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2015年03月03日

第20回 「下地小学校発祥之地」

伊良部大橋の開通で2月は伊良部島の碑-いしぶみ-を特集してみましたが、先週の教育発祥の地シリーズを引き継いで、今回は「下地小学校発祥之地」です。
この碑が建てられているのは、与那覇集落の中ほどの県道191号線沿い。近年オープンしたレストランの敷地の外れに建てられています。以前はうっそうとした茂みの片隅で県道側を向いていましたが、造成によって90度西に向きを変えて脇道に沿って再設置されています。
第20回 「下地小学校発祥之地」
宮古連合区教育委員会が発行した「宮古教育誌」(昭和47年刊行)という本を見つけたので、下地小学校の沿革を簡単に調べてみました。
この本によると下地小学校は1886(明治19)年11月13日に、この場所(与那覇205番地)に創立されます。
1894(明治27)年には、来間島に分教場(分校)が開設され、後の来間小学校が設置されます。
1897(明治30)年に最初の移転が行われ、大道(与那覇185番地~現在の市営第二与那覇団地付近か?)へ学校が移ります。
第20回 「下地小学校発祥之地」その後、1899(明治32)年に川満分教室が開かれます。また、移転した本校も手狭にようで、仮分教場(与那覇33番地)を設置して学年別に運営されていたようです。
1905(明治38)年には現在の下地小学校の付近となる、洲鎌村竹集落に仮分教場が作られます。その後、1908(明治41)年には新校舎が完成し、川満分教室も統合して本校を移転します。
1932(昭和7)年、来間、新里とともにコンクリート製の校舎に生まれ変わる(当時はまだ新里は上野に分村していない)。
1936(昭和11)年創設50周年式典で二宮尊徳像が建立される。しかし、1943(昭和18)年には二宮像が戦時下の金属供出と思われる事態で回収されることになります(以前、個人的に消えた下地小の二宮像として、謎の解明に挑むも解明に至らずにいたので、この事実は青天の霹靂でした。写真は校庭の隅に残る二宮像の台座)。第20回 「下地小学校発祥之地」
1944(昭和19)年軍に学校が接収されたため、川満青年会館、与那覇青年会館、製糖工場を仮教室として分散して授業を行う。
1945(昭和20)年、空襲により校舎が全焼する。
1946(昭和21)年、米軍の天幕で仮校舎とし授業を行う。
1948(昭和23)年、上野が分村し新里校区も割譲される(一部の字が下地から新里へ転籍になる)。
1949(昭和24)年、ようやく校舎が復旧するも、児童数が多く手狭となり、村内各施設を仮教室として分散授業を行う。
等々。学校ひとつであっても様々な出来事が見え、興味が尽きませんが、碑のお話なので・・・。
そして1981(昭和56)年。創設95周年を記念して、学校発祥の地に記念碑を建立されました(碑裏面の文面)。
創立95周年記念建立
昭和56年11月
下地町教育委員会

【関連記事】
第15回 「上野村教育発祥之地」
第19回 「公教育発祥之地」(伊良部)


連載企画 「んなま to んきゃーん」
なにかを記念したり、祈念したり、顕彰したり、感謝したりしている記念碑(石碑)。宮古島の各地にはそうした碑が無数に建立されています。
それはかつて、その地でなにかがあったことを記憶し、未来へ語り継ぐために、先人の叡智とともに記録されたモノリス。
そんな物言わぬ碑を通して今と昔を結び、島の歴史を紐解くきっかけになればとの思いから生まれた、島の碑-いしぶみ-を巡る連載企画です。
※毎週火曜更新予定  [モリヤダイスケ]



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