世界』の「毎月封切フイルム一覧」では、このちょうどこの時期は「内地映畫」に「外国映畫」というカテゴリーしかありませんでした。「内地映畫」には、舊派と新派、「外国映畫」には、實寫と教育寫眞、▲喜劇、▲線畫と影繪、▲人情劇、▲社會悲劇、▲正劇、▲連續寫眞です。われらが凹天の作品は、そこから外れていたためと考えられます。当時の外国映画の隆盛ぶりが分かろうというものです。日本商業アニメーションの別枠が設けられたのが、『活動之世界』大正六年九月號163ページに線畫悲劇を冒頭にもってきた時でした。その作品は幸内純一(こううち じゅんいち)の現在では『なまくら刀』の名前で知られている『塙凹内名刀之巻』です。この作品は、評判が良く、『活動之世界』の同号に載った評は、現時点では、日本商業アニメ―ション最初というのが定説です。
 「日本で線畫の出來る様になつたのは愉快である、殊に小林商會の『ためし斬』は出色の出來榮えで、天活日活のものに比して、一段の手際である、殊に題材の見付け方面白い、日本の線畫は成るべく日本の題材で行きたい『試し斬』といふ純日本式題材を捉えて來て、之を滑稽化した所に、凸坊式面白味が溢れて居る(略)」。

 ここから『芋川椋三玄關番の卷』は、『活動之世界』記録上第3作目で3月に公開された作品ということが分かります。この記録を当然アニメ研究者は知っていたはずで、何冊かの著作でも述べられていますが、この記録に関し、議論がこれまで起きなかったのか、門外漢の私としては、不思議で仕方がありません。凹天やその遺品に関し、なにか問題やタブーでもあったのでしょうか。柳田國男(やなぎだ くにお)の遺した資料が、成城大学と筑波大学で奪いあった裏にある暗躍を思い起こせさせます。また、宮澤賢治の私生活が、遺族である宮澤清六が亡くなるまで、秘匿(ひとく)されていたことも加えてもいいかと。今後アニメ研究史が進めば、日本の商業アニメーション映画公開時の人間模様をふくめ、われらが凹天に関する貴重なエピソードが明らかになることを期待したいところです。

 では、なぜ今回「仮説」を述べるのか。それは、シネマ倶樂部の後に、上映された有樂座の館としての興業のやり方を考えると、そういった疑問が湧くからです。有樂座は、イベントをよく行っていました。



https://www.cinematoday.jp/news/N0065085
*残念ながら2015年に閉館。当時の写真をwikiより転載

 
 例えば、1909年1月4日付『讀賣新聞』には「歌劇大會」が1月9日に晝夜二回開演との広告。1909年1月13日付『讀賣新聞』には、1月15日、16日、17日に「子供デー」、同年3月1日付『讀賣新聞』には、「第1回少年談話大會」が3月6日7日開かれるとの広告。その後も、「活動写真寫眞大會」、「子供日」や「東西名人會」、「女流名人會」などが開催されます。

 そしてここで、特記しておきたいのは、凹天が日本初のアニメーターとしての栄誉を担った前年の有樂座に開催された「凸坊會」。

 1909年7月13付『東京朝日新聞』の広告では、「お馴染みの凸坊畫帖にアルコール先生即ちチヤツプリン滑稽喜劇數番を加えて是を楠井茶風鈴外數名が面白可笑しく説明しますから坊ちやん嬢様は勿論大人にも老人にも捧腹絶倒の愉快極まる喜劇大會で御座います」。

 1909年7月14日付『讀賣新聞』の記事をここで引用しておきます。「藪入の十五日から向ふ五日間有樂座に催さろう、凸坊大會と云うは例の凸坊畫帖や喜劇のみを合せて十五フ井ルム頗る付に振つた試みである、凸坊畫帖の方は評する迄もない處、喜劇では『戦の夢』や『夜通し轉宅』や『ホルムより強し』が 面白い夏の夜(毎日午後六時半会場)を腹の皮よるのも一與であらうとす〻めするが、唯少年少女達にこの面白い試みが飽ずに見通せればい〻がと夫のみが心配である(レ)」。

 当時、藪入りは、1月15日と7月15日。ここでは、後者です。津堅信之著『日本初のアニメーション作家 北山清太郎』(臨川書店、2007年)によれば、この「凸坊會」が、北山清太郎(きたやま せいたろう)を刺激。翌年日本アニメーターの創始者のひとりのきっかけになったことを付言しておきます。

 さて、いまここで問題にしている有樂座恒例のイベントといえるアニメーション映画大会は、1917年1月10日付『東京朝日新聞』の広告によれば、1月15日と16日。 「天活特別披露」という見出しで、有樂座で「天活凸坊大會」が開催されます。

 残念ながら、ここで上映作品すべてが精査されたわけでなく、現段階では分かっていません。そこで、先述のような推測が成り立つわけです。シネマ倶樂部では、凹天の作品が現段階の記録によれば1作品だとしても、有樂座では、「『芋川椋三 玄關番の卷』他二本」のうち、複数公開されたとの可能性が否定できないことだけは記しておきたいと考えます。

 ここで、柴田勝の実人生に戻ります。1919年には天活も倒産。柴田勝は、国活(國際活映株式會社)に入ります。柴田勝は国活で撮影技師として働きながら、時間があると淺草六区に日参。

 観たのは、映画は当然ですが、歌舞伎、新派、オペラ、寄席、琵琶など。1920年、田村宇一郎(たむら ういちろう)監督作品『松本訓導』では、淺草大勝館での興行成績が良かったので撮影スタッフは表彰状を貰います。

 「松本訓導劇撮影ニ際シ格別尽力シ成績良好ニ付特ニ慰労トシテ金五円給食シ之ヲ表彰ス、大正九年四月十二日 国際活映株式会社取締役会長岡田文次」。

 ここで、柴田勝に大阪行きの話がもちこまれます。大きな要因は、国活の極度の営業不振。それは、当然、撮影についても緊縮ということになります。柴田勝は、国活の将来に不安をもち始めていました。

 そこに、1920年にできた帝キネ(帝國キネマ演藝株式會社)で仕事をしないかという話が舞い込みます。江戸っ子気質の柴田は、大阪行きを悩みます。すでに、これも同年設立された東京の松竹(松竹キネマ合名會社)入社の話が進んでいたことも大きな要因です。

 吾妻橋際の伊豆熊という鰻屋で、天活、国活などで監督をした田村宇一郎からこう切り出されます。

 「私が駒形劇場の事務をしている頃、大森君のお父さんには種々と援助を受けたのでその恩返しといっては何んだが現在の国活に大森君を置くのは気の毒だ。そこで将来性のある帝キネという新天地へ行って思い切り働いてください」。

 「翌日は田村氏が家へ来て母に私の大阪行きについて話をされた。そこで決心して二十八日夜、田村氏と一緒に太田専務の家に行くと『私は国活の重役という立場上、正式に大森君帝キネへ行ってくれとは言えないが是非たのむ』といわれた。先輩や同僚に対して内密で大阪に行くのは厭だったがたってと言われるので承知した。



伊豆熊の現在 伊豆栄 HPより
 大阪行き当日の日記。「いよいよ今日は大阪行の日だが雨があんまり烈しく降るので二の足になったが思い切って断行することにした。九時半頃工場に行く。諸氏に会って別れをつげる。女の助手が入社していた。これが国活の別れと思うと何んとなく悲しい。一時頃帰宅。酒を少し呑む。夕方湯に行き、靴、帽子、ネクタイを買う。夜渋谷から兄が来た。七時半に家を出て東京駅へ行く。母も後から人力車で来た。田村氏が見送りに来てくれた。八時二十分発の鳥羽行に乗る。汽笛一声故郷をあとに」。

 この年の年末には私生活にも変化が起きます。それは結婚。相手の女性の姓は柴田。大森勝が柴田勝と名乗ったのは、妻方の姓をいつの頃からか選んだということが分かります。そのいつというのは、現段階の調査ではなんとも。大阪は誘惑の多いところという周りの勧めもあり、お見合いで柴田という女性に好意はもっていたものの、もう少し仕事本意と考えていた柴田勝ですが、ここで結婚を決めました。でも映画人として、結婚式の日も柴田勝は仕事をしていました。

 1921年は、いろんな作品を撮影技師として、順調に撮り続けました。大阪、京都、奈良で印象が強かったのは、十日夷で芸妓を乗せた宝恵駕籠(ほえかご)、落語で情景を想像していた初天神、奈良の三笠焼き、東大寺二月堂のお水取り、大阪堀江遊郭の此花踊(このはなおどり)、京都祇園の都踊り、大阪南地の芦辺踊り、京都先斗町(ぽんとちょう)の鴨川踊り、京都南座の顔見世でした。

 一番座からは以上です。



裏座から宮国です。今回は、日本アニメーションの発露ともいうべき頃を詳しく掘っていきました。

冒頭にも書きましたが、残念ながら、凹天の作品は現存していません。世知辛い世の中だと、結局モノがあってなんぼ!的なところがありますが、現存しないからといって、凹天ら創世記のメンバーの努力がなくなるわけではないと考えます。

私の世代でアニメと言えば手塚治虫ですが、手塚治虫ですら先輩方がいて、老年になった凹天と対面することがあったようです。その薫陶を受け、さらに漫画やアニメーションが花開いたともいえます。

柴田勝のような、私生活まできちんと記録してあった方がいると、その当時の働き方や結婚というようなことにおいての時代性が急に生々しく感じます。

人が暮らし、働き、旅をし、出会い、別れ・・・今の私たちとあまり変わらないのだなぁと思います。ただ時代が違ったのだろう、と思うのです。

凹天らは、ジャーナリストであり、芸術家であり、イノベーターであり、漫画家だったのです。後年に、肩書を「漫画家」とひとくくりにしているのは、他ならぬ私達自身かもしれません。

そして、関東大震災や戦争やさまざまなアップダウンを乗り越えた世代が見たものを、こうして想像&妄想ですが、追体験できる現代に生まれてよかったとまで思います。

話は変わりますが、この文章を読んでいるみなさんはよくご存知かと思いますが、宮古島は空前の観光ブームです。今までかつてないほど、100万人規模で島に人が押し寄せています。

人が集まるところには、政治もさらに動き、大きな枠組みでフューチャーされることも増えたように思います。

ですが、こういったある意味カオスのなかにいる今こそ、私たちは先人たちの言葉を慮り、今現在住んでいる島の人たちの言葉を記録しておかねばならないと思うのです。特にご高齢の方の記録を聞き書きでも、テープレコーダーでも、カメラでも、iPhoneでもなんでもいいから誰でもできる範囲で残しておくことができる方はしてほしいと切に願います。

今は役に立たないかもしれない。でも、振り返る材料があるということは、なにか有事があったとき、個人だけでなく地域の意思決定に大きな役割を担うと考えます。決して無駄にはならない。

