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2024年03月22日

第二回 ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相(その2): 2名の犠牲者に言及したチャーチ艦長の報告


第一回では、これまで謎とされてきたイギリス船「カーリュー号」の宮古島訪問について見てきました。沖縄本島・宜名真沖に沈んだイギリス船「ベナレス号」の乗組員を捜索するべく奄美と沖縄に来航し、さらに琉球王府による乗組員救助へのお礼のため1873年11月に再度首里を訪れた「カーリュー号」のチャーチ艦長が、宮古島でのドイツ船(=ロベルトソン号)漂着についての情報提供を受け、ドイツ船の乗組員の捜索と(生存者がいた場合の)中国大陸への移送を依頼されて宮古島に来てみたところ、ロベルトソン号の乗組員は既に島を離れていた、というのが前回の概要でした。

今回は「カーリュー号」のチャーチ艦長の報告書をもとに、ロベルトソン号遭難における犠牲者について、これまでとは異なる説を紹介します。結論を先に言ってしまうと、実は島に上陸した後で、死者が出ていたのではないか、というものです。

ロベルトソン号の漂着(1873年7月)をめぐってはこれまで、ヘルンスハイム船長の日記や、救助された後の船長の申し立てに基づき、洋上で暴風雨に見舞われた際(つまり救出される前)に2名が命を落とした、とされてきました。他方で、島に上陸してからは、誰かが亡くなったという記述はないので、これまで「救助された船員はみんな元気で島を出発できた」と考えられてきました。

しかし、この「洋上で二名が死亡」という従来の説を覆す証拠が、ベルリンのドイツ連邦公文書館に保管された資料「太平山島の住民による、遭難したハンブルク船ロベルトソン号の乗組員の救助と、同島における記念の設立に関する件」(Rettung der Besatzung des verunglückten Hamburger Schiffes Robertson durch Einwohner der Insel Typinsan und die Errichtung eines Denkmals auf dieser Insel, 資料番号R 901/12867)から見つかりました。


この、ロベルトソン号遭難と「博愛記念碑」建立に関するドイツ側の一連の資料からは、ドイツ外務省がヘルンスハイム船長の報告に基づき、事件の概要について把握するとともに、宮古島の人々への謝礼の検討をしていく経緯などが記されています。その過程で外務省は、イギリス船「カーリュー号」が、後日宮古島に立ち寄ってドイツ船の捜索を行っていた事実を知り、その時の様子についてイギリス政府に問い合わせるのですが、これに対し駐独イギリス公使は、「カーリュー号」のチャーチ艦長が1873年11月の二度目の琉球訪問後に本国の海軍本部に宛てた報告書(1873年11月19日付け)を添付して、ドイツ政府に情報提供を行っています。その中に興味深い記述がありますので紹介します。

"At 2 p.m. the cutter returned on board, confirming the information that a ship had been wrecked there in July; she was a Tea-ship flying the German Colours, and had been dismasted and driven ashore on this coral-bound Coast. Seven European sailors, one woman and two Chinese had come ashore; the ships boat which they used was seen by Mr. Ogle. It was white, with a black top, but there was nothing to show what ship it was. It was stated that two of the Sailors died after landing, and that the survivors left in August in a Junk which had been given them … "

(日本語訳)「七月に船が一艘、そこに漂着したとの情報を確認し、小艇(=チャーチ艦長の部下のオーグルらを乗せたボート)が午後二時に本船(=カーリュー号)に戻って来た。この船はドイツの色の旗を掲げた、茶葉を運ぶ船で、マストを失って、サンゴ礁に囲まれたこの海岸に漂着した。7人のヨーロッパ人、1人の女性、そして2人の中国人が上陸した。彼らが用いたこの船のボート(=ロベルトソン号が島に上陸する際に用いた救命ボート)がオーグル氏によって確認された。それは白色で、舳が黒かったが、本船がどのような船であったかを示すものは何も残されていなかった。船乗りのうち2人が上陸後に亡くなったと、また生存者は8月に、彼らに供与されたジャンク船に乗って島を去ったと、人々は述べた。

どうやらチャーチ艦長自身は宮古島には上陸しておらず、部下の乗組員オーグルらを小船に乗せて島に派遣し調査させたようなのですが、オーグルは現地で様々な証言を集めています。宮国の役人からは、「洋上で2名が死亡し、8名が上陸した」と聞かされるのですが、上記の引用のように「10名が島に上陸したが、その後2名が死亡した」という証言も得ているのです。しかもこれは、宮古島の記録とも一致します。

実は、宮古島の『在番記』にもこう記されている(いた!)のです。

同(=同治)十二酉年六月十七日暎咭唎國ノローマニアニ國ノ船ヘ同國ノ者共男七人女一人広東人男二人都合十人乗合當島宮國村ノ浦ヘ漂着致破損乗込人数致陸下候ニ付成行為御届馬艦舩飛脚使取仕出長浜目差小禄仁屋若文子大宜味仁屋宰領ニテ差登致事

宮古島の人々がドイツを知らなかった(そもそもドイツという国自体、1871年にできたばかりです)ために会話に齟齬が生じたものと思いますが、「イギリス国のローマニアニ国」というのは、たぶん、イギリスの言葉(=英語)で言うところの「ジャーマニー」国、つまりGermany=ドイツと理解してよいか思います。そしてこの船が漂着されたとされる太陰暦の同治12年6月17日は、太陽暦の1873(明治6)年7月12日に相当します(なお、内地ではこの前年の1872[明治5]年12月3日を太陽暦の1873[明治]6年1月1日にして暦の切り替えを行いましたが、沖縄ではなお太陰暦が使用されていました)ので、ドイツ船の漂着と救助の時期が、船長ヘルンスハイムの日記の内容と一致します。ということで、この『在番記』の記述から、ジャーマニー国の船はロベルトソン号であり、その漂着の際には、ドイツ人男性7人、同女性1人、それに広東人の男性2人の「都合十人」が漂着し、この乗組員10人が陸に上がった(下りた)ことになり、オーグルの証言とも一致するわけです。

これまで、ロベルトソン号の漂着に関する情報は、主に船長ヘルンスハイムの日記に依拠して構成されてきましたが、イギリス船カーリュー号による調査の内容には客観性があり、かつ宮古島の『在番記』の記述とも一致することから、信頼に足るものだと思います。逆に船長の日記では、宮古島の人々の親切さを強調する傾向があり、また漂着や救助に関して全てを語っているとは言えない部分もあり、実は瀕死の重傷を負った状態で救助された船員2名が、島に上陸した後に亡くなった可能性は十分ありそうです。

次回もこの点に着目して、ロベルトソン号の乗組員が島で亡くなったという説を補強する材料を示していきたいと思います。  



2023年09月04日

第一回 ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相(その1): カーリュー号の秘密



お久しぶりです。2017年まで、ATALASブログで「続ロベルトソン号の秘密(続ロベ)」を連載していましたツジです。この度「続・続ロベルトソン号の秘密」という形でカムバックすることになりました。といっても、前身の「続ロベ」をご存じない方も多いと思いますので、2015年から2年間、24回にわたって連載したブログと、その続編となる今回のシリーズについて、まずは簡単に紹介したいと思います。

「続ロベ」とは


「続ロベ」は、ALATAS ネットワークの「ミャーク(宮古諸島)の伝統文化を紡ぐ地域教育プログラム」の一環として2015(平成27)年9月に開催された講座「ロベルトソン号の秘密」(仲宗根將二、辻朋季)の続編として生まれたもので、宮古島市平良に今も残る「ドイツ皇帝博愛記念碑」にまつわる様々な史実を紹介しています。特に、私の専門であるドイツ語の文献なども活用して、また最新の郷土史研究の成果なども参照して、1873(明治6)年のドイツ商船「ロベルトソン号」の漂着や救助、船長のその後、1876(明治9)年の「博愛記念碑」設置の経緯、1929(昭和4)年の「石碑の再発見」や1936(昭和11)年の「博愛記念碑建碑60周年」などについて詳しく見ていく、という企画でした。

今回、6年間の休止を経て、久々に連載を担当させていただくことになりました。休止期間中にも、ロベルトソン号に関する「新たな秘密」が色々とわかってきましたので、最新の研究成果もお伝えできれば、と思います。ということで「続・続ロベ」の最初のテーマは
「ロベルトソン号遭難から150年、改めて考える漂着の真相」
です。エドゥアルト・ヘルンスハイム船長の率いるスクーナー「R. J. Robertson」号が宮古に漂着したのは、今からちょうど150年前、1873年の7月のことです。そこでまず、この1873年のロベルトソン号の遭難と島民による乗組員の救助について、気になるポイントを2つ取り上げ、2回に分けて検証を行います。第1回のブログでは、イギリス船カーリュー号の動向について、また第2回ではロベルトソン号漂着時の乗組員の人数と上陸後に死者が出ていた可能性について、考えていきます。

「カーリュー号の秘密」


エドゥアルト・ヘルンスハイムを船長とするドイツ・ハンブルク籍のスクーナー、ロベルトソン号は、1872年に、中国からオーストラリアに茶葉を運んで売り、帰りに石炭を積んで香港でさばくという貿易を行っています。またその途中で彼は、太平洋の島々が未開拓の地域であることを知り、商機を見出していました。そして、二度目のオーストラリア行きをもくろんで茶葉を積んだロベルトソン号は、1873年7月9日に福州を出航するのですが、その直後に暴風雨に見舞われ、宮古島の宮国沖のリーフに座礁してしまいます。

これに関して、一部の文献などにおいて、イギリスの「カーリュー号」という船が当時付近を航行しており、ロベルトソン号を救助しようとした、と語られてきました。その根拠となったのが、『南島』第三輯(宮古特集号、1944年、台北で出版)に掲載された江崎悌三の論文「宮古島のドイツ商船遭難救助」です。ここで江崎は、ドイツの新聞記事を翻訳・引用する形で次のように述べています。
獨逸船の坐礁は又大ブリテン國軍艦カーリユウ號の司令官チヤーチ艦長の知るところとなり、坐礁者の生死を確め且つ大いに感謝すべきことには救援せんとして、一小艇に士官ブレナン、オーグル、ウエード等を兵士と共に乗せて遣したのであるが、その上陸には島前の暗礁の爲、危険なきを得なかつた。

* Deutscher Reichsanzeiger(『ドイツ帝国新聞』)1874年2月18日の記事(江崎訳)。『南島』6-7頁。

この箇所だけを読むと、確かにカーリュー号がロベルトソン号を救助しようとしていた(ものの、暗礁のせいで上陸できなかった?)ようにも見えます。しかしここで、素朴な疑問がいくつも湧き上がります。例えば、

  • 仮にカーリュー号が付近を航行していたとして、ロベルトソン号が操縦不能になるほどの大嵐の中で、自分の船(カーリュー号自身)は大丈夫だったのか?