時代の権力者の残す歴史が歴史だった時代は、終わろうとしています。私たちひとりひとりが大事だと思うものを後世に伝えていくことができる時代になったのでしょう。

宮古の歴史書は、1891年生まれの慶世村恒任(きよむら こうにん)が表した『宮古史伝』(南島史蹟保存會、1927年)と言われていますが、よくよく読むとそれまでの蓄積を慶世村恒任が時代の風を受けながら書き著したものだということがよく分かります。

伝える努力をした人がひとりいたということは、そのまわりには数十名の人間が確実にいたはずです。そして、実は本にならなくとも、宮古の精神のようなアーキタイプを暮らしのなかにあらゆる方面で残していったに違いないのです。

現代の文化芸術は、高尚なような扱いですが、私はその土地が持つ借り物でない精神構造こそが文化芸術の源泉だと思います。

凹天は、幼い頃しか宮古島にはいませんが、何か「あららがま」のような見えないものの一端を宮古の自然から受け取っていたのではないか、と私は考えています。それはかけらのようなものかもしれませんが、現代の私たちはそのかけらを記録することができるという稀有な時代に生きているのだとも思うのです。

このような先人たちがいたからこそ、今の私たちの暮らしがあると考えれば、現代の困難すらも多くの智慧と思いやりで解決できるような気がしています。宮古島の人たちが昔からやってきたような「生き抜く智慧」は、今宮古で生きているひとりひとりの人の身体や脳内に確実に伝播していると思うのです。

思い切りそれましたが、凹天を調べれば調べるほど、なぜか「今を生き抜くこと」や「後世に伝えなければならないこと」にフォーカスしていくように思います。

余計な諍いを起こしている暇は人生にないのだと、思わざるを得ません。そう思えば、どこへ行っても(たとえイタリアでも)自分が宮古人だと逆に強く感じてしまうのです。人生には旅が必要だと言われるのは、こうして身体を違う文化の中に置くことによって、相対的に自分の身体や脳内にあるものがあぶり出されるからかもしれません。

では、また今度!チャオ!またあとからや〜。
【2023/04/15 現在】  

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2019年08月16日

第16回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その4」



まずは、毎度おなじみ。裏座から宮国でございます。さて、今回も柴田勝(しばた まさる)と凹天の出逢いは続きます。

日本のアニメの創成期にあたっていて、このあたりは不明点が多いのですが、だからこそ、撮影技師、監督だけではなく、書き手であった柴田勝を通して見る時代背景は、色鮮やかです。

一番座に細かく書いてありますが、現在の日本のレジェンドになったような大衆的な芸術作品の萌芽は、その頃、生まれたものだと思わざるを得ません。

映画は、当時は流行の最先端。大衆芸術とも言える落語や講談など、人頼みの表現がスクリーン、いわゆる映像、映画というものに段階的に移行していった時代だとも言えます。そこに、演劇の要素が入ったいわゆる活動写真と凹天らが作ったアニメーションと大きく別れるのだと思います。

当時の人間関係も意外と仲間内な感じで、屈託なく、相手の個性について表現している記述も多く、遠慮がありません。ディープに性質を揶揄したりするせいか、個性豊かで面白いのかもしれません。

今回のブログは、立役者であり、イノベーターだった面々の雰囲気をぜひ味わってください!


 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 1916年から、柴田勝は、天活(天然色活動寫眞株式會社)の現像工場があった錦輝館裏の錦町工場へ入社。ここで、現像室の掃除から始まり、フィルムの焼付の手伝い、現像するフィルムの巻付けなどをします。ここで、チャンスが訪れました。

 天活に入社して3ヵ月ばかりで、天活から小林商會が分離独立。その移った人びとの中には、枝正義郎(えだまさ よしろう)の助手であった長井信一(ながい しんいち)も。その後任として、柴田勝が白羽の矢に立てられたのです。

 当時大物監督だった枝正義郎は、後年『ゴジラ』(1954年)や『ウルトラマン』(1966年~1967年)を代表とする特撮物で一世を風靡した円谷英二(つぶらや えいじ)を映画業界に誘ったことで、名前が残っています。



 このふたりの出会いは、花見の喧嘩。玩具会社に勤めていた円谷英二が飛鳥山で花見をしていると、同僚が隣席の客と喧嘩。それを仲裁したのが、当時天活の技師長だった枝正義郎でした。


 柴田勝は、枝政義郎の助手として、日暮里撮影所に日参。29作品を撮影技師として制作したところで監督となり、その後に、われらが凹天と出会うことになります。別の記述では、撮影技師としての30作品目に凹天の商業アニメーション映画を撮ってから、念願の映画監督になったとも。




 天活という会社についても、渡邉武男著『巣鴨撮影所物語』(西田書店、2010年)の記述に基づき、ここで触れておきます。当時から映画会社は離散集合を繰り返しました。




http://www.city.toshima.lg.jp/132/bunka/kanko/sanpocourse/006175.html
豊島区HPより
 前回のブログで述べましたが、一旦、4つの映画商社がトラストをしてできた日活ですが、最初から分裂の種を内包していました。

  その主因は、小林喜三郎(こばやし きざぶろう)という日本初の映画興行師の存在です。彼の異名は「バクダン男」とか「興行界のジゴマ」。

  「ジゴマ」というのは、福寶堂がフランスから輸入した犯罪映画『ジゴマ』のことで、当時大当たりをとりました。

  ピストル強盗「ジゴマ」を真似する犯罪や不良少年が現れ、社会問題になり、上映禁止になったり、年齢制限になったり。


ジゴマの写真wikiより
 子どもが「ジゴマごっこ」をするのは社会風俗上良くないという当局の考えでした。福寶堂の営業部長だった小林喜三郎が「興行界のジゴマ」と呼ばれたのは、相当なやり手だったからではないでしょうか。

 小林喜三郎は、日活に反旗を翻(ひるがえ)し、1914年、天活(日本天然色活動寫眞株式會社)を作ります。

 当初の目的は、当時、イギリスで評判をとっていたキネマカラーの色彩映画を制作する会社。社名に「天然色」とあるのは、ロンドンにあるアーバン会社の社長、チャールス・アーバンとアルバート・スミスの発明したキネマ・カラーというカラー映画製作法の使用権をもっていたため。日本初のカラー映画『義経千本桜』を撮影します。しかし、当初の目的は、第1次世界大戦の勃発したため、原料の輸入減でコストがかかりすぎるということで不首尾に。普通の映画制作や洋画の輸入に重点を移します。

  本社は日本橋で、旧劇、時代劇の撮影所を日暮里、新派の撮影所を最初は大阪の舞鶴に。現像所は錦輝館の裏手に設けられました。ここで、われらが凹天が日本初の商業アニメーション映画を製作したのです。

 小林喜三郎は、こうして天活を歴史に残る映画會社にしたわけですが、彼の興行師としての辣腕(らつわん)ぶりは、力余って最終的に天活を潰すことに。


  ところで、この天活時代で、柴田勝の名前が後世に残ったのには、われらが凹天、枝正義郎(えだまさ よしろう)に加えてもう1人の映画監督を挙げておきたいと考えます。

 それは帰山教正(かえりやま  のりまさ)。帰山教正は、当時の日本映画界には珍しい東京高等工業学校(現・東京工業大学)の出身のインテリでした。1917年、天活に入社。純映画劇運動の旗手として活躍しました。その具体的な内容は、舞台脚本からシナリオへの変更、女優の登用、リアリズムの追求、活動弁士の廃止、お囃子鳴物の廃止、字幕の使用、場面転換やスポークンスタイルの採用など。


https://www.titech.ac.jp/about/overview/history.html
 この革新性については、飯島正(いいじま ただし)が、詳しく述べています。ここでは、純映画劇が、後のフランスの純粋映画とは違っていたとの指摘に留めます。フランスの場合は、視覚イメージをとことん追求し、当時の概念として映画にとって不純なもの、字幕とか、物語をできる限り排除。ここに商業的意図は、原則として、ありません。これに対して、日本の純映画は、興行にかけるのが前提にあって、外国映画と同じ形式ということが肝(きも)でした。帰山教正は、『活動寫眞劇の創作と撮影法』(正光社、1917年)を著します。


国会図書館のデジタルアーカイブより
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1871654
 この本の主張が主張する日本映画の欠点は、次の3つに集約されます。

 1・無言劇としての欲求に不適合。
 2・タイトルを使用しない。
 3・撮影規定および技術上不注意なこと。

 そこで、帰山教正が自分の理想とするフィルムを撮影するために用いた言葉が「映畫」。活動写真に代わる言葉として、大々的に映画を用いたのは帰山教正が日本で初めてとされています。それまで、映画は投射された幻燈を指し、活動写真と同義語ではありませんでした。

 その理論に基づき、1918年制作、1919年公開された『生の輝き』と『深山の乙女』の撮影技師として、柴田勝の旧名である大森勝の名前がクレジットされています。

 もっとも、このように評する論者もいました。

 「(略)帰山教正はインテリでアメリカの映画作法の本の翻訳などをやって理論的には当時の最先端を行っていたが、監督としての実地の技術は必ずしもともなわず、作品の出来としてはあまりたいしたものではなかったと言われる。この帰山の行動に刺激されて映画界にもようやく純映画劇待望の気運はたかまったが、既成の映画人のなかでこれに応えて最初に純映画劇の試みにのり出したのがカメラマン出身の枝正義郎であった。前記の帰山教正の二作品は声色弁士の反対などによって一年ほどオクラになり、一九一九年九月にやっと公開されたが、翌十月には枝正義郎監督の第一作『哀の曲』が出た。そして作品的には、さすがプロのカメラマンとしての技術をもっていただけに、アマチュアの映画青年だった帰山の作品よりもしっかりしていて、こちらのほうが好評であった。すなわち、日本映画において最初の純映画劇に成功したのは枝正義郎であると言えるのである」。

 「声色弁士」こと活動弁士は、当時の世界を見渡しても日本映画界独特の職業で、その存在を揺るがしかねない純映画運動に反対する声もきわめて大きなものだったようです。もう少し時代は降りますが、無声映画からトーキー映画に移る過程で、われらが凹天も、彼独特のデフォルメされた絵で、時代の趨勢に抗することもできず、職を失う活動弁士やオーケストラの様子を描いています。

  一番座からは、以上です。


ふたたび、裏座の宮国です。
最後の方にふれられていましたが、無声映画とトーキーは、宮古では戦後も見られていたようです。これは聞いた話ですが、市内では、個人でも宗教関連ルートだと本土からフィルムを借りることができたようで、よく映写会が野外で行われたそうです。

また今はなき文化センターの前身である琉米文化会館では、巡回映画会という名前で映画が見られたそうです。

さて、映画館といえば、宮古島は復活をとげた「シネマ・パニック」がひとつだけですが、わたしたちが子どもの頃(1970年代)は、映画館が思い出しただけでも3館ありました。国映館、琉映館、まいなみ、と誰もが呼んでいたと思います。

ネットで調べてみると、まいなみ劇場って、正式名称があって、宮古沖映館だったのですね!びっくりした。そして、前身は菊水館なんですね・・・。

『平良市史 第一巻 通史編Ⅱ 戦後編』(平良市史編さん委員会、1981年)に掲載された宮古島の映画館に関する記述には、<1951年8月から日本映画が正式に輸入されるようになったのを機に、伊波幸夫(いは ゆきお)は菊水館(木造露天)建て映画興行をはじめた(略)その3年後、伊波幸夫は沖映館(コンクリート)建設した>

経営主の伊波幸夫氏は、後に13代平良市長に。

宮古琉映館は前身は『宮古平和館』。真栄城徳松も同じように7・8代市長です。実業家が市長になるという宮古的なルートです。最近は、伊志嶺市長、下地市長、と医者や県職員など変わってきていますが・・・。


ちなみに、宮古の戦後の変遷を熱く書いている雑誌が宮古にはありました。昭和61年創刊の『月間 みやこ時評』です。新聞で話題になったことを掘り下げて書いています。創刊号は、見ての通り、緊急レポートで迫る平良市市長選を取り上げています。




そして、発刊にあたっての言葉を改めて読んでいると、宮古の歴史へのオマージュがまんべんなく散りばめられていて、個人的には胸がワクワクするのでした。

どの記事を読んでも、凹天の時代と同じように、個性的な人々が宮古を盛り上げていたことがわかります。2019年の眼で、1986年を眺めると、現在、宮古が直面しているようなこと(良いことも悪いことも)にはきちんと布石が敷かれていたことがわかります。

凹天達が映画や漫画、風刺画に情熱を燃やしていたころから「ゴジラ」が生まれる土壌ができていったように、宮古も道半ばなのかもしれません。
宮古の歴史は、民衆の歴史だと考えると、事件背景や心温まる細かな取材記事までも宝物のような気がしています。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

枝正義郎(えだまさ よしろう)1888年~1944年
映画監督、撮影技師。広島県佐伯郡玖島村(現・廿日市市玖島)生まれ。1908年、日本で最初に映画の興行に着手したといわれる吉澤商店に入り、目黒行人坂撮影所で千葉吉蔵に師事、シゴキ抜かれ現像と撮影技術を学ぶ。その後、天活(天然色活動寫眞株式會社)に入り、撮影技師、監督となる。ここでは澤村四郎五郎、市川莚十郎の旧劇映画を撮影。天活の技術部長となった枝正は、安易に量産されるようになった映画界の風潮を嫌い、また国産でも外国映画に負けない良質な映画を製作しようと様々な技術開発を進める。1917年に撮った連続活劇『西遊記』は、長尺の2000~3000フィートの作品で、四郎五郎の孫悟空が雲に乗って飛ぶところを移動撮影でとらえたりする工夫がこらされ、枝正の創意が示されていた。カメラ技巧には早くから一見識を持ち、枝正の撮影した作品は、他社作品に比べ遥かに場面転換が多く、他にも大写し、絞りこみなどを各作品に多用、また現場焼付も流麗に仕上げられ、トリックの名手として世に知られた。またこの頃、当時おもちゃ工場で働いていた円谷英二と偶然、飛鳥山の花見の席で出会う。日本映画の底上げをしようと考えていた枝正にとって現行のスタッフでは物足らず、日本ではまだ珍しい飛行機の知識を持ち、玩具で新しいアイデアですぐに成功する円谷は、枝正にとって魅力があった。1918年、天活日暮里で旧劇撮影の傍ら、製作・脚本・演出・撮影もすべて枝正の手によって行われた監督第1作『哀の曲』を撮る。この映画は、海外にも通用するような作品を目指して製作された意欲的な恋愛劇として注目された。1921年、撮影技術研究のためアメリカに渡るが、帰国すると天活は国活に買収されていた。技師長となった枝正は、ここでも幻想的な時代劇『幽魂の焚く炎』を撮り野心作と高い評価を得た。1923年、関東大震災で国活も崩壊。翌年松竹下加茂に移り、これ以降は監督に専念。1927年、阪妻プロへ移り、ダイナミックな演出で阪妻の代表作となった『坂本竜馬』などを発表。翌年東亜キネマに監督部長として迎えられるが退社して独立。1934年、得意のトリック撮影を生かして自主制作を続けた。以降は大都映画技術部総務、大映多摩川撮影所庶務課長を歴任。1944年、結核のため死去。

円谷英二(つぶらや えいじ)1901年~1970年
映画監督、撮影技師、発明家、株式会社円谷特技プロダクション(現・円谷プロダクション)の初代社長。本名は、圓谷 英一(つむらや えいいち)。1901年、福島県岩瀬郡須賀川町(現・須賀川市)で誕生する。生家は大束屋(おおつかや)という糀業を営む商家だった。1908年、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。1911年、巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味をもつ。1914年、尋常小学校高等科に入学。1916年、尋常高等小学校8年生の課程を終える。同年、家族が大反対する中、操縦士を夢見て、玉井清太郎の紹介で、東京航空輸送社が8月に開校したばかりの日本飛行学校に第1期生として入学。入学金は、当時、新築の家が2軒建てられた600円したが、叔父の一郎が工面してくれた。1917年、日本飛行学校が帝都訪問飛行に失敗し、1機しか無い飛行機が墜落。教官・玉井清太郎の死も重なり、同校は活動停止。夢は破れ、退学。同年、東京・神田の電機学校(現・東京電機大学)に入学。この頃、学費の足しにと、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社の考案係嘱託となり、「自動スケート」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、玩具の考案で稼ぐ。1919年、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工達を引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工達が隣席の者達と喧嘩を始めた。年若い円谷がこれを仲裁したことで、喧嘩相手だった天然色活動写真株式会社の枝正義郎に認められ、映画界に入ることとなる。同社はこの年、国活(國際活映株式會社)に吸収合併される。同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影する。1920年、会社合併に伴い、国活巣鴨撮影所に入社。国活ではカメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て見事やり遂げ、一気にカメラマンに抜擢される。1921年、兵役に就き、1923年、除隊。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰して『延命院の傴僂男』を撮影。1927年、林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』でカメラマンを担当、林を何重にもオーバーラップさせる特撮手法を採り入れ、映画は大成功となった。1930年、荒木マサノと結婚、「円谷英二」と名乗る。1931年、渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平とともに撮影。ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。長男一が誕生。この頃、「アイリス・イン、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「フェイド・イン」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒を奢る日々だった。1932年、杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人らと日本カメラマン協会を結成する。犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍。同年、映画『キング・コング』日本公開。試写で同作を鑑賞した円谷はこの特撮に衝撃を受け、フィルムを独自に取り寄せ、一コマ一コマを分析し研究した。1934年、『浅太郎赤城颪』でスタアだった市川百々之助の顔に「ローキー照明(キーライト)」で影を作り、松竹時代も物議をかもしたその撮影手法を巡って日活の幹部と対立、同社を退社する。円谷はこの「ローキー照明」を好んだために、日活ではバスター・キートンに引っ掛けて「ロー・キートン」と呼ばれていた。1935年、アニメ作家政岡憲三と組み、人形アニメ映画『かぐや姫』を撮影。1936年、ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの指示で製作された日独合作映画『新しき土』で、日本で初めてスクリーン・プロセスの技術を使用。この映画のために来日した、山岳映画の巨匠として知られるアーノルド・ファンク監督を唸らせた。1937年、株式會社冩眞化学研究所、PCL映画製作所、東宝映画配給の3社と、円谷の所属するJOが合併し、「株式会社東宝」が設立される。1939年、陸軍航空本部の依頼があり、嘱託として埼玉県の熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画を演出兼任で撮影。『飛行理論』の空中撮影を、円谷は1人で操縦しながら撮影、アクロバット飛行も披露してみせ、陸軍を唸らせた。この空撮部分は円谷自身の編集によって、『飛行機は何故飛ぶか』『グライダー』にも活用された。また、『嗚呼南郷少佐』を監督した。1940年、『皇道日本』で撮影を担当。同年の『海軍爆撃隊』では、初めてミニチュアの飛行機による爆撃シーンを撮影、経歴上初めて「特殊撮影」のクレジットがついた。1941年、太平洋戦争突入。これにともない、東宝は本格的に軍の要請による戦争映画を中心とした戦意高揚映画を制作することとなる。俄然特撮の需要が高まり、円谷率いる特技課は以後、特撮が重要な役目を果たすこれら戦争映画全てを担当していく。同年、『上海の月』で、上海湾内を襲う台風の大がかりなミニチュア特撮を担当。その後も戦争中は、特撮物で大評判であった。同年、召集令状を受け、仙台連隊に入隊するも敗戦。1952年、日本独立後の公職追放解除を受ける。同じく公職追放を受けていた森岩雄が製作顧問として東宝に復帰したことで、再び円谷も本社に招かれ、『港へ来た男』の特殊技術を担当。これが、正式な作品契約としての東宝復帰作となる。5月、企画部に「クジラの怪物が東京を襲う」という映画企画を持ち込む。この年、東宝は1億6千万円かけて、砧撮影所を整備。総天然色時代に対応し、磁気録音機や常設のオープンセット、発電設備など、撮影設備・特撮機材を充実させる。また、「円谷特技研究所」の有川貞昌、富岡素敬、真野田陽一、樺島幸男らを正式に撮影所に迎え入れ、特撮スタッフの強化を図る。こうした中、満を持して戦記大作『太平洋の鷲』が企画される。この作品は、前年にハリウッド視察を行った森岩雄によって、「ピクトリアル・スケッチ」(壁に貼り付けた総覧的な絵コンテ)が導入された、初の特撮映画である。この映画に特技監督として招かれた円谷は、松竹大船と交わした「特殊技術部嘱託」を辞任してこれに当たり、その後長きに渡って名コンビを組むことになる監督の本多猪四郎とともにこの『太平洋の鷲』を作りあげた。この年、日本初の立体映画作品、『飛び出した日曜日』(村田武雄監督)、『私は狙われている』(田尻繁監督)で立体撮影を担当。また、企画部に「インド洋で大蛸が日本船を襲う」という映画のアイディアを持ち込む。田中友幸はこれが『ゴジラ』の草案の一つとなったとしている。1954年、田中友幸プロデューサーによって、『G作品』(ゴジラ)の企画が起こされ、これは日本初の本格的特撮怪獣映画『ゴジラ』となった。円谷は新たに特撮班を編成してこれに当たる。この『ゴジラ』から、飯塚定雄、井上泰幸、入江義夫、開米栄三らが特技課に加入。11月3日、満を持して製作された『ゴジラ』が公開され、空前の大ヒット。日劇ではつめかけた観客の列が何重にも取り囲み、田中友幸がチケットもぎを手伝うほどだった。円谷英二の名は再び脚光を浴び、同作は邦画初の全米公開作となり、その名は海外にも轟いた。当作で円谷は「日本映画技術賞」を受賞する。その後、『獣人雪男』『地球防衛軍』『大怪獣バラン』『宇宙大戦争』『モスラ』『世界大戦争』『キングコング対ゴジラ』などの怪獣・SF映画において特撮技術を監督。これらは東宝のドル箱シリーズとなり、『宇宙大戦争』以後は円谷の特撮作品というだけで、製作中から海外の映画会社が契約を結びに来日したほどである。1956年、日本初の総天然色特撮作品『白夫人の妖恋』を担当。続いてこれも怪獣映画では日本初の総天然色作品『空の大怪獣ラドン』を担当する。円谷はチーフキャメラマン有川貞昌の意見もあり、これらの作品にイーストマン・カラーのフィルムを使用。以降これが定番フィルムとなる。1957、東宝は特撮部門の強化を目論み、製作部に円谷陣頭の特殊技術課を組み入れて再編成する。『地球防衛軍』で「日本映画技術賞」を受賞。1959年、6200万円の予算を投じた国産初のカラー・シネスコ用合成機「トーホー・バーサタイル・プロセス」を完成させ、『日本誕生』で日本初使用。「日本映画技術賞」を受賞し、映画の日に特別功労表彰される。1960年、当時プロデュース業に乗り出していたカーク・ダグラスが、「世界の円谷にぜひアニメの監督を」と、ディズニー社を後ろ盾に、アニメ映画制作の声をかける。東宝側の森岩雄は断ったものの、ダグラスにかねて熱望していたオックスベリー社の合成機器オプチカル・プリンターの提供まで含めて直接話を持ちかけられた円谷は、自宅の円谷特殊技術研究所のスタッフでは賄えないと、先んじてアニメ会社ピープロを設立していた鷺巣富雄に協力を依頼。合資会社として2人の頭文字をとった「TSプロダクション」の設立構想に発展するが、ダグラス側の提示した契約内容が折り合わず、頓挫。1963年、東宝との専属契約解除。同年、東宝の出資とフジテレビの後押しを受け、「株式会社円谷特技プロダクション」を設立、社長に就任。フジテレビの映画部にいた息子円谷皐が監査役に入り、「円谷特技研究所」時代の弟子である高野宏一、中野稔、佐川和夫、金城哲夫らをスタッフに招き、同プロの初仕事として、日活・石原プロ提携映画『太平洋ひとりぼっち』の嵐の特撮シーンを制作した。この年、フジテレビは円谷皐を通し、円谷特技プロに国産初のテレビ特撮シリーズ『WOO』の企画を持ち込む。最終的に局の事情でこの企画は頓挫したものの、円谷は同企画の特撮用に、アメリカ「オックスベリー社」に当時世界で2台しかなかった最新型のオプチカル・プリンター「シリーズ1200」を発注していた。慌てた皐はキャンセル打診したが、既に出荷後だった。このため、TBSの映画部にいた長男の円谷一に依頼し、この高額機材をTBSで引き受けてもらうこととした。また、東宝撮影所にオックスベリー社の最新式オプチカル・プリンター「シリーズ1900」が設置される。1966年、円谷特技プロが1年かけて映画並みの製作費と体制で製作したテレビ特撮番組『ウルトラQ』がTBSで放映開始。TBS側の意向で怪獣キャラクターを前面に押し出した番組作りもあり、同番組は大ヒット。この『ウルトラQ』は日本全国に一大「怪獣ブーム」を巻き起こすこととなった。続いて7月より、円谷特技プロのテレビ特撮番組第2弾『ウルトラマン』を放映開始。「変身する巨大ヒーロー」というキャラクターはさらに怪獣ブームを煽った。これらのヒットによって「円谷英二」の名はお茶の間の隅々にまで知れ渡ることとなり、特撮の神様とまで呼ばれるようになった。また、大阪万博の三菱未来館の映像担当が決まり、カナダへ外遊してモントリオール万国博覧会を視察。この外遊中には招かれてアメリカで『エド・サリヴァン・ショー』に出演、また、イギリスにも歴訪し、ジェリー・アンダーソンのAPフィルムズを訪れ、『サンダーバード』の特撮現場を見学。円谷は翌年に円谷特技プロで制作する『ウルトラセブン』『マイティジャック』のメカ描写で、「『サンダーバード』に追いつけ」として、同作をかなり意識した制作姿勢を見せている。またこの年の『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』で「ゴジラシリーズ」から身を引き、弟子の有川に特撮監督の座を譲った。1969年、『緯度0大作戦』『日本海大海戦』が最後の特撮劇場作品となる。監修としてクレジットされている『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』は、翌年の大阪万博の三菱未来館のサークロマ撮影のため、多忙で実際には関わっていない。このサークロマ撮影のため鳴門の渦潮をロケし、さらに特撮プールに自ら入り演出。これがたたって体調を崩すが撮影を強行し、一時入院。静岡県伊東市浮山の別荘へ居を移す。1970年、静岡県伊東市の浮山別荘にて妻マサノと静養中、気管支喘息の発作に伴う狭心症により死去。