  • 荒天でおそらく視界が非常に悪いと思われるなか、ロベルトソン号を発見できたのか。

  • 暴風雨のなか、小艇なんて出せるのか?そもそも、ロベルトソン号を救助しようとしにも、そんなことは不可能だったのではないか(二次被害により、カーリュー号の乗組員の生命にも危険が及ぶおそれあり)。

こんな感じで、荒れ狂う海上で、そもそもロベルトソン号が視界に入ったかも怪しく、かつカーリュー号自身も航行不能になる危険性もあり、まして小艇など出すのは論外なのではないか。それゆえ、このカーリュー号の関与については、当初から何か辻褄が合わず、すっきりしなかったテーマなのですが、その秘密は数年前に解けました。謎を解いて下さったのは、別のイギリス船の漂着について研究していた「沖縄水中文化遺産研究会」の先生方です。

先に結論から申し上げますと、ずばりカーリュー号の関与は「あった」ということになりますが、事情は少し複雑です。この点を、この研究会が編纂した著書『沖縄の水中文化遺産』(ボーダーインク、2014年)をもとに見ていきましょう。

水中文化遺産研究会は、沖縄本島北部、現在の国頭村宜名真にある「オランダ墓」(注:当時は、西洋の船の乗組員のお墓はみな「オランダ墓」と呼ばれていた)について調べる過程で、このお墓に埋葬されているのが、1872年に宜名真沖で沈没したイギリス船「ベナレス号」であることを突き止めます。さらに、ベナレス号の乗組員を救うため、1873年に奄美大島から沖縄へと南下しながら捜索を行っていたのが、イギリス海軍の「カーリュー号」だったというのです。

カーリュー号は、宜名真に着くと、ここでベナレス号が沈没したこと、また乗組員13名が死亡したこと、生存者5名は那覇に移されたことを知り、その後に那覇を訪れて生存者を収容し、上海に送り届けています。

さらにその後、カーリュー号は、ベナレス号の乗組員の救助への感謝を伝えるため、1873年11月に再度沖縄を訪問しています。この時、カーリュー号のチャーチ艦長は、琉球王府の役人から、同じ年(1873年)の夏に、宮古島に「喜邪阿麻根国船」(ジャーマニー国の船)つまりドイツ船が漂着したとの報告を現地から受けたが、その後どうなったかわからない、と伝えられます。そして、カーリュー号が中国への帰るついでに、宮古島に立ち寄って状況を確認してほしい、そしてもし生存者がいれば、中国大陸のどこかに送り届けてほしいと頼まれます。

これに応じる形で、チャーチ艦長は1873年の11月15日に宮古島を訪問しています。但し珊瑚礁に囲まれた宮古島は、大型の帆船の出入りが困難なため、カーリュー号自身は宮国沖に停泊し、一部の乗組員を小艇に乗せて島に上陸させたようです。その際、島の近くに暗礁があったので、上陸は危険を伴った、というのが、江崎が紹介した新聞記事の報道「一小艇に士官ブレナン、オーグル、ウエード(←誤植。実際はワダ)等を兵士と共に乗せて遣したのであるが、その上陸には島前の暗礁の爲、危険なきを得なかつた」ということになります。

というわけで、ロベルトソン号の漂着から遅れること4ヶ月、カーリュー号は実際に宮古島に寄港していたわけですが、既に「続ロベ」をお読みの皆さまはご存じの通り、ヘルンスハイム船長とドイツ人・中国人から成る乗組員一行は、宮古の在番により付与された船に乗って8月17日に宮古を出航しています。この情報を、カーリュー号の乗組員も、島の有力者に聞き取りをして入手し、既に島にドイツ人がいないことを確かめると、カーリュー号は当日のうちに宮古を出航し、そのまま上海に戻っていきます。

この点を踏まえて、再度新聞記事を読み直すと、カーリュー号の関与について、時期に大幅なずれはあるものの、記事内容は正しかったことがわかります。つまり

  • ドイツ船の坐礁は、イギリス軍艦カーリュー号の司令官チャーチ艦長の耳に(4ヶ月遅れで、また首里において)入った

  • 座礁した人の生死を確かめ、またありがたいことに救援(中国に移送)しようとした(が実際には生存者は島を旅立っていた)

  • 小艇に士官ブレナン、オーグル、ワダらを、兵士と共に乗せて島に遣わした

  • 但し、島の前にある暗礁のせいで、上陸には危険が伴った(危険なきを得なかった)

というわけです。

ちなみにカーリュー号の動向については、琉球王府の正式な記録である『球陽』や宮古島の『在番記』からも裏付けられます。まず、カーリュー号に宮古島への立ち寄りと外国船の捜索を依頼した経緯については、『球陽』が次のように述べています。
「英人に請ひて曰く、宮古島吏役の報称に拠れば、今般、喜邪阿麻根国の商船有りて、本島洋面に漂到し、礁を衝きて損破し、人皆上岸して活命す等の語国に到り、此れに拠る。今顧ふに、難人島に在ること有りや否や、未だ其の由を知らず等語ると。稟に拠れば、我等回国の時、必ず須く該島に転到し該難人を将て本船に搭駕して、一同帯回すべし。乞ふ、水梢二名を雇募して、本船に搭駕して之れが引導を為すを准せ等の情、此れに拠る。朝廷其の請ふ処を准し、其れをして二名を率領し、開洋して島に赴かしむ」。

ざっくり言えば、「ジャーマニー国の船」が宮古に漂着したって現地から連絡があったんだけど、その後の消息がよくわからないので、行って調べてくれませんか?うちのほうで、水先案内人を2人付けますので、という内容です。

で、カーリュー号が実際に宮古に来たことを示すのが、『在番記』の次の記述です。
同年(注:1873年)外國舩一隻宮国村ノ浦ヘ到着間モナク出帆ニ付形成御届ノ事、附右舩ヘ水先用琉人二人乗合当島ヘ召卸翌春罷登候事

琉球人の水先案内人が2人いた、というのがポイントで、この「外国船」がカーリュー号であることが裏付けられます。

ということで、ロベルトソン号の漂着に際しての、カーリュー号の関与についてのまとめ:

  • イギリス船カーリュー号は、確かにロベルトソン号の捜索のため、宮古島に来ていた。しかしその時期は1873年11月(ロ号座礁の4ヶ月後)だった。

  • カーリュー号が沖縄に来たきっかけは、前年に起きたイギリス船「ベナレス号(Benares)」の沈没だった。

  • ベナレス号は1872年10月、沖縄本島北部の宜名真沖で座礁。18人の乗組員のうち13名が死亡、生存者5名は救助され、那覇に送られた。

  • 遭難者捜索のため、イギリス海軍のカーリュー号(Curlew)が奄美~沖縄に来航(1872年12月~1月)。那覇でベナレス号の生存者を引き取り、1月23日に上海に到着。

  • 1873年11月、遭難者救助に対する謝意を述べ、琉球王府にお礼の品を贈るため、カーリュー号が那覇を再訪。その際にチャーチ艦長は王府高官から、宮古にドイツ船(=ロベルトソン号)が漂着したことを知らされ、その調査を依頼される(生存者がいた場合は中国に送り届けることも)。王府は水先案内人を二人、カーリュー号に乗せて同行させた。

  • 依頼を受けたカーリュー号は1873年11月15日に宮古に到着した。小艇に士官らを乗せて島に上陸させ、漂着船について聞き取りを行ったが、既にドイツ人が出航したとの情報を得ると、二人の水先案内人を下船させて島を離れ、上海に向かった。

これが、カーリュー号の真相でした。ロベルトソン号の漂着が、他のヨーロッパ船の漂着とも関係している、というのが興味深いですね。

次回は、カーリュー号のチャーチ艦長の報告書をもとに、ロベルトソン号の乗組員の死者数をめぐる謎について考えていきます。ドイツ人が残っていないことを知ると、さっさと宮古島をあとにしたチャーチ艦長ですが、興味深い報告をしていますので、これはまた次回。


参考文献:
南西諸島水中文化遺産研究会(編):『沖縄の水中文化遺産』、ボーダーインク、2014年。
球陽研究会(編):『球陽 読み下し編』、角川学芸出版、2011年。
平良市史編さん委員会(編):『平良市史』、第三巻資料編I(前近代)、1979年。
南島発行所(編):『南島』第三輯(宮古特集号)、台湾出版文化、1944年
  



2023年05月26日

第33回「下川凹天の父 下川貞文の巻その2」



 下川凹天を研究対象とし始めた頃、国会図書館に行く前にヤマト式のお墓を初めて拝む宮国さん。島を最初に訪れる客がいると、宮国さんが最初にすることは、漲水御嶽(はりみずうたき)をお参りすることでした。


 前半は、宮国さんのママ友である堀孝子(ほり たかこ)さんです。



約束守ってよ、優子


堀 孝子


優子、もうこの世にいないなんて…いまだに信じられない。


お互いの子どもが「パレット」に通っている時からの付き合いだった。時間の流れってこんなに早いなんて。私は長男が生まれてから自分の仕事を転々と変えてきたけど、なんだかんだ言って、優子といつも一緒にいた気がする。


「パレット」は、当時の石原都知事が新しく作った「認証保育園」で、夜20時21時まで預かってくれて働く私たちにはありがたかった。でも、できたばかりだったので、運営がなかなか上手くいっていなかった。保育士が大量に一度に離職してしまった時には、園全体がガタガタになったことも。一緒に園の運営側とよく戦ったよね。


子どもが小学校に上がってからは、学童を17時までにお迎えに行かなくてはならない決まりになって、働く私たちは誰もが困り果てた。すると、優子ん家を「第二学童」として提供してくれたよね。仕事で忙しいのにお母さんが交代で、子どもを迎えに行って、ご飯を作って食べさせ、お風呂に入れて、他のお母さんのお迎えを待って。懐かしさが胸にこみあげてくる。あの頃は男女関係なく、子どもはみんなでキャッキャ騒ぎながら一緒にお風呂に入っていたっけ。そして私たちは、「幼少期に一緒にお風呂に入っていると、大人になってから恋人関係になることはないんだってねー」とか、よもやま話をしながら時が過ぎていった。


優子のバーに行くようになったのはいつ頃だったかな。はっきり覚えていないけど、私が那須のホテルを立て直し始めた頃だと思う。その後、北海道のホテルの再建を経て大阪のアパレル企業の再建までだから、10年ぐらい通ったことになるのかも。


最初は必ず優子がいてバーらしく真面目にお酒とか出してたけど、そのうち「お酒は自分でもってきて」になり、その後、優子はいたりいなかったりしたけど「いつでも自由に使っていいよー」と。ついには、あの空間で誰でも、いい意味で、自由勝手気ままにして、使用料を竹かごに置いていくようになったよね。


そうそう、優子のバーには色々な人が集まり、優子の長女がギター弾いていたりしていたことも。優子の三女は小学校低学年だったはずなのに、優子にみっちり仕込まれたのか、手慣れた感じで「オッケーぐーぐる!」と堂々と機械を操作してて、とても驚いた記憶がある。私はタバコを吸いながら仕事できるのがありがたくて、昼夜時間を問わず、そこでパソコン仕事をしてた。優子がいる時に整体師のお兄さんが来ると「この人仕事ばっかりしてるからさー」とからかわれて、マッサージして貰うこともあったっけ。