小林喜三郎(こばやし きざぶろう)1880年~1961年
実業家、映画プロモーター、映画プロデューサー。1880年、茨城県に生まれる。1910年、映画会社・福宝堂の取締役営業部長に就任した。フランスの探偵映画『ジゴマ』を買いつけ、『探偵奇譚ジゴマ』の題で1911年、浅草公園六区の金龍館で公開、大ヒットなる。同館を経営する根岸興行部にパイプを築く。ジゴマの小林、腕の喜三郎の異名をとる。1912年、福宝堂が4社合併により日活となると、小林は同社の本社営業部に席を置いた。浅草公園六区に根岸興行部が経営する常盤館から、日活の新作の滞りを指摘されると、同年12月、常盤商会を設立、日暮里に撮影所を開業、独自の作品を製作・供給した。1914年、小林は福宝堂関西営業部長であったときからの盟友・山川吉太郎とともに天然色活動写真(天活)を設立、常盤商会はこれに吸収された。1914年、天活の配給・興行を行なう小林商会を設立、1915年には三葉興行を設立した。1917年、小林商会が、日本初のアニメーション映画のひとつ、幸内純一監督の『塙凹内名刀之巻』を発表したが、同年倒産した。1919年、D・W・グリフィス監督の超大作スペクタクル映画『イントレランス』(1916年)の日本での興行に打って出た。入場料を「10円」という高額に設定、大ヒットした。この興行で得た資金で、国際活映を同年に設立した。1920年に設立された帝国活動写真(松竹の前身の一社)の取締役に名を連ねる。国活は、1925年に倒産した。後年には、日活の経営などにも関与する。1945年、第二次世界大戦後は日活で監査役を務める。1961年、自宅で、脳動脈硬化症のため死去。

帰山教正(かえりやま  のりまさ)1893年~1964年
映画理論家、映画監督、脚本家。1893年、東京市麹町区麹町四番町(現・東京都千代田区麹町)に、父・信順と母・トキの長男として生まれる。父の信順は東京府立第一中学校の化学教師だった。東京高等師範学校附属小学校、同附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を経て、東京高等工業学校機械科に入学。在学中から錦輝館に足繁く通い、映画に耽溺する。吉沢商店が出資した映画雑誌『活動写真界』に、夏渓山人の筆名で映画批評や紹介を執筆するようになり、1913年には、同人誌『フィルム・レコード』(同年末に『キネマ・レコード』に改称)を刊行した。1917年、天活の東京本社輸入部へ入社、外国部員兼映写技師として働く。同年、映画理論書『活動写真劇の創作と撮影法』(正光社)を刊行、同書で舞台脚本からシナリオへの切り替え、女優の採用、リアリズムの追求、撮影技法の改革、字幕を使用することなどを掲げ、純映画劇運動を提唱。帰山は天活の上層部を説得して映画製作を行い、それらの理論を基に第1作『生の輝き』及び第2作『深山の乙女』を製作、翌1919年、同日公開された。俳優陣には新劇団「踏路社」の村田実、青山杉作、近藤伊与吉と芸術座の花柳はるみを使い、特に主演の花柳は日本の映画女優第一号となった。1920年公開の『白菊物語』から「映画藝術協會」を名乗り、日本初の芸術映画プロダクションとして十指に近い製作活動を行う。これに刺激され、松竹キネマ、大正活映などが、「新しい映画製作」を標榜して続々と世に出てくることとなった。その『白菊物語』は、イタリアのロンチ商会の依頼により同国への輸出を目的として製作され、吾妻光(後の大仏次郎夫人)を起用。1921年、松竹蒲田撮影所に招かれて『愛の骸』を監督するが、大阪で公開されたものの、東京では上映禁止となった。また、次に製作した『不滅の呪』は未完に終わった。その後も、1922年に桑野桃華プロダクションで『噫!祖国』を撮り、1923年には当時の配給提携先であった帝国キネマで『父よ何処へ』を製作する。一方、映画芸術協会では興行的不振が続き、折から関東大震災も発生したため、1924年公開の『自然は裁く』を最後に製作活動を停止した。1926年の『少年鼓手』が最後の監督作品となり、その後作品を発表する機会は失われた。残した作品はすべてサイレント映画だった。映画理論家としての活動はその後も継続し、映画雑誌『国際映画新聞』(1927年~1940年)に執筆参加している。1918年と『寂しき人々』を撮ったが、には『映画の性的魅惑』を上梓、映画が表現するエロティシズムにフォーカスした学術的研究で、先駆的な書物である。戦後も、映画の技術的側面に特化した執筆を続けた。1964年、自宅で心臓衰弱のため死去。

伊波幸夫(いは ゆきお)1928年〜2013年
政治家。宮古島市(旧平良市)西里出身。台中州立二中卒。1961年平良市議初当選し、81年まで連続5期20年務める。72~77年まで同市議会議長。82年平良市長選に出馬し初当選。1期務める。市長在任中、「スポーツアイランド宮古島」の足掛かりとなる「スポーツアイランド構想」を策定。2000年春の叙勲で勲四等旭日小綬章(地方自治功労)を受章した。観光功労が認められた。同年、従五位の叙勲。
【2020/09/09 現在】



  


Posted by atalas at 20:05Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2019年07月19日

第15回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その3」



まずは、毎度おなじみ。裏座から宮国でございます。
今回も、柴田勝(しばた まさる)について、続けます。

前回の繰り返しになりますが、柴田勝は、凹天が商業アニメーション映画制作を支えた時期の撮影技師のひとりでした。
柴田勝が、筆マメだったおかげで、アニメ黎明期と言われる当時の様子がよく分かります。


前回、高村光太郎(たかむら こうたろう)、智恵子(ちえこ)や凹天と最初の妻・たま子などカップルを取り上げました。世相は、凹天のようなイケイケ男子(ふ、ふるい・・・)やら、芸術青年がいろんな表現がしていたのですね・・・。

柴田勝は、1897年に生まれ、1991年に亡くなっています。
1897年は、宮古では、三間切を廃止して、宮古一間切一郡となった頃です。その6年後の1902年には寄留民、いわゆる移住者の人口が記録されています。106人、35戸。意外と少ない、と思ったのは私だけでしょうか。

同年、宮古・八重山には徴兵令が施行されます。
1903年は、人頭税廃止。1904年には、日露戦争が始まります。島の人は、人頭税がなくなった代わりに、徴兵令を引き受けたのかもしれません。

日本では、徴兵令は1873年に公布。日本から遅れること、約30年でした。

亡くなった1991年は、第五回柳田國男(やなぎだ くにお)ゆかりサミットが宮古で開催されたのは、なんとなく不思議なご縁を感じます。

 こんにちは。一番座から片岡慎泰です。

 さて、ここから柴田勝の実人生について、もう少し詳しく述べておきます。

 柴田勝の父親は、当時の駒形劇場、現在の「駒形どぜう」浅草本店の横通りにあった蓬莱座という小劇場の中茶屋を営んでいました。

 柴田勝が15歳の時には、淺草寿町に住んでいたので、100mほどの近さ。半ば手伝い、半ば遊びで蓬莱座に毎日通っていました。

 蓬莱座は、毎月歌舞伎を興行していました。そこで、はまったのが狂言の『熊谷陣屋(くまがいじんや)』。後年もこの演目が上演される際には、ずっと見続けたと記しています。近くにあった淺草六区にも毎日のように通っていました。






 食べ物で好きだったのは『かめチャブ』の牛めし。ここはサトーハチローの贔屓の店でもありました。ところで、淺草六区に通うことは、悪い遊びを覚えることでもあります。われらが凹天も、ここでの風俗を何度も描いています。

 父親は、柴田勝がそちらの方向に進むことを心配して、芝居の看板屋だった荒井卯之助(あらい うのすけ)に弟子入りさせます。そこの一人娘だった「おもんちゃん」と仲良しになります。

 後年、父親に尋ねると、この子と添い遂げさせる予定だったとのこと。1912年、明治天皇が崩御。蓬莱座にも遥拝所(ようはいじょ)が設けられます。遥拝所とは、本当は直接拝みたい神仏があるものの、諸事情で、そこまで行けない場合に、代わりに見立てて拝む場所のことです。

 琉球弧の言い方をすると、本来拝みたい御嶽の途中にあって、それをつなぐための御嶽に当たります。呼称としては、中取りとも。宮古にも遥拝所として下地神社があります。赤崎御嶽を拝むためと言われています。




  さて、その頃、映画界初めてのヒーローが登場します。その名は尾上松之助(おのうえ まつのすけ)二代目。佐藤忠男著『日本映画史Ⅰ』には、こう記されています。

 「最初のスーパースターは尾上松之助だった。1909年(明治42年)から1926年(大正15年)までに彼は1000本以上の映画に主演している。(略)当時、日本で演劇といえば歌舞伎であったから、草分け時代の映画人が劇映画を作ろうとするとき、歌舞伎をそのままフィルムにおさめようと考えるのは自然なことだった。(略)映画は最初、こうして芝居のコピーだった。技術的に幼稚だったから安物のコピーだったと言ってよい。安物のコピーに飛びついたのはまず子どもだった。安物だからデリケートな心理描写などはコピーできなかったが、荒っぽい立廻りや大見得ならば幼稚な技術でも可能だった。子どもたちは彼に”目玉の松ちゃん”の愛称を与え、彼を日本一強い男だと思った」。

 ちなみに、二代目という記録は、尾上松之助の自伝に基づいているのですが、襲名披露の記録から、いわゆる歌舞伎役者というより、実際には、ドサ回りの旅役者だったというのが、本当のようです。





 しかし、柴田勝は尾上松之助が好きではありませんでした。幼い頃から芝居を観る眼が養われていたからでしょうか。尾上松之助は、先ほど引用した『日本映画史Ⅰ』の記述からも感じられますが、知識人や大人に不人気だったとの記録も残っています。例えば、谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)は、次のように述べています。「全くあの松之助の写真を見ては、日本人の劇、日本人の顔が悉く醜悪なものに思われ、あれを面白がつて見物する日本人の頭脳や趣味が疑はれて、日本人でありながら日本と云ふ国がイヤになつた」。

 ここでは、尾上松之助の存在が、『児雷也』(1914年)など忍者物というジャンルを作り出し、トリックなど映像技術の進歩に大いに貢献したこと、彼の存在感が後年『ゴジラ』(1954年)など日本を代表する怪獣物を生んだことだけは、特筆しておきたいと思います。

 柴田勝は、尾上松之助一色になった淺草六区からも自然と足が遠のいた1912年に、芝居絵師の鳥居清忠(とりい きよただ)に弟子入りします。しかし、職人修行の辛さや長さに音を上げ半年で辞めます。

 その後、袋物屋、三越造花部の家を転々。そして、1915年淺草御國座で観た天活所属の井上正夫(いのうえ まさお)が中心になって演じた連鎖劇に魅了されて、前年設立された天活に入ろうと決心します。面接に向かうと、ちょうど軍隊に入営する人がいるからという理由で一発合格。柴田勝は、渋谷の次兄のところに住み始めます。

 その作品は、現時点での調査では分かりませんが、『塔上の秘密』、『地獄谷』、『不如帰』、『女かがみ』、『義理のしがらみ』、『白菊表紙』、『小夜嵐』、『こがらし』のいずれかです。

  連鎖劇について、興味深い視点から述べた論文がいくつかありますが、私自身としては、今後の展開を期待したいところです。というのも、フィルムが未発見。ここでは、井上正夫と柴田勝の記述を引用をしておきます。




 井上正夫の記述。「『連鎖劇』といつても、今の若い方々の中には知らない人も多いことゝ思ひますが、大正の初めから中期にかけて、大變な人氣を湧き立てたものです。要するに、舞臺劇の間々に映畫を挟んで見せるので、舞臺では充分に效果の出し得ない亂闘の場面だとか、追つ駈けの場面だとかを、初日前にロケーションに行つて撮影して來るのです。前の場面が終ると、舞臺の電氣がパッと消えて、活動寫眞が映るといふわけです。役者はカーテンの裏が降りて來る。場内の電氣がパッと消えて活動寫眞が映るといふわけです。役者はカーテンの裏か舞臺の袖にかくれてゐて、映畫に合せて臺詞だけ喋るのです。もつとも、その頃はまだ映畫などといふ言葉が出來る前で、専ら活動寫眞といつてゐました。そして活動寫眞の場面が濟むと又カーテンが上り、パッと場内の電氣が明るくなつて、次の實演の場面に變るのです」。

 柴田勝の記述。「連鎖劇というのは、一つの劇の中に映画と実演とを適宜に組み合わせて場面の変化を求めるつまり舞台で現わし得ない場面、たとえば自動車の追跡とか、飛行機の飛んでいるとか、水中の格闘とかの場面をフイルムに撮影して実演の舞台に接続する新しい演出法と認める価値がある。また舞台劇に於ける長時間の幕間という不愉快を感ずることもなく劇がスムーズに進行するという特徴がある」。

 ある程度、年配の方なら、柴田勝のこちらの記述の方が、イメージが湧きやすいかもしれません。「明治三十七年(1904)日露戦争のとき東京の真砂座で実演のあいだに活動写真を見せた、これが連鎖劇の最初で、一時中断していたが、昭和五十四年十一月、市川猿之助により、新形式の連鎖劇を池袋サンシャイン劇場で復活した、これで連鎖劇という忘れさられていた名称が、夢物語では無くなった(略)」。ここでの作品ではありませんが、YouTubeで、平成に蘇った連鎖劇を観ることができます。





 連鎖劇は、1904年中洲眞砂座で上演された『征露の皇軍』という劇中で、敵艦に魚雷を発射し、それが命中して撃沈するところを映画にしたのが最初。井上正夫は、その時、大部屋にいた劇役者のひとりでした。中洲のあった場所は、井上正夫著『化け損ねた狸』(右文社、1947年)から引用しておきます。「中洲は隅田川が新大橋の下流で二股に分れ、日本橋區側に掘割りが流れてゐる。それが永代橋の上流箱崎の河岸で又隅田川に合流してゐますが、そのあいだの三角州の名稱です。眞砂座はそのほゞ中央にあつた劇場で、觀客は千人ほども収容できるかと思われる、さして大きくもない小屋だつたのです」。

 宮古ファンとしては、「征露」という言葉に思わず反応してしまいたくなります。「遅かりし1時間」!

 なお、私の選択した第二外国語はロシア語ですので誤解なきよう、今回の一番座を終えたいと。







裏座の宮国です。はて?連鎖劇とはなんだろう・・・と思っていると、ある本で見つけました。林芙美子(はやし ふみこ)の新版、放浪記での記述です。

「『ひろちゃん』干物屋の売り子で 、十三の少年だけれど 、彼の理想は 、一人前の坑夫になりたい事だった 。酒が呑めて 、ツルハシを一寸高く振りかざせば人が驚くし 、町の連鎖劇は無料でみられるし 、月の出た遠賀川のほとりを 、私はこのひろちゃんたちの話を聞きながら帰ったものだった」。

当時の北九州は、炭鉱町。林芙美子は、娘時代を過ごした時期をさまざまに描写しています。彼女は、栗(あわ)おこし工場に勤めていましたが、一ヶ月二十三銭という給金でした。
一方、宮古では、1903年は人頭税が廃止され、宮古上布は自由に織ることができることになった頃でした。総生産量は3741反で16,362円。主要な現金収入となりました。内職の域を出ないがらも、子弟の進学資金になった、と『みやこの歴史 第一巻』(宮古島市教育委員会、2012年)には書いてあります。

林芙美子の娘時代は困窮の描写ばかりですが、宮古は、人頭税が廃止された時点で、女性が主たる働き手になっていく歴史が始まったとも言えます。

当時、宮古上布は、砂糖、鰹節と三大重要物産でした。十五年後の1918年には、一反の価格は、10円〜13円が300円以上に達したこともあります。ですが、1942年をピークに減反の一途をたどります。

東京では、映画と演劇が一体になったような新しい潮流が生まれていくなか、宮古は産業の胎動が始まったとも言えます。島と本土は、中身は違いますが、女性たちの生き方が多様になってきた分かれ目のように感じます。

高村光太郎の妻、智恵子のように、実家が傾き、心が壊れてしまいました。凹天の妻のたま子も同じようでした。その頃、「私にはふる里がない」と書いた作家の林芙美子は炭鉱町で日々のお金を稼ぐ毎日。宮古の女性は、宮古上布を織り、産業の中心とさせます。

その間、明治時代の終わり頃から、大正時代、昭和時代と時代は流れていきますが、欧米のやり方を取り入れ、近代化に向かったといえます。特に大正時代は、東京駅が完成し、そのまわりも近代的なビルディングが登場しましたサラリーマン時代の幕開けとなり、昭和、平成、令和と続く大衆的な文化の担い手に続きます。女性の社会進出としては、職業が多種多様になったと言えます。たとえば、記者や医者、バスガール、デパート店員。

今では当たり前の職業が始まった頃だとも言えます。人頭税廃止から120年近くたって、宮古上布の売上で学校に行けた宮古の男性だけでなく、宮古の女性も本土で学んだり、仕事ができるようになったといえます。