あのゆる〜い感じの空間は、それぞれがてんでばらばらなことをしてるのに、みんな何となく心地よい居場所になってた気がする。


すべてが懐かしい。まるで昨日のことのよう。


優子、今年は私たちの長女、長男は二十歳になったんだよ。「子どもが二十歳になったら同窓会しようね」と保育園の頃に約束をしたの覚えているかな。


それなのに、もういないなんて…そんな現実をいまだに受け入れられないでいる。


優子、たわいもない話がしたい。一度だけでもいいよ。


 下川貞文の話を続けます。貞文は1885年、平良(ひらら)小學校(現・北小学校ならびに平良第一小学校)の教員として、宮古に渡りました。慶世村恒任(きよむら こうにん)の『宮古史傳』(大野書店、1927年)には、平良小學校の前史として、次のような記述があります。

 「弘化三年(皇紀二五〇六)に琉球政府から講解師與世里里之子親雲上朝紀(こうかいし よせざと さとぬし ぺーちん ちょうき)を派遣して平良に南北兩校を創立したのに始まる。教科は史記、春秋、四書、少學、三字經、習字、算数等で、七八歳の士族の子弟はこれに入學し、師匠から素読を習ひ又は講釋を聴き、學級の制なく各童の能力に應じて科程を進め、修業年限も亦一定しなかつたので、自ら學修程度に等差を生じ、士族の子弟にして猶ほ文盲の者が多く、學徒もまた役人たらんとするの準備に止まったので、素より大家を成すべき學輩はなかった」。



 弘化三年とは、1846年のことですが、『球陽』では道光二十七年とありますので、1847年にあたります。もっとも、稲村賢敷(いなむら けんぷ)の『宮古島庶民史』(三一書房、1972年)によると、1820年に初めて「島内に公立学校所を設けて平良士族の教育機関」ができたとあります。『宮古史伝』でもすでに、学校の創立以前に書道が伝わったという記録があることからすると、そのあたりと関係があるのかもしれません。さほど教育熱心ではなかったらしいのですが、それでもユカイピトゥになるためには必要でした。島言葉(シマクトゥバ)では、ユカイピトゥとは「系をもつ」という意味で、「ユカリ人」や「ゆかり人」とも表記されます。士族のことで、出世した人も指します。

 ちなみに平民は、スマノピトゥと呼ばれました。「大親の世(ウプウヤユー)」の時代にあたります。この時代を『宮古民衆史』では「封建制下の宮古島社会」、『平良市史』では「薩摩藩と琉球王府の支配」と呼んでいます。宮古で初めて税制を敷いたのは、仲宗根豊見親(ナカソネトゥユミヤ、ナカソネトヨミオヤ)です。それが始まった1504年から、人頭税(にんとうぜい)廃止の1903年までの時代を指します。

 ということは、仲宗根豊見親は、宮古では英雄とされているのですが、逆に、宮古が苦しむ人頭税(のきっかけ)を作ったという言い方もできるかと。



 「子弟の教育には、はじめ島内にその施設がなく、名門の子弟で好学の者は中山に留学して国学で儒学を修めて帰るだけであったので、文政三年(一八二〇年)にははじめて島内に公立学校所を設けて平良士族の教育機関とした。これ公立学校所のはじめで場所は現北小学校の南隅にあったということである。はじめは平良市内士族の適当な者を選んで学校所筆者とし、読書、手習、算盤を教え、また小学六巻と四書を教えたが、のち一八四一年には中山から久米人の講談師匠が派遣されることになり、その下に学校所筆者六名(南北両校になってから十二名に増員)が任命された。生徒は平良五ヶ所の士族子弟で、八歳から十四歳までの者の者を入学せしめ、小学四書、古文神宝、五経の素読を教え、十五歳以上になると師匠の講談を聴講させた。筆者一名は必ず宿直して鶏鳴時に起床し、仕丁を指揮して校の内外を清掃し、礼装を正して講堂に正座し、生徒も鶏鳴時に起きて登校し、登校の順序に刺を通じて午前六時より十時までは素読、十時より十二時までは師匠の講談があった。午後は会所に集まり年齢の順序により恭敬静粛を守り、決して談笑を赦さず、年長者の指導によって温習をした。会所における教訓は『棒頭有孝、厳師出孝子』というもので忠孝を目標とし、厳格なる教育が行われた」。

 なお、『北小学校百年』(北小学校創立百年記念事業期成会、1983年)によれば、後の北小学校の開校は1823年です。場所は、稲村賢敷のいうとおり北小学校の南隅です。もっとも、記録の上では、「北学校」と称したのは、それよりかなり後の1875年でした。それまであった学校は、「南学校」に。しかし、両校とも現在の北小学校付近であったと考えられます。



現在の北小学校

 そして名称を改め、平良小学校になったのは、1882年のことです。

 貞文が平良小学校に赴任したのは、その三年後の1885年のことでした。その際、旧在番仮屋を改修し瓦葺一棟とし、もう一棟増築しました。貞文はここで、宮古の子弟に科目を教えるだけでなく、教育に関してさまざまなことに関わっていたという記録もあります。

 在番とは、首里政府から派遣された蔵元(ウッヴァ、クラモト)に出仕する島の役人を指揮監督する役目がありました。蔵元とは、宮古で最高の行政機関のことです。場所は、現在のホテル共和の位置。島の役人とは、平良間切、下地間切、砂川間切に勤務する島の士族です。1647年から在番は三人体制となり、ひとりは在番、あとのふたりは筆者と呼ばれました。首里王府が在番を設けたのは、1609年薩摩藩の侵攻を受けて、宮古・八重山諸島の支配を強化して、みずからの立場の強化を図るためです。その後、人頭税(にんとうぜい)が、1637年に始まり、その支配は苛烈を極めることになりました。もっとも、常に酷い状況ではなく、薩摩藩と江戸幕府との関係で、その度合いは変化したと仲宗根將二(なかそね まさじ)氏は語っていました。

 仮屋(カイヤ、カリヤ)とは、首里の役人が宮古滞在中に泊まり、執務を行うところです。このうち現在の北小学校のあったあたりは、西仮屋と呼ばれ、在番筆者の宿舎がありました。1879年には、警視派出所に接収されました。宮古では有名なサンシー事件が起きた場所です。



 いわゆる琉球処分の流れで琉球国を廃して琉球藩が設置されたのが、1872年なので、さまざまな公的機関の名称や役割分担が次々と改められていったのでしょう。その後、1879年沖縄は県となり、本格的に大日本帝國の領土としての組織を整えていきます。

 平良小學校が、ふたたび二校に分かれたのは、貞文が亡くなってからかなり経った1929年、平良第二高等尋常小學校(現・北小学校)と平良第一高等尋常小學校(現・平良第一小学校)に改称されてからのことです。校区は、平良第二高等尋常小學校の学区は、東仲宗根(アガス゜ナカズゥニ、アガリナカソネ、ヒガシナカソネ)、西仲宗根(イナカズゥニ、イリナカソネ、ニシナカソネ)、荷川取(ンキャドゥラ、ニカードラ、ニカドリ)でした。こうした表記と読み方の揺れは、宮古本来の地名の読み方が、一旦、漢字表記になったものの、地名や名前というみずからのアイデンティティのあり方に関わる問題をいまだ模索しているのでしょうか。

 ズゥニ、ゾネないしソネとは、島言葉のスニのことで、巣峰を意味します。そこから、人の住む丘になり、転じて、人の住む場所や、集落のことになりました。集落が広がると、仲宗根(ナカソネ)に対して、南宗根(パイソネ)と北宗根(イリソネ)ができます。それが荷川取と西里になりました。西里は、下里からの分村で、本来は地理的に北里とされてもおかしくありませんが、ニスダティという島言葉から西里と表記されたかと。宮古では、北のことをニスないしニシと呼ぶので西と表記します。荷川取とは、伊良部島に対面しているという意味です。仲ソネからは、東ソネと西ソネに別れました。民謡にも、アガリソネ、イリソネという言葉が出てきます。アガリとは、太陽が昇る、イリとは太陽が沈むことでしょうか。南宗根は、後にスムダティという島言葉から、下里に。地名の語源には諸説あるのですが、今後の研究を期待して、ここに記しておきます。


 後半は、仲間明典(なかま あきのり)さんです。一般社団法人 ATALAS ネットワークが主宰した「みやーく文化センター」第四回講座で講師を務めました。司会は私だったはずですが、前日の深酒で、ご存じの方なら知ってのとおり役に立たず、宮国さんがサポートしてくれました。



優子さんさようなら


仲間 明典


我が家の庭にあるアジサイが今、白い花を咲かせています。

貴女が、伊良部の拙宅を訪ねてきたときは、たしか暑い日でしたよね。

ロベルトソン号の話を情熱的に語るのが印象的で、頑張り屋さんなんだなと覚えています。縁は奇なりと言いますが、私の先祖がロベルトソン号総難民を助けたひとりである仲間梅吉(なかま うめきち)だと話すと、「これも縁じゃないですか」と、にこっと笑って喜んでくれたのを嬉しく思いました。

これを思慕と言っていいのか、ともあれあの笑顔が容赦なく思い出を投げかけてきます。時間を手繰り寄せて、尽きない想いを醸成させます。

「あの世」とやらにスナックがあるか分かりませんが、予約しておいてください。

一杯やりましょう。

冥福を祈ります。








【主な登場人物の簡単な略歴】


下川貞文(しもかわ さだふみ)1858年~1898年
肥後國生まれ。熊本師範学校(現・熊本大学教育学部)卒。那覇から平良小の訓導として宮古島に渡り、宮古教育界に多大な影響を及ぼす。


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(ワラビナー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


慶世村後任(きよむら こうにん)1891年~1929年
砂川間切下里村大原126に生まれる。父は恒綱、母マツの長男として生まれる。家は、首里系英俊氏の支流。屋号は前ヒヤ。童名(ワラビナー)は茶武(チャム)。祖母はメガ。1897年、恒綱は死去し、家督を継ぐ。母マツ、妹カマド、祖母メガの女ばかりの家族だった。1902年、平良尋常小學校(現・北小学校)を卒業。1906年、平良高等小學校(現・北小学校)を卒業する。この時の教員に冨盛寛卓がいた。そして富盛寛卓を教えたのが下川貞文である。同年、沖縄師範学校本科一部(現・琉球大学教育学部)に入学する。寄宿舎に入り、ローソクの灯で『不如帰』や『金色夜叉』などを読みふけった。1910年、流行性脳膜炎になり、翌年退学。1911年、徴兵検査を受けて合格。熊本の歩兵十三連隊に入営。1912年、第二十連隊射撃演習で成績優秀で入賞する。翌年除隊。1914年、下地カメとの間に、長男の恒一(後に恒夫と改名)が生まれる。『宮古毎日新聞』を創刊。平良・城辺・下地三村の道路交通を記念した「三村民の歌」を作曲。作詞して流行させる。1916年、熊本連隊へ予備役で入隊し、除隊後も平戸た五島列島をめぐって、童謡や講談を語り歩く。1919年、『先島新聞』宮古支局に勤め、「清村泉水」や「泉水」の筆名で多くの記事を書く。妹カマド死去。1920年、宮古初の衆議院選挙で立津春方(憲政会)を応援して、盛島明長(政友会)と激しく対立。『宮古新報』で論陣を張り、蔵元跡やアイマモーなどで応援演説をしたと伝えられる。1921年、七原尋常小學校(現・久松小学校)の代用教育になる。教え子に中山勇吉がいる。1922年、七原尋常小學校准訓導になる。この時に、一児童の発した「世界中には面白い話があるのに、宮古にはどうしてお話がないの」という問いかけに発奮して、同僚とガリ版で「島物語」を発刊する。これが後の『宮古史傳』のきっかけとなる。七原尋常小学校が松林尋常小学校と合併し、鏡原尋常小學校(現・鏡原小学校)となる。伊良部尋常小學校(現・伊良部小学校)へ転勤。1923年(現・上野小学校)に転勤。教え子に下地明文がいる。翌年、依願退職する。1925年、『宮古五偉人伝』を南島史跡保存会から出版。1926年、ニコライ・ネフスキーの二度目の宮古旅行に同行。1926年、恒次が生まれる。実母である平良メガママとの入籍をしないままなので、平良恒次(後に、平恒次)となる。1927年、病躯をおして『宮古史傳』を南島史蹟保存会から発行する。近所の子どもは、常に机に向かい本を読み、執筆にいそしむ慶世村恒任を茶武主(チャムヌュス)と畏敬の念で眺めていた。同年、『曲譜付宮古民謡集』を発行。自宅の片隅にある西ウプバリガーを近所に提供。1928年、『沖縄宮古新聞』を創刊。1929年、本籍地で死去。法名は、「文誉良章信士」。