凹天のおかげで、宮古の女性の環境が猛スピードで変わってきたことを体感する回になりました。たんでぃがーたんでぃ。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

荒井卯之助(あらい うのすけ)
芝居看板屋。詳細不詳。鋭意調査中。

鳥居清忠(とりい きよただ)
芝居絵師。詳細不詳。鋭意調査中。

尾上松之助二代目(おのうえ まつのすけ)1875年~1926年
役者、映画俳優、映画監督。本名は中村鶴三(なかむら つるぞう)。1875年、岡山県岡山市西中島町70番地(現・岡山市中区西中島町)に、父・幾三郎、母・花の3男1女の次男として生まれる。岡山環翠小学校高等科(現・岡山市立旭東小学校)卒。父は岡山池田藩の二十一俵三人扶持の下級武士だったが、明治維新後は遊郭地の西中島町で貸座敷業を営んでいた。その影響で幼いころから遊芸を親しむようになる。家の近くには旭座という芝居小屋があり、そこに上方歌舞伎の大立者・二代目尾上多見蔵が一座を組織していたが、実家の商売が商売だけに一座と懇意だった縁で多見蔵に請われ、5歳の時に『菅原伝授手習鑑』の菅秀才役で初舞台を踏む。この時にある人の周旋で尾上多雀(多見雀・多若の説もある)という名をつけられた。母はこの初舞台を非常に喜び、抱えの芸娼妓に三味線と踊りを教えに来ていた山村イチに遊芸を仕込んでもらう。これがきっかけで9歳頃から子供芝居に出演。役者になることを快く思わなかった父によって、市内上之町の呉服屋に奉公させられる。しかし、どうしても役者になりたくて、父に頼んで子供芝居に出演するとこれが好評で、芝居打ち上げの後に家出をし、神戸の知り合いを頼って弁天座の浅尾與作一座に。各地を巡業。一座も転々と。1895年には、博多・明治座で五代目實川正若・嵐若橘一座に出演、その間に弟を大阪の知人の許へ奉公へ。博多打ち上げ後、下関で徴兵検査。それから間もなくの4月に下関条約が結ばれるとともに芝居の人気も取り戻し、大阪市西区松島に居を構えて巡業を続けた。1899年、神戸・朝日座の主任となり、同年4月1日からは同座で中村駒之助と一座する。1904年、三代目市川荒五郎から名題昇進の免状を貰い、二代目尾上松之助を襲名。襲名披露は神戸・相生座で市川蝦十郎らと一座して行う。同年、大阪九條の繁栄座に出演中、母と舞台を観ていた牧野省三に招かれ、彼の経営する千本座に出勤する。1909年、横田商會の横田永之助から活動写真を撮らないかという話がきて、牧野と相談の上、話がまとまる。牧野はこの前年に『本能寺合戦』など6本の活動写真を横田の依頼で撮り、1本30円では儲けもないと、一旦製作を停止。そこへ松之助の起用が決まり、製作再開となった。松之助の主演第1作『碁盤忠信 源氏礎』は、千本座裏の大超寺境内で撮影された。続けて『木村長門守』『石山軍記』の2本を撮り、後者では楠木正具に扮した松之助が櫓の上で御文章を読み上げながら敵の軍勢を睨みつけて、大きな目玉をギョロリとむいて見せた。観客は「よう、目玉!」「目玉の松っちゃん!」と掛け声をかけ、それ以来「目玉の松ちゃん」の愛称で親しまれるようになった。こうして松之助は牧野と共に横田商會の重要な一員となった。1921年に松之助は牧野の後任として日活大将軍撮影所長に就任。松之助映画は、歌舞伎・講談の英雄豪傑を舞台そのままに演じ、殺陣は歌舞伎を踏襲したり、女役は女形が演じるなど、古風な製作を行っていたが、女優を起用したリアルな殺陣による革新的な時代劇映画に押され始め、人気も下り坂となっていた。1924年、池田富保監督の『渡し守と武士』では松之助映画で初めて女優を登用し、後に大衆小説の映画化にも乗り出している。1925年、主演1000本記念大作として製作した『荒木又右衛門』では、従来の歌舞伎調の立ちまわりを脱しリアルな殺陣を演じて大ヒットした。晩年は、学校や福祉事業に巨額の寄付を投じ、京都府へ1万3千5百円を寄付して、その資金で出世長屋と呼ばれる府営住宅を建設した。ほか京都市へ1万円、京都府小学資金へ1万円、海員救済会に5千円、赤十字社へ3千円、二商プール建設費5千円、その他合わせて約5万円の寄付を行った。1924年、これらの功績で藍綬褒章と赤十字有功章を受章。1926年、自宅で心臓病のため死去。

谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)1886年~1965年
小説家。現在の東京都中央区生まれ。一高、東大に進み、小山内薫らと第二次『新思潮』を創刊。『象』、『刺青』などの作品で永井荷風(ながい かふう)に認められ、文壇に登る。震災後関西に移住し、『卍』、『春琴抄』など、谷崎文学の頂点ともいえる作品を著す。耽美主義の代表者とされるが、実際には、作風や題材は変わり続けた。戦後は高血圧症が悪化、畢生の文業として取り組んだ『源氏物語』の現代語訳も中断を強いられた。しかし、晩年の谷崎は、『過酸化マンガン水の夢』を皮切りに、『鍵』、『瘋癲老人日記』といった傑作を発表。受賞多数。ノーベル文学賞の候補には、判明しているだけで1958年と1960年から1964年まで7回にわたって選出される。1965年、東京医科歯科大学附属病院に入院。腎不全に心不全を併発して死去。

井上正夫(いのうえ まさお)1881年~1950年
俳優、映画監督、書家。1881年、愛媛県下浮穴郡大南村(現・伊予郡砥部町大南)中通に父・春吉と母・タイの長男として生まれる。父の春吉は砥部焼仲買人で、砥部座という劇場の支配人でもあった。1891年、11歳の時に初めて村芝居に出演。尋常小学校卒業後、砥部焼の陶器店へ丁稚奉公させられるが、1895年に家出。翌1896年に大阪で働いていた時に道頓堀角座で成美団の芝居『百万円』を観て俳優を志す。1897年、松山市の新栄座に来演していた新演劇の敷島義団に入り、小坂勇二を名乗って初舞台を踏んだ。ついで矯風会に入り、品川進と改名。1898年には博多で酒井政俊一座に加わり井上正夫の名で舞台に立つ。その後幾つかの劇団を転々とするうちに高田実の知遇を得る。1904年に上京、真砂座の伊井蓉峰一座に加入し、幹部待遇となる。翌1905年、田口掬汀作『女夫波』の橋見秀夫役で人気を得、1906年には島崎藤村作『破戒』の井川丑松役に大抜擢。1910年、新しい演劇を目指して新派劇を離れ、有樂座と契約して新時代劇協会を結成する。第1回公演はバーナード・ショー作の『馬盗坊』で、同協会には小堀誠、立花貞二郎、岩田祐吉、酒井米子らが参加した。旧来の演劇に抗して女優を起用するなど新機軸を打ち出すも、一般大衆の支持を得るにはいたらず、経済的には赤字となり、1911年に解散。解散後は新派に戻る。1915年、新派を再び離れ、天活と契約を結び、淺草みくに座の連鎖劇に出演する。その第1作『搭上の秘密』で初監督。1916年に天活創立者の小林喜三郎が同社を辞めて小林商會を設立すると、井上も同商会へ引き抜かれ、1917年に連鎖劇の『大尉の娘』『毒草』で監督・主演する。この2作では、クローズアップやカットバック、移動撮影、説明字幕の導入など、当時としては革新的な撮影技法を用い、映画の新時代の扉を開いて純映画劇運動を展開することとなる。同年、小林商會は倒産し、井上は再び新派に。以後は大幹部俳優となり、1919年に明治座で『酒中日記』を上演し、主人公・大河今蔵の演技で第1回国民文芸会賞を受賞。1920年、国活が設立されると、小林の懇請で月給4千円という高給で入社。その年に撮影所長の桝本清とともにアメリカ映画界の視察を行う。1921年に帰国第1作となる畑中蓼坡監督『寒椿』に主演するが、1922年、国活の没落で松竹蒲田撮影所に移籍。1923年、ヨーロッパに渡り、翌1924年(大正13年帰国。1925年、日本初のラジオドラマ『大尉の娘』に水谷八重子とともに出演。1926年、衣笠貞之助監督で新感覚派映画連盟製作の映画『狂つた一頁』に主演。同作は後に海外でも高い評価を受ける作品となった。その後も松竹で数本の映画に出演。1936年、新派と新劇の「中間演劇」を唱えて井上演劇道場を設立し、芸術的な大衆演劇を上演する一方、後進の育成に努める。久板栄二郎作『断層』、三好十郎作『彦六大いに笑ふ』、北条秀司『華やかな夜景』、八木隆一郎『熊の唄』といった戯曲を上演し、反ナチス劇の『プラーグの栗並木の下』の主演などで好評を博す。道場には岡田嘉子、山村聡、鈴木光枝、松本克平らが所属。新劇演出家の村山知義、杉本良吉らを起用した。1946年、井上演劇道場を解散し、村山知義、薄田研二らの第2次新協劇団に入団。1948年からは、また新派の舞台に立ち、水谷八重子と『金色夜叉』で共演。1950年、静養先の湯河原向島園で心臓麻痺のため死去。 

林芙美子(はやし ふみこ)1903年〜 1951年
小説家。門司市(現・北九州市門司区)生まれ。下関市説もある。出生届は叔父の家である現在の鹿児島市。行商の母と義理の父との生活で、北九州、長崎、佐世保、下関、東京と過ごした日々を文学として昇華させた。尾道市立学校(現・広島県立尾道東高等学校)に進学。その時期に文学的才能を開花させた。卒業直後の1922年、遊学中の恋人を頼って上京。下足番、女工、事務員、女給などで自活する。両親も上京して、露天商も手伝う。辻潤、平林たい子らとの交遊があり、代表作『放浪記』では、その時の様子が活写されている。1930年に改造社から出版された『放浪記』はベストセラーになり、流行作家になる。パリ、ロンドンに在住する作家、その後は、南京、満州、朝鮮、シンガポール、ジャワ、ボルネオなど戦線を取材する新聞特派員として、精力的に活動した。その後も作家として、講演活動も行ったが、自宅で心臓麻痺のため急逝。旧宅が新宿区立林芙美子記念館になっている。
【2020/09/09 現在】  


Posted by atalas at 23:19Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)

2019年06月21日

第14回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その2」



まずは、毎度おなじみ。裏座から宮国でございます。
東京は、ツツジから紫陽花に花の季節が移ったように思います。宮古は、梅雨晴れなのでしょうか?




皆さんは、宮古が亜熱帯なのか、熱帯なのか、ご存知でしょうか?
中学生の頃のことを思い出してくださいませ。

さて、近年、地球規模の温暖化の影響で、気候図がどんどん変わっているようです。

Wikiで、宮古島についてはこう書いてあります。

日本の沖縄県宮古島は1971 - 2000年の平年値では、1月の平均気温が17.7℃、2月が17.8℃とかろうじて温帯に含まれていたが、1981 - 2010年の平年値ではそれぞれ、18.0℃、18.3℃に上昇したため、定義上は熱帯雨林気候に変更されたことになる。


そうです。

あわわわ、私たち、亜熱帯から熱帯雨林に変わってしまったんですね・・・。どうでもいい、豆知識ですが。

なので、まさしく「熱帯植物園」になってしまったのです!ガーン!なんでかわからんけどさいずショックさいが(何故かとてもショックだよね)。とりばりています(呆然としています)。



http://www3.miyakojima.ed.jp/shokubutsuen/

子供の頃は「平良市熱帯植物園」でしたが、2005年の10月1日の「宮古島市」誕生とともに、「宮古島市熱帯植物園」になりました。
このページは必見です。あーこうして、市町村合併したのねぇ、とよく分かるようになっています。



https://www.city.miyakojima.lg.jp/syoukai/gappei.html

それって、それって、もうすでに、宮古の人たちが、現在のリゾート意識があったってことではないでしょうか?亜熱帯の地域が熱帯に振り切ることで、イメージ操作をしたとも言えます。

そして、そしてですよ!実際に亜熱帯から熱帯に変わっていった・・・。現実が追いついたのかもしれません。

宮古の人たちの未来を読む才覚は、恐るべし(なのか?)。先見の明があったのか、それともただの気まぐれか。冷静になって、ここでは問わないことにしましょう。なにせ昔の話ですから。

と、言いつつ、百年以上前のアニメ成立に関して、相変わらず、しこしこ調べています。今回も、そのディープさを御覧ください。

 こんにちは。一番座より片岡慎泰です。

 凹天が商業アニメーション映画制作を支えた時期の撮影技師だったとされる柴田勝の話を続けます。

 これまでは、『映畫評論』1934年7月号の凹天の回顧録「日本最初の漫畫映畫制作の思ひ出」に基づいて、『芋川椋三玄關番の卷』が、第1作目とされてきました。「漫畫映畫乃ち其頃の『凸坊の線畫帳』は日本で其前に誰もやつた話を訊かないところをみると私が一番最初だつたかもしれない」。「第一回作品『芋川椋三玄關番の卷』他二本はキネマ倶樂部で封切りされました」。

 このブログで取り上げた山口旦訓(やまぐち かつのり)が、渡辺泰(わたなべ やすし)と著した日本アニメーション映画研究の古典である『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)にも、この作品が第1作だと書かれています。

 しかし、アニメNEXT_100の中間報告にあるように、公開第1作目は凹天の『芋助猪狩』というのが現時点では定説となりました。




2016年のシネマ倶樂部跡はパチンコ屋さんを建設予定でした。


 凹天は、アニメーション映画を制作した時代をこう回顧しています。

 当時、東京パック社の広告部の人と天活の太田専務との間にアニメーション映画の話があり、広告部の人が凹天を推薦。

 凹天は太田専務と面会し、淺草の料亭で50円プラス歩合制で契約。しかし、凹天の記述によれば、外国雑誌がたった1冊月刊であるだけで、手探りのうちにスタートしたと。なお、この外国雑誌の記述に関しては、現在の研究では否定されています。

 「最初は神田錦輝館前に在る天活工場に通ひ撮影技師を前に立たせて黒板に白墨で一々描いたものです。手を動かす處は手の部分を移動させ、要らない部分を消してゆくと云ふ方法ですが、どうしても不便で完全にいかないので、助手を一名雇って貰ひ、背景を三種類位印刷して置き人間や動物は其上へブツつけに描くことにしました。そして人間の居る部分だけ背景をホワイトで消して行くといふ方法です。私は助手の分と二つ造り箱みたいな物で中に電燈をつけ机の上を畫の大さだけに硝子張りにし繒が電燈で引寫しになる様にしたのですが、半年もやつている間に電燈を下から直射していたので眼を害し、(略)約一年半で赤十字病院入社と同時に此仕事を止めざるを得なくなったのです」。




 神田錦輝館は、現在は神田税務署になっています。




 ここで、私としては、アニメNEXT_100の報告に関し、前回の封切り日の検証に続き、ひとつの補説を提示しておきたいと考えます。

 先述の凹天の回顧録には、天活、つまり天然色活動寫眞株式會社にいた専属の撮影技師と新たに雇った助手が出てきます。

 一般的には、最初の撮影技師が柴田勝と考えられています。『映画史研究』第3号「活動写真を主にした私の自叙伝(連載第一回)」で、柴田勝は、自ら記した撮影日記を基に、このように回顧しています。

 1917年4月7日~9日に『三人太郎』を妙義山で撮影。「妙義山から帰京したら私に下川凹天氏のマンガ映画『凹坊新画帖』を撮影しろと云われる。その時は黒板に凹天氏が絵を書いて一コマ写しで画を消したり書いたりするやり方で太陽の直射光線で撮影したからレンズの絞りの調節に苦労した。しかしこれが天活マンガの第一作である」。

 アニメーション映画の手法については、凹天と柴田勝の記述は一致しています。しかし、作品はさておき、凹天の第1作は1917年1月に劇場公開ですから、制作の時期が合いません。

 すでに、前々回のブロクで述べた山口旦訓が、指摘していますが、凹天のアニメーション最初の映画制作年は1916年です。前回絞りこんだ公開日が1917年1月3日から5日であることからも、制作が前年であることは明らかです。

 凹天の回顧録にも、ちょうど自分がアニメーション映画を辞めた時期に、幸内純一(こううち じゅんいち)、北山清太郎(きたやま せいたろう)が各自独時な方法で始めたとあります。

 北山清太郎の初作品『サルとカニの合戦』が1917年5月公開。幸内純一の初作品『塙凹内名刀之巻刀(なまくら刀)』は1917年6月公開。凹天と天活の契約時期は、凹天の記憶によれば、1年半。

 ということは、凹天と天活との間には、1916年のかなり早い時期に契約が交わされて、作品制作に取り掛かったのではないでしょうか。凹天の回想録の最後は次の言葉で締めくくられます。

 「『凸坊の線畫帳』!私には何ともいへない思ひ出です私の新婚生活はこの漫畫映畫製作と共に始められたからです」。最初の妻たま子との結婚が1916年という事実からも、それを裏付けていると考えられます。

 では、どうして、このような齟齬(そご)が生じたのでしょうか。その理由としては、私見によれば、次のような可能性が挙げられます。

 ①記憶違い、その1説。柴田勝の単なる記憶違い。
 ②記憶違い、その2説。柴田勝の意図的な時期ずらし。
 ③第三の男説。凹天の記述における撮影技師は、柴田勝と別人。

 そのうち、①は、以下の記述から退けられます。

 柴田勝の回顧録の前には、Yの署名で「本邦最古参の映画人のひとりである。その記憶のたしかさなこと、筆まめなことはおどろくばかりで、特に大正初期から現代にいたる半世紀の間、休むことなくつけられてある日記は日本映画界の資料としても、風俗史の資料としても極めて貴重なものである」とあります。また、印刷ミスなどの可能性も、改めてチェックする必要があるのですが、ミスだとするとここでの考察そのものが成り立たないので、とりあえず、ここでは問わないということで。

 ということは、②か③か。それとも別の可能性があるのでしょうか。現時点では、分からないというのが正直なところかと。

 最初の数作は、太陽の直射光線で撮影したというところまでは一致していますが、凹天の記述は1934年、他方、柴田勝の回顧録は、凹天が亡くなった翌年の1974年。

  Yは「活動写真を主にした私の自叙伝(連載第一回)」について、「この『自叙伝』はその日記をもとに、氏自身が書き直されたものである。日記原文そのままの発表は行いたくないという氏の希望により、こういう形式のものになった」とあります。日記そのものが手に入れば、すべては白日の下にさらされますが、ここは、もう少し調査と考察の時間が欲しいところです。

 柴田勝の名誉に関わるようなことをここで書き連ねるのには、躊躇(ちゅうちょ)もありました。しかし、問題提起をしても、柴田勝の多くのすばらしい業績がなんら変わることはありません。それ故、このブログで述べることにしました。

 しかも、調査と時間が欲しいと書いたのには、理由があります。それは1973年、柴田勝が私家版として書いた小冊子『天活、国活の記録ー大正時代の映画会社』に、以下のような記述があるからです。

 大正五年、つまり1916年の記録として、「マンガ凸坊新画帖、作画下川凹天、岡部繁之撮影」。大正六年度マンガ映画作品、つまり1917年の記録として、「『芋川椋三宙返りの巻』作画下川凹天、撮影大森勝。黒板へ白墨で画を書いて行く方法で、光線は 太陽光線であった。その批評は、椋三君空中旅行と洒落込んで空中より墜落するという線画、中々和製としては上手なもんだが、線が時々太くなったり細くなったりするのが非常に目立って見える。まだまだ研究する余裕が多々ある。(キネマレコード六年六月号)其後、一枚一枚紙に書いて行く方法で撮影も台の上へカメラを乗せ、左右に電球を取つけてコマ写しすることになり、岡部繁之専任になった。『凸坊釣りの巻』『文展の巻』『お鍋と黒猫の巻』を撮影した」。

 岡部繁之(おかべ しげゆき)とは、天活の撮影部にいた撮影技師。大森勝とは、柴田勝の旧姓名。なお、この資料が、私の述べた文脈とは違った意味で貴重なのは、凹天作のアニメーション映画が合計で7作品という記録になっていることです。

〇『凸坊新畫帖 芋助猪狩の巻』撮影技師:岡部繁之か
〇『凸坊新畫帖 明暗の失敗』撮影技師:岡部繁之か
〇『芋川椋三 玄關番の卷』撮影技師:岡部繁之か
〇『芋川椋三 宙返りの巻』撮影技師:大森勝こと柴田勝
〇『凸坊新畫帖 釣りの巻』撮影技師:岡部繁之
〇『凸坊新畫帖 文展の巻』撮影技師:岡部繁之
〇『凸坊新畫帖 お鍋と黒猫の巻』撮影技師:岡部繁之

 なお、柴田勝は、1970年代から80年代にかけて、精力的に映画初期の回顧録を私家版として出しています。

 1986年3月29日付『讀賣新聞』には、それを支えた久米利一という人物の特集が組まれていることも、ここで記しておきます。印刷機用ゴムローラー製造会社に勤務しつつ、自宅兼印刷所で『文芸雑魚(ぶんげいざこ)』という小冊子を発行し続けました。ここから、柴田勝、そして初期の無声映画に関わった人びとに関する私家版が続々と出版されたのです。その成果を認められ、1985年には、第6回山路ふみ子文化財団特別賞を雑誌編集者として受賞。