稲村賢敷(いなむら けんぷ)1894年~1978年
郷土史家、教育者、倭寇研究者。平良間切東仲宗根村(現・宮古島市東仲宗根)87番地生まれ。父の上天運賢英とマツとの間の長男として生まれる。元の姓の上天運家は、首里夏姓の後裔。祖父の上運天筑登親雲天賢献は、1872年年から1874年まで在番筆者として宮古に点勤。当時の習慣にしたがい、宮古妻ウミトとの間にできたのが、父である賢英である。当時、賢英は下地尋常小學校(現・下地小学校)の代用教員を務めていた。1896年弟の賢徳生まれる。乾徳は、後に中央大學法学部夜間部を出て弁護士になる。1909年、平良尋常小學校(厳・北小学校ならびに平良第一小学校)卒業後、城辺小學校(現・城辺小学校)の代用教員をする。当時、父の賢英は訓導として小学校の教員をしていたが、物価が高騰し、教員の給料は物価に比して少ないたため、家が極度に貧しく、弟とともに母の機織りや下の妹のお守りをしながら、アダン葉の草履を作って家計を助けた。1911年、経済的理由で反対する父を押し切って、沖縄縣師範學校本科第一部(現・琉球大学教育学部)に入学。1916年卒業後は、訓導として羽地尋常小學校(現・羽地小学校)に勤めるが、翌年病気のため休職する。1916年、元下地地頭砂川恵任の三女カメガマと結婚する。1918年、娘の英(ヒデ)生まれる。1919年、東京高等師範大學文科第一部(現・筑波大学比較文化学類)に入学。沖縄師範學校当時から父の反対のため仕送りも途絶えがちで、翌年に休学。母校である平良尋常小學校に訓導として勤務。高等科二年を担任し、教え子に譜久村寛仁らがいる。翌年、宮古上布の好況と平良村(厳・宮古島市)の賃貸生のおかげで復学。1921年、二女馨子生まれる。この年に小樽高等商業學校(現・小樽商科大学)講師をしていたニコライ・ネフスキーの寄宿舎に招かれ、宮古方言を一週間教える。1920年にも、大坂外國語大學(現・大阪大学)ロジア語教師をしていたネフスキーに招かれ、宮古語を教授し、そのまま大阪からネフスキーの第一回宮古島調査に同行する。当地では、富盛寛卓(東仲宗根)、国仲寛徒(佐田)、狩俣吉蔵(狩俣)、木村恵康(西原)などのインフォマートを紹介し、宮古を案内する。後に、この経験から、彼らは宮古研究をしたり、研究者に協力することになった。1923年、カメガマと協議離婚。カメガマは名をマツと改称(さらに静江と改名)し、再婚する。この時、上運天姓を離れて、平良村字東仲宗根五四番地に一家を創立し、稲村姓を名乗る。妻を一旦離別し、再び婚姻するのは。改姓の手段であったと伝わる。1924年、東京高等師範學校を卒業し、師範学校・中学校・高等女学校の修身・教育・歴史・法制・経済の免許を付与される。同年、沖縄縣師範學校教諭となり、後に學校舎監も併任する。同年長男夏彦生まれる。1925年、舎監を辞める。次男譲生まれる。台南州第二中学校教諭、台湾総督府立台南高等商業學校非常勤講師、沖縄第県立第一中學校(源・朱里高等学校)教諭になる。1928年、三女順子生まれる。1930年台湾で弁護士をしていた弟賢徳は、第十七回衆議院選挙に民政党から出馬したが、落選。この時使用した自動車が、宮古初の車である。1931年、四女豊子生まれる。1932年、母マツ、父賢英が多良間村字塩川三一番地で死去。祖母ウミト死去。三人とも12月になっているが、届け出が遅れただけで死去した年も月も違うと考えられる。1933年沖縄県立第三中學校(源・名護高校)教諭になる。1938年、長女英、胸を病み死去。1939年、嘉手納農林學校(現在は廃校)教諭となる。1942年、沖縄県立八重山中學校校長となる。1944年宮古中學校(現・宮古高等学校)校長になる。同年、長男夏彦、フィリピンのルソン島で戦死。1945年、次男譲、沖縄本島摩文仁で戦死。長男と次男の死が、郷土研究へのきっかけとなる。1946年、宮古高等女学校(源・宮古高等学校)校長になる。1947年、宮古女子高等学校校長と宮古男子高等学校校長をストライキなどの理由で辞める。同年、学校宮古社会党を結成に執行委員として参加。同年解散後は、宮古民政府の宮古文化連盟委員、宮古文化史編さん委員となり、戦火で荒廃した宮古を芸術や文化で再建しようと各地を回り、資料を収集した。その成果が、後の『宮古民衆史』に結実する。同年、宮古民政府の肝いりで宮古文化連盟が結成され、委員長となる。1948年、妻鈴江死去。1949年『郷土研究』を創刊。琉球政府が1952年に創立後、図書館館長となる。生活も安定する。同年、『宮古旧事 上巻』を刊行。その後、『宮古毎日新聞』に「平良市都市発達史」や「文化財指定」など、多くの雑誌に寄稿する。1957年、『宮古民衆史』を刊行する。一千部発行して、その大部分を宮古で持ち歩いて頒布した。この著書は、慶世村恒任の『宮古史伝』以来の宮古の通史である。同年、『琉球諸島における倭寇史跡の研究』を刊行。その後も、『宮古毎日新聞』を中心に、新聞や雑誌に寄稿する。1971年沖縄タイムス出版文化賞。1972年、外間政彰のあっせんで、『宮古民衆史』を三一書房から再販。1975年沖縄文化功労賞受賞。1976年、『那覇市史』資料編第一巻の「家譜資料について」を執筆。1977年、平良市(現・宮古島市)から文化功労章を受章・同年、『宮古島旧記並史歌』が至言社から再販される。1978年、脳溢血のため、那覇市小禄宇栄原団地C-8-106号の自宅で死去。告別式は那覇市大典寺で挙行される。1983年平良市出版記念感謝状が送られた。


仲宗根將二(なかそね まさじ)1935年~
郷土史家。沖繩縣平良市西里(現・沖縄県宮古島市西里)生まれ。1944年鹿児島縣姶良郡加治木町(現・鹿児島県姶良市加治木町)に疎開。鶴丸高校を経て、1956年宮古島に帰郷。宮古毎日新聞、日刊沖縄新聞、宮古教育委員会で、市史編纂や文化保護事業に従事。他方で、平良市役所税務課にも勤務。他にも宮古の所属機関多数。前宮古島市史編さん委員会会長。『宮古風土記』他、著作、論文多数。「宮古の生き字引」と呼ばれる。『軌跡』(2016年)で、東恩納寛惇賞受賞。精力的に、宮古の歴史や文化財に関する研究や発表を行っている。最近は、人生の集大成として宮古の学区研究に打ち込んでいる。


  



2023年03月06日

第32回「下川凹天の父 下川貞文の巻その1」



こんにちは。今回の前半は、ボーダーインクの編集者である新城和博(しんじょう かずひろ)さんです。


宮国優子さんのこと


新城 和博


あれから何年たつのか。コロナ禍のなかで時間の流れがあやふやで記憶がここ数年とけてしまったのかのようだ。ぼくはしばらく沈黙していたのかもしれない。数日たって、個人的に SNS にとりとめもなく書いた文章がある。
突然の悲報で愕然とした。

宮国優子さんが急逝したと、Facebook からの知らせは最初理解できなかった。

宮国優子(と、いつもフルネームでぼくは呼んでいたので)とは、『読めば宮古!』、『書けば宮古!』の編集者として、とても濃密な時間をともにした。その後もいろんなことを頼んだし、頼まれたし、那覇で、宮古で、東京で、会えばいつも宮国優子の熱い思いをどんと感じつつさまざまな話をした。

思えば、『WANDER』で新垣譲(あらかき ゆずる)さんが連載して後に単行本になった『東京の沖縄人』(ボーダーインク、2003年)でその存在を知り、その後、盟友の幸地郁乃(こうち いくの)さんとともに、『おきなわキーワードコラムブック』(ボーダーインク、1989年)のような宮古の本を作りたいと連絡を受け、それから何年かかけて作ったのが『読めば宮古!』だった。あの本は多くの宮古、宮古関係の人が参加したが、その中心に宮国優子がいた。

強烈な存在感ととっても繊細な気持ちが織りなすエモーションは、唯一無二の本を作り出した。『読めば宮古!』そして『書けば宮古!』の日々は、東京、那覇、宮古の結びつきで、ほんとうに濃厚な時間を過ごした。

あんな風にして出来上がった本はちょっとなかった。

数年前に、そろそろ三冊目を作ろうと話し、原稿を集めてはストップして、それぞれの時の流れの変化を感じつつ、それでもいつかはと思っていた。

形にならない思いはあるが、彼女の記したさまざまな場面での言葉は、いろんなところで生き続けると思う。宮国優子が紡いだ人と人と街と島のつながりは、まだまだ広がりつづけていくことだろう。

読者として、著者として、そして友人として、強烈な、楽しい、もどかしい、切ない、豪快な、激しい、そして優しい時間をともにした宮国優子が亡くなったことは、やはり悲しい。残念だ。宮古、東京、那覇でともに歩いた路地や、深く飲み歩いた街のどこかで、また会えるような気がする。

今は、ただ安らかに、という言葉しかかけられないのが、寂しい。
この文章は、そのあと2021年のボーダーインクのカタログのなかに追悼の意を込めて「宮国優子さんのこと」として掲載してもらった。

『読めば宮古!』は「さいが族編著」として、2002年4月に刊行された。宮古島トライアスロンのタイミングにあわせて出した、という記憶がある。県外から来たアスリートたちにも読んでもらえたらなんてきっと思っていたのだろう。

しかし我々のささやかな自信をはるかに越えて、『読めば宮古!』は爆発的に売れた、宮古島を中心に世界へと。「さいが族酋長」として宮国優子の活躍はここから始まった。翌年2003年10月には続編『書けば宮古!』も刊行されるという勢いである。

『読めば宮古!』は現在でも沖縄の書店に並ぶロングセラーである。

ボーダーインク関係では、追悼文で触れたように、コラムマガジン『WANDER』で、フリーライター新垣譲さんの連載「東京の沖縄人」のなかで1995年の宮国優子のことが紹介されている。2003年に単行本として刊行された『東京の沖縄人』では、「ホント、宮古島っていいところだよ~。絶対出てやるって思っていたんだけどねぇ。」と題して、1995年のインタビューと、さらに2001年のインタビューを新しく収録している。

2006年に刊行された宮古島方言マガジン傑作選『くまから かまから』(くまから・かまからライターズ編)(ボーダーインク、2006年)ではライターのひとりとして、「宮古を出るということ」「コードネームは『ゆうこ』」など、いくつかのエッセイが収録されている。

こうしてみると、ボーダーインク関係でも20年以上の付き合いがあったのだ。

東京や宮古、そして那覇でも、いろんな思い出はあるのだが、これからもゆっくり思い出してみようと思う。そんな付き合いもきっとあるだろう。



 今回からは、凹天の父である下川貞文について述べてみたいと思います。下川貞文は、1858年に肥後國(現・熊本県)で生まれました。幼名は清。もしくは清太郎。下川家の系図は以下の通りです。

 これによると、下川家の祖先は、契沖(けいちゅう)の一族に連なります。もっとも、これはいわゆる江戸時代にはやった偽系図の可能性が大なのですが。「系図書き」という職業も江戸期には盛んになり、地方の豪農や商家を回ったという記録も残されています。


(Y様画像提供)

 ここから少なくとも判明するのは、下川家直接の祖先の名前が下川次太夫であり、その玄孫(げんそん)が貞文にあたります。そして、貞文が士族出身だったということです。


 もっとも『昭和人名辞典第1巻 東京編』(日本図書センター、1987年)によると、貞文は廣島縣士族となっています。熊本県でなく広島県になっているのは、私見では誤植だと考えますが、なにか未発見の事実があるのかもしれません。

 貞文が肥後國出身という事実が、最初に世に出たのは雑誌『ユウモア』の第二號における凹天の自叙傳であり、また凹天の自筆年譜にもそのように記されています。


川崎市市民ミュージアム所蔵

 長じて、貞文は熊本師範學校に入りますが、当時の熊本における高等教育事情を述べておきますと、まず熊本洋學校が始まりが重要です。これは、教師のリロイ・ランシング・ジョーンズを招聘して、実学を熊本に定着させるために、県が設けた学校です。


熊本博物館所蔵

 熊本洋學校は、現在の熊本県立第一高校のあった場所です。




 ここで育った人材が、有名な「熊本バンド」を結成します。熊本バンドとは、ジョーンズの教育方針にしたがって、道義的国家の確立のために、プロテスタント的な神の信仰に生きる自主的な個人を模索した当時の青年の一団です。徳富蘇峰(とくとみ そほう)や海老名弾正(えびな だんじょう)が代表的人物です。もっとも熊本バンドという名称は、ジェーンズが帰国後、洋学校の人材が新島襄(にいじま じょう)が創設した同志社英學校に移った後、熊本県気質を京都人が呼んだ言葉です。

 彼らは、日本の牧師、教育界、官界に大きな足跡を残すのですが、地元熊本の教育界にも、多大な影響を及ぼしました。このあたりが、下川貞文にも与えた影響は、興味深いものがあります。

 貞文は、熊本師範學校を卒業すると、1876年に初めて教職に就きます。

 その後、1881年巡査として沖縄に渡ります。半年後の1882年、首里西小學校教員に。その時の辞令をわれらが凹天は、生涯離しませんでした。ちなみに首里西小學校とは、現在の琉球大学教育学部附属小学校のことです。


(Y様画像提供)

 沖縄島に遺した貞文の足跡は、これからも調査していきます。タンディの資料が散逸した今となっては、辞令一枚と機關誌の記事、『平良市史第八巻(資料編6考古・人物・補遺)』だけなのですが。

 後半は、「宮古研究会」の客人である須藤義人(すどう よしひと)さんです。宮国さんが尽力した一般社団法人「 ATALAS ネットワーク」の地域活性化プロジェクト(平成26・27年度沖縄文化活性化・創造発信支援事業)のお手伝いをしました。その一環で、小冊子『島を旅立つ君たちへ』が宮古四高等学校の卒業生に贈られました。


人の心の光と影を見つめてきた優子さん


須藤 義人


宮国優子さんとの出会いは、宮古島の文化サロンの「タンディ・ガ・タンディ」でした。むろん、『読めば宮古!』(ボーダーインク、2002年)と『書けば宮古!』(ボーダーインク、2003年)という本の編著者として、彼女の存在は存じ上げておりましたが、実際に生身の御本人に出会ったのが東京の大岡山の彼女の店においてでした。確か、2014年の冬のことであった…と思います。

優子さんと私は「盟友」としてのお付き合いをさせていただきましたが、法政大学沖縄文化研究所の中に「宮古研究会(法政大学沖縄文化研究所内のサブ研究会、通称:みやけん)」なるものを結成し、頻繁に研究会やイベントに誘ってくれたのです。法政大学では沖縄学総合講座が毎週金曜日に開催されていて、私もご縁があって三回ほど登壇することになり、その後で市ヶ谷駅近くの「おかってや」での一次会で懇親をし、大岡山の「タンディ・ガ・タンディ」まで流れて、エンドレスの二次会を行ったことを思い出します。

エンドレスの二次会は、たびたび繰り返されることになり、優子さんとは電話でもよく話し込む間柄になりました。大岡山での二次会は、ドイツ語の専門家である片岡慎泰先生と一緒になると酩酊の時となり、デスマッチのような状況で翌日の夕方まで続くこともありました。優子さんは、堕落したオジサンたちの〈酩酊ぶり〉を呆れ顔で夜通し見守り、店の隅にあるソファーで時々寝ては明け方に起きて、近くの喫茶店での朝食に誘ってくれました。その後で昼頃まで優子さんと話し込むこともあり、娘さんたちがその喫茶店に来たりして、姉妹3名と談笑をする機会もありました。後に、優子さんが沖縄本島に娘さん3名を連れて「ファミリー旅行」として来沖した時に、夜中の首里城を散策して案内した思い出もあります。台風で何処にも行けなかった姉妹を思い、夜中の弁天池を案内していると、水鳥や亀が蠢(うごめ)いている石造りの道を通り、三女が「きゃっ、きゃっ」と笑い声を上げていたことが印象に残っています。

優子さんに対して「ゆうこりん」と時々呼ぶと、周囲にいた人が固まった表情で私を見てきたことがありました。堂々と面と向かって、彼女にそういう呼びかけをする人がいないからです。片岡先生と私が酩酊した状態で内々に彼女のことを語るときの「ニックネーム」になっていたので、私にとっては〈素のまま〉に呼びかけてしまっていたつもりでしたが、オジサンたちのこうした馴れ馴れしい表現にもサラッと流しつつ、苦笑いして受け止めてくれていたような気がします。彼女とは、宮古島のローカルな話から、沖縄全体の民俗学の話、そして ATALAS ネットワークという社団法人の企画運営に関することなど、それなりに文化サロン的なテーマを多く語った記憶があります。次第に話題の範囲は、本土の人と宮古の人の関係性や、ウチナーンチュの行動パターンのような人間観察的な話題にまで広がっていきました。更には、口外できないような人間関係の話にもなり、家族の話や将来の夢などを語り合うような感じとなっていきました。思い返せば、懐かしいことばかりです。優子さんは「タンディ・ガ・タンディ」に足を運ぶ人々のカウンセラーのような役割もしており、私の共通の知り合いへの対応について相談を受けたり、その人を一緒に心配したりしておりました。

宮古島でも沖縄本島でも東京でも、優子さんと会うときは、人と人が繋がる奇縁ができることが多かったです。彼女は人々を惹きつけるカリスマ性があり、多種多様な人々と「友」になっていきましたが、知り合った人同士のマッチングをするのにも長けていました。この追悼文を誘っていただいた片岡先生もさることながら、彼女がいなかったら、仲良くなれそうもない方々と深く繋がっていくような流れを創ってしまうのです。だからこそ、彼女は「(人付き合いは)平等でいたい」と公言していましたし、できない時は、その人をまるごと受け止めたい…という意志を強くもっていました。そして、「友」へは陰口ではなくて面と向かって、本音で話すことに軸を置いていたのです。彼女自らも「我慢できないことは、我慢できない」と率直に言い放ちつつ、繋げた「友」と「友」が揉めたりすることに真摯(しんし)に向き合い、それぞれの自由を重んじつつ、より良い流れを生み出そうとしていたことが印象に残っています。

そういった〈調和の精神〉は、宮古島出身者の〈不屈の精神〉である「あららがま」というプライドと連鎖していたからこそ、できたことなのかもしれませんね。優子さんの座右の銘に「死んだフリ」という言葉があります。すなわち、対立した友人同士の調和を最初は試みるけども、乗り切る方法を思いつかない場合は、「死んだフリ」をして現状をただ受け入れることしかないということです。感情に流されて怒ったり、悲しんだりすることにエネルギーを消耗することを避け、「友」たちには〈負のスパイラル〉から解脱するしかないことを気づかせるしかない…という心遣いでもあったような気がします。

心折れた「友」に対して「自分に何ができるだろうか」といつも考えていたのが優子さんであり、「できそう」「できなさそう」という勘定は脇に置いて、心の苦悩に全力で耳を澄ませて、「友」の声を聴き出そうとしていました。「みんなが(本音の)声を出せる」と思っていない彼女は、「人には様々なプライドがある」と配慮して、人生を必死で生きようとしている人には優しく、心の声掛けをしていました。沖縄の光と影を知っているからこそ、人間の心の光と闇を頭ではなく体感してほしい…という願いがあったからだと反芻しています。宮古島の人々が日常的に使う「運命」という言葉が、実はどれだけ重いかを分かっていたからこそ、東京で自尊心や希望を無くして生きる方々と接して、もう一度、人生の歩み方を捉え直してほしいと思っていたのかもしれませんね。

心残りと言えば、優子さんの夢のひとつであった第三弾の本である『思えば宮古!(仮称)』を読んでみたかったです。沖縄の離島が「ガラパゴス的に近代化したこと」が原因で、「島人の心が(変化に)追いつかなくなった」と彼女は考え、沖縄の影の部分を見つめていました。つまり、沖縄の空気感は明るく光があると思われる反面、影も強いことを意識した上で、本土の人たち自身が人生の挫折や人間関係の葛藤で影に心を拘束されて、ただ単に沖縄に癒しを求めてはいけない…と警鐘を鳴らしていたのだと思います。彼女の出身地の宮古島でさえ、その影の部分を癒してきた祭祀行事などが衰退し、人々のアイデンティティを支えるものが消えつつあることに危機感をもっていました。そういった心象風景を編著者として、東京と宮古島を行き来しつつ、人々の心の影のあり様に触れつつ、宮古島の精神文化の可能性に〈一縷の光〉を見出していたものをカタチにしようとしていた志は、今も私の中に残っています。