 一番座からは以上です。


裏座の宮国です。

今回も熱量が高いので、何がなんだかの皆さんも多いことでしょう。私たちは(特に一番座担当の片岡さんが)探偵のように、ひとつずつ、資料を丁寧に読み合わせています。

大河ドラマ的に時代考証さながらです。

この柴田勝さんは、相当筆まめな方で、いろんなところにいろんなことを書いています。今で言えば、超ブロガー気質ですね。

おかげさまで、凹天に関しても、有用な証言がいくつかあります。凹天自体が、残したものも多くありますが、作品以外にも第三者がこうして見つめる目というのが必要だと思わざるを得ません。

そして、それは、何事に関しても同じかもしれませんね。

凹天がアニメ制作を始めたのは、最初の妻たま子との結婚した頃でした。すでに有名ではあったけど、漫画家として、風刺画家として身を立てるには、周りの人びとと比べて貧乏過ぎたのかもしれません。たま子の詳細はつかめていませんが、身なりや雰囲気を考えると、お金持ちのお嬢さんだったように思います。現在、結婚のきっかけになったこととして分かっていることは、凹天の処女作『ポンチ肖像』(磯部甲陽堂、1916年)にクレジットされている出版社名の妹である磯部たま子だったことだけです。

食い詰めの新進アーティストは、ハチャメチャで、それでも結婚したのですから。しかも漫画家のお嫁に来ることにプライドをもっていました。

実は、川崎市市民ミュージアムの凹天展に訪れたとき、私が一番衝撃的だったのは、ふたりの記念写真でした。4年間くらいにわたって、写真館で写真を撮っているのですが、どんどん、たま子の美貌は失われ、最後の写真は、目がうつろでした。

あくまで私の印象ですが、率直にたま子をかわいそうと感じたのでした。どんないめーじかというと、高村光太郎(たかむら こうたろう)の妻、智恵子です。1886年(明治19年)5月20日生まれですから、多分同世代人と言えるでしょう。




御本人は優れた洋画家でしたが、世間的には、光太郎の奥さん智恵子になってしまいます。心を患ったところも似ているような気がします。



http://www.city.nihonmatsu.lg.jp/page/page003220.html
現在、智恵子記念館として二本松で公開されています。一度は行ってみたい。

38歳の頃の智恵子に、関東大震災と実家の破産は耐え難いものだったのか、その後から、心を病み始めます。53歳で没した頃には、遺作紙絵千数百点が残されたそうです。

高村光太郎が書いた「智恵子の半生」という文章が青空文庫にあります。


https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46376_25633.html

その頃の芸術家の暮らしというのがなんとなく見えてきます。お時間のある方はぜひ。

智恵子が結婚してから死ぬまでの二十四年間の生活は愛と生活苦と芸術への精進と矛盾と、そうして闘病との間断なき一連続に過ぎなかった。

私は、凹天とたま子は、このような環境であったのではなかろうか、と感じいるところがあるのです。実は、先述したアニメーションの三大始祖と言われる北山清太郎は、凹天とも旧知の仲だったようですが、1912年(大正元年)9月に高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援したとも言われています。

みんなつながっているんですね・・・。

その当時、宮古に芸術家がいたとしたら、どんな風だっただろう、と思いをはせます。当時の宮古の文献を読むと、1917年は宮古電灯株式会社が設立している頃でした。その前年に宮古朝日新聞が創刊しました。芸術家は、いたのか、いないのか、そして凹天が宮古生まれ初の芸術家と呼んでいいのかどうか・・・新しい謎が出てきました。

【主な登場人物の簡単な略歴】

柴田勝(しばた まさる)1897年~1991年
撮影技師、映画監督。詳しくは、第13回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その1」

山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。2020年3月まで宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。詳しくは、第10回「凹天の最後の取材者 山口旦訓の巻」

渡辺泰(わたなべ やすし)1934年~2020年
アニメーション研究者。大阪市生まれ。高校1年生の時、学校の団体鑑賞でロードショーのディズニー長編アニメーション『白雪姫』を見て感動。以来、世界のアニメーションの歴史研究を開始。高校卒業後、毎日新聞大阪本社で36年間、新聞制作に従事。山口旦訓、プラネット映画資料図書館、フィルムコレクターの杉本五郎の協力を得て、『日本アニメーション映画史』(有文社、1977年)を上梓。ついで89年『劇場アニメ70年史』(共著、アニメージュ編集部編、徳間書店)を出版。以降、非常勤で大学アニメーション学部の「アニメーション概論」で世界のアニメーションの歴史を教える。98年3月から竹内オサム氏編集の『ビランジ』で「戦後劇場アニメ公開史」連載。また2010年3月より文生書院刊の「『キネマ旬報』昭和前期 復刻版」の総目次集に「日本で上映された外国アニメの歴史」連載。2014年、第18回文化庁メディア芸術祭功労章受章。特にディズニーを中心としたアニメーションの歴史を研究課題とする。2017年に、山口旦訓に絶縁の手紙を送る。近親者のみで葬儀が執り行われる。喪主は、長男の渡辺聡。

幸内純一(こううち じゅんいち)1886年~1970年
漫画家、アニメーション監督。岡山県生まれ。凹天、北山清太郎とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。岡山県での足跡は不明。両親と弟、姪と上京する。父の名は、幸内久太郎。荒畑寒村によれば、父の職業はかざり職人の親方。元々、熱心な仏教徒だったが、片山潜と知り合い、社会主義者となる。日本社会党の評議員にも選ばれている。最初は画家を目指しており、水彩画家の三宅克己(みやけ かつみ)、次いで太平洋画会の研究所で学ぶ。そこで、紹介で漫画雑誌『東京パック』(第一次)の同人北澤楽天の門下生として政治漫画を描くようになる。1912年、大杉栄と荒畑寒村が共同発行した思想文芸誌『近代思想』の巻頭挿絵を描く。凹天の処女作『ポンチ肖像』に岡本一平とともに序言を書いている。1917年、小林商會からアニメーション『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』を前川千帆と製作。これは、現存する最古の作品である。続いて、同年には『茶目坊 空気銃の巻』、『塙凹内 かっぱまつり』の2作品を発表するが、小林商會の経営難でアニメーション製作を断念。しかし、『活動之世界』に載った『塙凹内名刀之巻(なまくら刀)』についての評論は、これも本格的なアニメ評として日本最古とされる。1918年に小林商会が経営難で映画製作を断念。1918年、『東京毎夕新聞』に入社し、漫画家に戻る。その後、1923年に「スミカズ映画創作社」を設立すると、『人気の焦点に立てる後藤新平』(1924年スミカズ映画創作社)を皮切りに『ちょん切れ蛇』など10作品を発表。その時の弟子に、大藤信郎がいる。二足のわらじの時代をへて、最終的には政治漫画家として多数の作品を残した。凹天と最後に会ったのは、記録上では、前川千帆の葬式後、直会の時だった。老衰のため、自宅で死去。

北山清太郎(きたやま せいたろう)1888年~1945年
水彩画家、雑誌編集者、アニメーション監督。1888年、和歌山県和歌山区住吉町2番地(現・和歌山県和歌山市住吉町)に生まれる。父清兵衛、母かつ乃の次男として生まれ、長男はおらず、父の没後、家督を相続。下川凹天、幸内純一とならぶ「日本初のアニメーション作家」のひとり。大下藤次郎が1907年に起こした日本水彩画会に入会し、1911年、同会の大阪支部を自宅である大阪市南区大宝寺町中之丁151番地(現・同市中央区東心斎橋1丁目)に設立したことを発表する。同年、東京に移り、自らの雑誌『現代の洋画』を発刊するべく、「日本洋画協会」を設立。1912年、斎藤与里、岸田劉生、高村光太郎らが結成した美術家集団「フュウザン会」の設立に尽力、展覧会開催を支援した。経済的事情もあって事業化も目的として友人の斎藤五百枝の紹介により日活に接触し、1917年、日活向島撮影所へ入る。北山は日本活動冩写眞株式會社(日活)にて日本初のアニメーション映画に取り組み、当時、東京市麹町区麹町平河町(現・東京都千代田区平河町)の自宅で作画し、日活向島撮影所で撮影する、という体制をとった。第1作は『猿と蟹の合戦(サルとカニの合戦)』で、1917年に劇場公開。以降、短篇のアニメーション映画を量産するが、その体制は、作画に戸田早苗(山本善次郎)、嶺田弘、石川隆弘、橋口壽、山川国三、撮影に高城泰策、金井喜一郎という集団製作体制であった。1921年に日活を退社し、北山映画製作所を設立。同年、同様に日活を退社し牧野教育映画製作所を設立した牧野省三の教育映画にも協力した。1923年に起きた関東大震災で同製作所は壊滅、北山は大阪に移った。1945年大阪府泉北郡高石町北55番地(現・大阪府高石市)で、脳腫瘍により死去。

高村光太郎(たかむら こうたろう)1883年~1956年
詩人、歌人、彫刻家、画家。現在の東京都台東区生まれ。東京美術学校(現・東京藝術大学)卒。仏師・建築家で名高い光雲(こううん)の子。本名は、「みつたろう」と呼ぶ。彫刻を学び、ロダンの影響を受ける。1912年、駒込にアトリエを建てた。この年、岸田劉生らと結成した第1回ヒュウザン会展に油絵を出品。1914年に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。1916年、塑像『今井邦子像』制作(未完)。この頃、ブロンズ塑像『裸婦裸像』制作。1918年、ブロンズ塑像『手』制作。1926年、木彫『鯰』制作。1929年に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、後に統合失調症を発病した。1938年に智恵子と死別し、その後、1941年に詩集『智恵子抄』を出版した。智恵子の死後、真珠湾攻撃を賞賛し「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記した『記憶せよ、十二月八日』など、戦意高揚のための戦争協力詩を多く発表した。『歩くうた』など歌謡曲の作詞も。1945年の空襲によりアトリエとともに多くの彫刻やデッサンが焼失。同年、岩手県花巻町(現在の花巻市)の宮澤清六方に疎開(宮澤清六は宮澤賢治の弟で、その家は賢治の実家)。しかし、同年には宮澤家も空襲で被災し、辛うじて助かる。終戦直後に、花巻郊外の稗貫郡太田村山口(現・花巻市)に粗末な小屋を建てて移り住み、ここで7年間独居自炊の生活を送る。これは戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自省の念から出た行動であった。この小屋は現在も「高村山荘」として保存公開され、近隣には「高村記念館」がある。1950年、戦後に書かれた詩を収録した詩集『典型』を出版。1952年、青森県より十和田湖畔に建立する記念碑の作成を委嘱され、これを機に小屋を出て東京都中野区桃園町(現・東京都中野区中野三丁目)のアトリエに転居し、智恵子のことを残したい一念から記念碑の塑像2体を制作。この像は『乙女の像』として翌年完成。受賞多数。1956年、自宅アトリエにて肺結核のために死去。
【2020/09/09 現在】  


Posted by atalas at 14:36Comments(0)Ecce HECO.(エッケヘコ)