 本追悼文をもって、優子さんの冥福を改めて祈りたいと思います。
 あなたとの出会いと、知人たちと繋げてくれた御縁に感謝いたします。


須藤義人拝




【主な登場人物の簡単な略歴】


下川貞文(しもかわ さだふみ)1858年~1898年
肥後國生まれ。熊本師範学校(現・熊本大学教育学部)卒。那覇から平良小の訓導として宮古島に渡り、宮古教育界に多大な影響を及ぼす。


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


契沖(けいちゅう)1640年~1701年
国学者、僧侶。摂津(川辺郡尼崎(現・兵庫県尼崎市北城内)生まれ。釈契沖(しゃくけいちゅう)とも言う。元々の名前は、下川空心。祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であった。11歳で摂津国東成郡大今里村(現・大阪市東成区大今里)の妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け阿闍梨の位を得る。1679年、妙法寺の住持となると、古典の研究に勤しんだ。『万葉集』を研究するうちに、当時主流となっていた定家仮名遣の矛盾に気づき、歴史的に正しい仮名遣いに改めた和字正濫抄』は、とりわけ後世の研究に影響を及ぼした。1690年に母が亡くなったのを機として、摂津国東成郡東高津村(現・大阪市天王寺区空清町)に円珠庵を建立して住持となった。1701年、円珠庵で死去。


  


2023年01月02日

第31回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その8」


磯部たま子の巻は、今回で終わります。心身ともに壊れたまま、たま子はどのような最期を迎えたのでしょうか。


前半は、イラストレーターの長崎祐子(ながさき ゆうこ)さんから嬉しい新春の贈物が届きました。


宮国さんに渡したかった凹天のイラスト

長崎 祐子


©長崎祐子


 今回は、長崎さんなので一番座からの片岡慎泰です。


 磯部たま子最大の謎は、その最期です。まず、1954年1月28日付『讀賣新聞』夕刊の記事を見てください。



(Y様画像提供)


 この記事によると、たま子は、「戦争が広がって防空演習がはじまりかけたある日、突然姿を消したまゝいまもってゆくえ不明だという」とあります。


 このあたりの事情については、今後も調査を続けていきます。たま子の兄であり、磯部甲陽堂の店主である磯部辰二郎(いそべ たつじろう)が、どこで眠っているのか分かれば、ひとつのヒントになるかもしれません。ただここで述べておきたいのは、われらが凹天は、たま子が実際には失踪したにもかかわらず、亡くなったと周囲に語っていたことです。



川崎市市民ミュージアム所蔵


 また、1954年1月28日付『讀賣新聞』夕刊では、たま子の「家出が気になって凹天氏はあれほど人気のあった漫画の筆を一切折った」とあるのですが、その後も『讀賣新聞』の連載は続きました。さらに、戦時体制協力のための雑誌『漫画』にも、われらが凹天最大のヒット作『男やもめの巖さん』のスピンアウト作品を描いています。



 「十年ぶりの」仏画展という表現は、いわゆる提灯記事(ちょうちんきじ)なのでしょうが、それにしても、事実とあまりにかけ離れています。しかし、凹天自身が「死亡」と書かざるを得なかったことに思いをはせると、どこか悲しい気持ちにもなります。


 しかし、もう一度ここで強調しておきたいのは、『ポンチ肖像』(磯部甲陽堂、1916年)の出版と、われらが凹天が、日本初のアニメーターになった時期、そして磯部たま子との恋愛から結婚にかけての時期が同じだということです。『ポンチ肖像』には、「凸坊」を見物する凹天が小川治平(おがわ じへい)により描かれています。



 凹天は以下のようにも回顧しています。「処女出版が縁となって最初の妻T子と結婚することになったのである。無収入で売り食いをやっているところへ凸坊新画帖(現在のアニメーション)の話があり、月給五十円、助手付きというのであるが、例一つ参考にするものもなく、企画もなくそのうち、ライトで眼を悪くし、入院する羽目となった。作品は芋川椋三等一巻ものである。天活社(今の日活)系の浅草映画館で封切りされたのだ」。



 この巻の最後に、長崎さんが宮国さんが急逝された直後に描いてくださった、宮国さんの似顔絵を添付しておきます。


©長崎祐子


 一番座からは、以上です。


 後半は、GARRET WORKS 店主の佐藤寛(さとう ゆたか)さんです。



 宮国さんの果たされなかった夢

佐藤 寛


宮国さんと初めて会ったのは、Knock Knock の時だった。このイベントは、異業種交流をめざして、TAILOR LINE の澁(しぶ)さんが企画し、タンディ・ガ・タンディで始まった異業種交流会である。そこに、澁さんから誘われたのがきっかけになった。


この異業種交流会には、多くの方々が参加されており、大岡山での付き合いが一気に広がった。初参加した数日後にタンディに行くと、見覚えのあるロマンスグレーのダンディな方がいらっしゃった。これが踊さんで、同じ九州の伊集院出身ということもあり、それからずっと親しくさせていただいている。


そこでの宮国さんの初印象は、芯の強そうな人という感じだった。また話すうちに次第に分かってきたのは、激しい「宮古愛」だった。また、宮国さんや宮古出身の方が同世代ということも分かり、何度かタンディに通うことになった。


その後、自分が GARRET WORKS という皮革製品や古着を扱いながらお酒も飲める店を開いた時も、宮国さんは開店祝いに来てくれた。自分はもともとアパレル業界にいたが、独学で革製品の制作をしていた。


ありがたいことに、Knock Knock を自分のお店でも開催させてもらった。片岡さんはよく顔を出してくれたが、深酒することもしばしばで、宮国さんが来た時は、いつもこっぴどく怒られていた。でも傍から見ていると、まるで漫才をやっているかのようだった。


宮国さんは、片岡さんや他の人たちと宮古の研究にのめり込んでいった。宮古島は、下川凹天というすごい漫画家の出生地だと知ったのもその頃だ。


亡くなる直前、宮国さんは、宮古牛の皮革製品を制作できないかと思案していた。宮古牛はすごく肉質はいいのだが、皮をうまく流通にのせられていないからだ。自分に協力を求めてきてくれて、彼女の紹介で宮古出身の人とも製品化に向けて話し合った。宮国さんが生きていたら、宮古牛の皮革製品も完成していただろう。なにしろ、あれほど芯の強かった宮国さんのことだから。


黙とうを捧げます。




【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1935年失踪
凹天の最初の妻。詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


長崎祐子(ながさき ゆうこ)
フリーランスのイラストレーター、専門学校非常勤講師。平良市(現・宮古島市)出身。沖縄県立宮古高等学校を経て、琉球大学卒。神奈川県在住。宮国さん出身の宮古高等学校の後輩にあたる。宮国優子編著『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)のイラストを担当。


【2023/03/21 現在】  


2022年11月22日

第30回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その7」



 今日は、宮国さんの三回忌です。宮国さんは「私は百歳まで生きる」と生前語っていたことがあります。目標は、豆を商(あきな)っていた伊志嶺商店の伝説のオバーだったのでしょうか。



 前半は、ミュージシャンの藤巻章記(ふじまき あきのり)さんです。


タンディに通い始めた頃


藤巻 章記


何から言ったらいいのかな。短いけど、たくさんあったなぁ。


タンディに来たきっかけは、片岡先生が、ギャレットワークスで、お定の話を詳しく話していて面白くて笑っていたわけ。それから誘われて、タンディに行くようになったんだよ。
店に入ると、大岡山にこんなところがあるとは思わなかった。元ジャンヌ・ジャンヌという店だったことは知っていたけど。ジャンヌ・ダルクから来ているからジャンヌというわけだ。ジャング・ジャングなんて読んでいた人もいたが。


ママにギター弾いていいかと尋ねたら、いいというので、ナイロンギターを抱えて、そこに置かせてもらった。そういや、大岡山でギターを持ち込めるのは、今、「やかん」の場所にあった店だけだったな。


タンディでまず驚いたのが、音響の良さだったな。


それにしても人生これからなのに本当に惜しいなぁ。 こっちは老い先短いのに、まさか宮国さんがねぇ。そういやチャイナドレスを着た宮国さんは、エロかったなぁ。スリットからちらちらモモが見えたのも、もう思い出の中でしかない。


 お久しぶりの片岡慎泰です。ヤマトの夏は今年も暑かったのですが、宮古も台風11号がしばらく停滞して爪痕を残していったようです。皆さまのことを心配していました。


 さて、現在判明する限り、凹天によって残されたたま子の言葉は、もうひとつあります。それは、似顔絵の名手でもあった凹天に向けた言葉でした。


 「政治家だの文士だのを斯んなに惡口描いて善いのですか擲られてでもすると詰まりませんよ、貴郎は人の恨みでロクな死に方はしやしない」。



 この本が出た当時、凹天はすでに「大御所」と呼ばれてもおかしくなかったのですが、肉親は身もふたもないのは今と同じです。と同時に、ふたりの関係がうかがえるような言葉ではないでしょうか。


  「私の仕事を一番理解して居る筈の私の妻は私に斯う云つたのである、私も一寸考へた、考えるのが當たり前ではないか夢にも思つた事の無い事なのだから」。


 凹天も自分を「一番理解」しているのはたま子だと記しています。 そして、われらが凹天は、次のような弁解めいた言葉を残しています。


 「私は、改めて自分の職業を説明する、私が人の顔の特徴を擧げて鼻が大きいとか齒が出っ齒だとか文章に書くのは其人の特徴を擧げて居るのであつて決して惡口ではない、事實を事實として擧げる迄である、それと同じ様に似顔の漫畫でも特徴の在るが儘に描くのは決して其人が憎らしくて描くのではない、反つてそこに眞實の美を見出して憧れの氣持ちで描くのだから敬愛の心こそあれ憎んだり馬鹿にしたりする心は少しも無いのである」。


 そしてロダンの名言を引用した後、次のように文を結びます。


 「スケッチする度に一々擲られて耐るもんぢやない、これだけ讀者に知つて置いて載けば武装もせずに夜も安心して寝られると云ふものだ」。


 ところで、凹天は自分の描く似顔絵をどう考えていたのでしょう。


 「いつだつたか憲政會の政務參與官鈴木富士彌氏が議會スケツチ漫畫家十名を帝國ホテルに紹介したことがあつた、若槻内相も片岡次官も出席された、其席上岡本君が『此處に居られる漫画家のうち英國のカーツン式に當て嵌まる方は北澤樂天氏で米國のカリカチユア式が麻生豊君純獨逸式が下川凹天君、その他は皆混血兒の漫畫家でして』と斯んな事を云つたつた」。


 「岡本君」とは、岡本一平のことです。凹天のこの記録は、『ユウモア』第二号所収の凹天「自叙傳」にある言葉を裏付けます。


 「『ポンチ肖像』の著者は此下宿屋の半死半生の時に描かれたものであります。すでに此時は樂天先生の漫畫から轉じて獨乙の『ジンプリシスムス』の漫畫家ハイネを崇拝するようになつて居た時でもありました」。



 残念ながら、凹天自身がハイネの画風について深く検討し、それについて言及したものは見つかっていません。ただし、風刺精神は大いに学んだようです。また、ハイネと同じく、警察に捕まると、雑誌が売れることまで学んだのかもしれません。


  松下井知夫(まつした いちお)は、このように回想しています。


 「毎夕に就職といっても、正社員ではなく、月給を貰うわけではなくて一応漫画主任という肩書で社員名簿に載ってはいたが、その日曜漫画欄は外注の委嘱で、月末に漫画部費を受取り、それで総てを賄う責任者だった。

掲載の漫画に当局の忌避に触れる作品があっても、直接本社の責任にはならず、私の責任で所轄署に呼出された。当時警視庁には思想犯取締り専門の特別高等警察部が設けられ、俗に特高といわれ、彼らは治安維持法を勝手に拡大解釈して、漫画家も随分睨まれた。

プロレタリア美術協会の柳瀬正夢、須山計一氏が検挙されたのもその頃で、昭和八年の前半。私が毎夕漫画の責任者になったのは、その後半の十月だった。目星しい大物は殆ど検挙済みで、あとは雑魚ばかりとみたせいかさすがの特高台風も静かになったかに見えた。私は毎夕漫画のために、日曜ごとに後輩や常連投稿家に集って貰い研究会を開いていた。そんなときいつも家内が呼びにきた。二階から降りてみると、牛込署の刑事が玄関に腰かけていて『今日は何の集まりですか』と探りを入れる。どうやら私もその雑魚組のブラックリストの一人だったらしい」。


  「毎夕日曜漫画の創設者で、楽天門下の大先輩である下川凹天先生に、あとでその話をしたら『いいンだいいンだ、それでイイんじゃよ、漫画で発禁になると、次の週は売上げが倍増すると、社長は喜ぶんだよ』と反って激励された。下川先生にも経験があったのだ」。


 このブログでは、凹天最大のヒット作『男やもめの巖さん』の主人公である髭野巖(ひげの がん)の顔が、ヒンデンブルクがヒントになったことを記しておきます。



 「歐州大戰當時獨墺の總司令官だつたヒンデンブルク將軍ははからずも今度新獨逸共和國の元首に擧げられた、餘程人望のある有る男とみえる獨逸國民の偶像は斯んな型の人間らしひ國は新しく成つても偶像の型は變らない」。


 「ヒンデンブルクの特徴は太い首と偉大な口髭と目の下の皺それから眉毛と眼と口と耳、殆ど顔全體が特徴だらけである」。


  「ヒンデンブルクの顔は岩の様な顔に無數の皺が縦横無盡に有るそこが彼の特徴だだから所謂復雑の誇張と云ふ事になつて居る、前にも云つた通り單純化はマイナス誇張だ、此場合はプラス誇張であるだがあの顔の内頭と口髭と服装はマイナス誇張乃ち單純化になつて居る、頭には毛があるか無きか位になつて居るが事實は五分刈頭の相當に毛のある人で有る、口髭もあんなに四五本太く長いのが生えて居るのぢやなくてもつと澤山モヂャ/\細い髭が生へて居るのだが感ぢは矢張りあの通りである」。



 この分析が、後に凹天最大のヒット作の主人公につながったのです。凹天自身、ヒンデンブルクの四角顔を三角にしたのが、髭野巖だと種明かししています。



  この時代は、『時事新報』や雑誌『ユウモア』、『漫画』、あるいは他にも書物も著(あらわ)しています。生きるため、そして病めるたま子の治療費や入院費のために必死に働いていたことがうかがえます。


 もっとも、この時期はすでに、二番目の妻なみをと暮らしていたということは、このブログで述べました。


 しかし、たま子と出会うきっかけになり、そこから処女出版された『ポンチ肖像』は、凹天の実人生にとって思い出深いばかりか、晩年になっても自信作だったのでしょう。自筆年譜は、そのことを裏付けています。


川崎市市民ミュージアム所蔵


  そして『ポンチ肖像』は、凹天にとって忘れがたいたま子との愛の結晶だったのかもしれません。この本の大きさは、国会図書館所蔵のものが、アーカイブ化されてしまったので意外と知られていないのですが、現在の文庫本サイズです。


『ポンチ肖像』



 後半は、山口旦訓(やまぐち かつのり)さんから、この凹天研究についての問い合わせがあった時の返信を紹介します。この凹天ブログの方法論や、今日に至る現状についてのドキュメントになっているからです。


宮国さんと片岡との凹天研究体制について


片岡 慎泰


早速のお返事ありがとうございます。長文失礼します。


宮古島出身で大岡山にいる宮国さんと岐阜県大垣市出身で町田市に住む片岡が、タッグを組んで Ecce HECO. のブログは、昨年4月より連載が始まりました。私が、ちょっと難しくても、凹天や、彼に関わる人やことについて一本の幹を書いています。


宮国さんは、最初の裏座で沖縄ないし宮古関係、もしくは現代の目から、私の書いた内容を引き出していきます。そして再び裏座で沖縄ないし宮古関係、もしくは現代の目でまとめるという構成になっております。その前史として沖縄県文化振興会の助成を一般社団法人 ATALAS ネットワークとしていただき「島を旅立つ君たちへ」と市民講座を開催いたしました。


山口さんの「び、びっくり」は年賀状だけでしょうか。


一言お断りのメールを入れてオッケーを頂いたと理解し、掲載させていただきました。


年賀状ではなくて、ブログ全体がこれまでと違っていることでしたら、少々込み入った事情がございます。


実は、裏座の宮国さんとこのブログ全体の編集をする東京都立川市出身で宮古島在住のモリヤダイスケとの間で、宮古に対する考え方の相違が激しくなり、今回はいつもコンテンツをブログに挙げる役割だったモリヤに代わり、宮国さんが挙げた経緯がございます。そこで、レイアウトや語句、てにをはの誤りは少しずつでも、元の形にしたいと存じます。電子媒体のありがたいところです。


自分から申し上げるのも恐縮なのですが、ブログを書くたびに国会図書館に通ったり、そこになければ、他の図書館、資料館から本を取り寄せたりコピー、もしくはアマゾンや日本の古本屋というサイトから本を買って、原典に当たりながらブログを書いております。


そこで分かったこと、新事実については、今のところ論文ネタではあっても、皆さまに凹天を知っていただくために必要と判断したら、すべてブログに公開しております。山口さんのおっしゃるとおり、現在、私は跡見学園女子大学と拓殖大学で、非常勤講師としてドイツ語を教えております。専門はドイツ文学で、特にゲーテを研究してまいりました。おかげさまで、大学の図書館を利用して、公共機関の著作や論文のコピーも手にいれることができます。


町おこしとお書きになってますが、大きな意味ではそうかもしれません。しかしこのブログに関していえば、宮古(宮古島には8島ありまして、それぞれまったく違うメンタリティをもっているため宮古と総称しております)が、伊良部大橋の完成、自衛隊派遣、LCC の導入などで、大きな歴史的転換を迎える時期に、いまなおハコモノに予算を付けて、おそらく実体として失われていってしまう宮古ならではの歴史、文化、風物をきちんと残していこうというところから始まりました。


「宮古の将来は宮古の人びとが決める」というスタンスからはブレずに、一貫してやっているつもりです。というのも、本土から来た研究者を始め、島外の資本などが、島の気持ちを踏みにじるような形で、自分のおいしいとこどりをしてきたからです。島の人は優しいので、何も言いません。


でも、そのようなやり方に大きな声は挙げませんが、きちんと見ています。


私が宮国さんと知り合ったのは、10年ほど前でしょうか。当時、私が昭和女子大に勤めていた時に、「元気でママチャレ」という、今で言えば、文科省の肝いりでマタハラ対策をサポートできるように、出産で退職を余儀なくされた女性のサポートプロジェクトの一貫として、NGO 概論を担当したのですが、その時の受講生のひとりが宮国さんでした。


彼女は、宮古の若者のためにきちんとサポートできる組織を作りたいと相談してきました。私は、NPO 法人境川緑のルネッサンスの創設メンバーで、その当時は理事長を務めていました。そこで、そこで何かイベントを打ちたいなら、実行委員会方式。もう少し宮古の若者を持続的に関わるようにするなら一般社団法人を作るのがいいとアドバイスしました。ちょうど法人改革の最中の時期です。


当時私は忙しく宮古の問題に関わるような余裕がありませんでした。宮国さんは、「元気でママチャレ」のカリキュラムを無事修了しました。ここで一旦関係は切れました。


ところが、ある日グーグルが「あなたの友達でありませんか」というサービスを始め、そこで宮国さんが私に友達申請してきたのです。そして再会したわけですが、すると一般社団法人 ATALAS ネットワークという組織を作っていました。そこで私もお手伝いすることになりました。手始めにトヨタ財団に応募したのですが、もう少しのところで落ちました。


下川凹天の研究はまだまだ続けるつもりです。そこで次回は凹天がアニメーション映画を製作した時の撮影技師である柴田勝に焦点を当ててブログに挙げる予定です。


先日も凹天の盟友である山口豊専のご遺族に会ってきました。そこでいくつかの新資料を発見いたしました。メールに添付する方法が分かりませんので、後でお送りします。


返事になりましたでしょうか。


片岡慎泰 拝




【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1935年失踪
凹天の最初の妻。詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


藤巻章記(ふじまき あきのり)1947年~
ミュージシャン。都立青山高校を経て上智大学卒業。文部省の給食業務に勤務。55歳の時に早期退職。その年に結婚。趣味はバイクと音楽。


岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館市生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげお、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった。


トーマス・ハイネ 1867年~1948年
画家、イラストレータ。ライプチヒのユダヤ系実業家に生まれる。本名は、ダーフィット・テオドール・ハイネ。Th.Th.Heine の名前で作品を発表することもあった。風刺漫画週刊誌「ジンプリチシムス」(大馬鹿者の意)の風刺漫画家として活動した。ナチスの迫害から逃れるために最終的にスウェーデンに亡命した。


松下井知夫(まつした いちお)1910年~1990年
漫画家。東京府に生まれる。本名は市郎。明治大学卒。他のペンネームに、晴山英多、関英太郎。北澤楽天に師事し、子供向け長編物語漫画家の草分けのひとり。戦前は、楽天門下の若手が集まった「三光スタヂオ」のリーダー。『東京毎夕新聞』では、凹天の下で働く。凹天が『國民新聞』に移った後は、『串さしオデン』を連載し、好評を博す。1946年、共同通信漫画部創設者。1948年、海老沢重郎、池田寿天、植田種康とともに、『漫画プレス』を創刊し、漫画を主宰する。『漫画プレス』は戦後初めての漫画専門誌で、松下井知夫の下には、山本富夫、飯田茂がいた。漫画投稿者には、小島功、関根義人、やなせたかし、境田昭造、八島一夫がいた。当時、原稿料は1枚100円で、まっこりが2杯くらい飲めた。若者の面倒を見るのが好きで、手塚治虫、馬場のぼる、森哲郎、イワタタケオ、針すなお、関根義人、八島一夫らと「ストーリー漫画研究会」を主宰する。そこで、凹天を稲毛温泉に招くこともあった。また、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄らと「漫画集団」を結成し、その中心的メンバーとなる。代表作に『ナマリン王城物語』、『新バクダッドの冒険』など。手塚治虫の媒酌人を務めたことでも知られる。日本語の日常的用法にも関心をもち、日本語の言葉としての魅力を解説した『コトバの原点:アイウエオ』は、NHKなどのマスコミの教材に使われた。『漫画集団』在籍時には、話術の巧みさから、「教祖」と呼ばれる。弟子に、多田ヒロシや山藤章二、水野良太郎などがいる。晩年は目を患う。心不全のため、自宅で死去。


パウル・ヒンデンブルク 1847年~1934年
正式には、パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク。軍人、政治家。ユンカー出身。プロイセン王国ポーゼン生まれ。職業軍人の家に生まれる。プロイセン士官学校祖卒。普仏戦争までは従軍したが、その後平和な時期を軍人として過ごす。退役後、第一次世界大戦の勃発で、第8軍軍司令官に任命される。タンネンベルクの戦いでロシアを破り、国民的英雄になる。実際には、軍人としては無能であったが、ヒンデンブルクと部下のルーデンドルフの軍功として喧伝された結果であった。1925年、ヴァイマル(ワイマール)共和国第二代大統領に就任。1933年アドルフ・ヒトラーを首相に任命する。大爆発事故を起こした飛行船の名前としても有名。日本でも凹天など多くの漫画家の似顔絵の対象になる。


山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。
詳しくは、第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」第25回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その2」

【2023/03/21 現在】  


2022年05月26日

第29回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その6」



今日は凹天の命日です。このひまわりは、宮国さんが、花屋で選びました。宮国さんは、次のようなことを書いています。


note | 当たり前ってなんだろう。コロナ禍になって思うこと #トーンポリシング Vol.1 (2020年5月1日)

この後、不動前駅で大雨が降りました。それは、われらが凹天の喜びだったのか、お怒りだったのか、宮国さんに聞いてみたいところです。凹天と宮国さんは、どんなことを天国で語らっているのでしょうか。



今回の前半は、文学紹介者の頭木弘樹(かしらぎ ひろき)さんです。



宮国さんの食べることとしゃべること


頭木弘樹


宮古島に移住した時、私は誰も知り合いがいませんでした。


海に囲まれた島の中で、まったく誰も私のことを知らない。それはある意味、面白くもありましたが、やはり心細くもありました。


最初に知り合ったのは、立川市出身で宮古在住のモリヤダイスケさんだったと思います。そして、モリヤさんが宮国優子さんを紹介してくださいました。


それからは、宮国さんが、いろいろな人に引き会わせてくださるだけでなく、それどころか、、あれこれと、まるで肉親のように親身に力になってくださいました。


これが宮国さんの流儀だと知ったのは、かなり後のことです。


宮国さんは東京にご家族との生活拠点がありました。当時も今もですが、私も国指定の難病のため、東京の病院に通ったり、東京で仕事をしたりしています。そこで、東京の自由が丘などでお会いすることもありました。


そこで知ったことですが、東京でも、宮古のようなコミュニティを作っておられていたのです。東京在住の宮古・沖縄出身者の集まりかと思ったら、そうではありません。


驚いたことに、東京の人たちが宮国さんの影響ですっかり沖縄の人のようになっていたのです。


大岡山の「Tandy ga tandhi (タンディ・ガ・タンディ)」というお店では、お客さんが店員のようにあれこれ働いていました。まさに宮国さんならではの世界です。このお店では、私もトークイベントをさせていただき、今となってはいい思い出です。感謝の念しかありません。


宮国さんと私は、実は難病仲間でもありました。病気は違うのですが、ふたりとも、国指定の難病です。


ただ、宮国さんとお会いした時には大変お元気になっておられ、仕事、お酒、煙草、夜更かしなどなど、驚きの連続でした。ただ、過去にはいろいろご苦労されたそうで、ご自身の夢をあきらめたこともおありだったとか。


以下で引用するのは、私の『絶望読書』という本の一節ですが、ここに出てくる「難病の知人」というのは、実は宮国さんです。宮国さんご自身の許可を得て、このエピソードを本に書かせてもらいました。


私のためにお見舞いに来てくれた人の服は、外のにおいがしました。この「外のにおい」が、正直、闘病の身には、とても辛かったのです。ずいぶん後になって、この話を、病気は違いますが、やはり難病の知人にしたところ、その人が言いました。


「私のために病院に走って駆けつけてくれた友人の頬が紅潮していて、激しくうらやましく思い、そんな自分を恥じました」。


この言葉には、本当に感動しました。この人は人間のそういう気持ちを心底から分かっていると。心の友だと思いました。


また、これはお互いに相手が難病と知る前のことですが、宮国さんとふたりで食事をした時に、たくさんの料理をテーブルに並べてくれました。


私は大腸の病気なので、食べられるものに制限があります。宮古の料理については、当時はまだよく分からず、どの料理を食べても大丈夫なのか、どれが危ないのか、区別がつきませんでした。ですから、ほとんど手をつけませんでした。お酒も飲めません。


こうなると、宮古では大変に気まずいことになります。もちろん東京でもこういうことが何度かありましたが、そのたびに、仕事がなくなったりしたものです。もてなすために出した料理に、相手がろくに手をつけないでいるというのは、やはり不愉快と思われても仕方ないでしょう。


ところが、宮国さんは、まったくいやな顔をしませんでした。こういう食事の時にありがちなのですが、「食べなよ」とか「どうして食べないの?」などと言うこともなく、ただひとりでどんどん食べて飲んで、楽しそうに話をしてくれるのです。


こんな人は初めてでした!


どんなに感動したかしれません。世の中の人がみんなこうだったら、どんなにいいかと思いました。このことも、『食べることと出すこと』という本に書きました。名前は出していませんが、それも宮国さんのことです。


宮国さんは、ご自身も難病だっただけに、「人にはどんな事情があるか分からない」と、きっと思っておられたのでしょう。


この人は、本当に信頼できる人だなあと思いました。人の気持ちに、ここまで寄り添える人は、それまでお会いしたこともありませんでしたし、今後もいないかもしれません。


宮国さんで、もうひとつ、とても印象深いことがあります。お会いすると、いつも時間を長いこと割いてくださいました。でも実は、宮国さんの話を何時間も聞いていても、何を言わんとしておられるのか、さっぱり分からなかったのです。


例えば、頼み事があるという理由で呼ばれた時も、お別れした後で、結局何を頼まれたのか分からないので、困りました。


最初は、失礼ながら、要領を得ないしゃべり方をする人なのかなと思っていました。しかし、それだったら、聞くだけで、つまらない気分で終わるはずですが、そんなことはまったくありません。最初から終わりまで、とても面白いのです。


これはいったいどういうわけなのだろう。


そのうち、気づきました。宮国さんは「理路整然としなくてもおしゃべりができる人」なんだなと。


理路整然としゃべると、実は多くのことが抜け落ちてしまいます。理路整然という網にうまく乗っかることだけをしゃべっているだけで、他のもやもやした思いというのは、切り捨てられてしまうものです。


ちょうど、絵を見て感動した時、その感動を理路整然となんて語れません。誰かを好きになった時、その理由を理路整然と語れるはずもありません。理路整然と語るというのは、箸でつまめるものだけをつまんでいるわけです。スープのような、箸でつまめないものは、切り捨てられてしまいます。


宮国さんのしゃべりには、そういうスープがたっぷり入っていたんです。理路整然としていたら抜け落ちてしまっていたはずのものが、すべてふくまれていたのですから、おいしいに決まっています。だから、何時間お話をうかがっていても面白かったわけです。


これは衝撃でした。かつて私は、理路整然としゃべれるほうがいいんだと思い込んでいました。でも、自分が難病になって、そういう時の気持ちは、とても理路整然と語れないことに気づいたのです。自分は現在、文学紹介者を生業としていますが、難病と向き合い、それをどう語るかということから、文学に近づいていったのだと思います。


そのお手本を示してくれたのが、まさに宮国さんでした。


以来、マネしようとしていたのですが、なかなか難しく、いまだに課題です。でも、本を書く時には、理路整然としすぎないよう、いつも気をつけています。


宮国さんの語り口こそが、現在私が目指しているものなのです。


このことも、実は NHK ラジオの「絶望名言ミニ」という番組で、話したことがあります。


宮国さんと出会い、宮国さんとの会話に驚いたことが血肉となり、その経験が基となり、私は書いたり、しゃべったりしてきたんだなあと、改めて思います。


その宮国さんが、もういらっしゃらないというのは、とても信じられません。また、ふいに声がかかって、呼び出されるような気がします。


これからも、そういう気持ちのままでいたいと思っています。宮国さんを見ていると、いつまでもパワフルに、大勢の人たちに囲まれて、長生きされるとしか思えませんでしたから。


東京にいる時は、宮国さんは宮古島にいると思い、宮古島にいる時は、宮国さんは東京にいると思い、これからもずっと、生き生きとした宮国さんの存在を感じつづけていようと思っています。



こんにちは。片岡慎泰です。


たま子との運命の出会い、そして一緒に過ごした時代、われらが凹天がどのような活動をしていたか、現段階で分かる範囲ですが、簡単にまとめてみようかと。新聞政治部で区分しますと、以下の時代に分けられます。ただし、あくまで自筆年譜に基づいていますので、今後、新資料がどこかで発見されればいいのですが。


  • 大坂朝日新聞(1913年~1915年)
  • 大毎新聞、大朝新聞、東日新聞、やまと新聞嘱託(1916年)
  • 東京讀賣新聞(1919年)
  • 中央新聞(1921年~1923年)
  • 東京毎夕新聞(1926年~1930年)
  • 東京讀賣新聞(1930年~1937年)
  • 国民新聞(1939年)

自由恋愛時代から新婚にかけての時代については、すでにこの巻で述べました。ここで、特筆すべきは、われらが凹天が、1917年天活(天然色活動寫眞株式會社)と契約して日本初のアニメーターになったことです。その決定的な資料が、岡本一平の『泣虫寺の夜話』であることも紹介しました。


そして、凹天は、二度目の東京讀賣新聞時代に最大のヒット作を飛ばしています。もちろん『男ヤモメの巖(がん)さん』ですが、ここでぜひ宮古の方にお知らせしたいのは、この作品で宮古島を登場させています。


1933年7月7日付『讀賣新聞』

また漫画の設定は宮古島の名前ではありませんが、そこには宮古の風俗が描かれています。





1933年7月11日付『讀賣新聞』

すでに紹介した葬送で登場する泣き男が登場しています。凹天が、宮古で経験した最大の出来事は、父である貞文の死だったのでしょう。7歳までしかいなかった宮古島ですが、凹天はずっと島のことを忘れなかったのです。


残念ながらしかし、病床のたま子はもはやこのことを知ることもできなかったでしょう。このブログでは、われらが凹天とたま子との生活を伝える記事を載せておきます。この出典は、まだ分かっていません。


(画像提供Y様)


【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1940年失踪
凹天の最初の妻。
詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館市生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげお、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった。


下川貞文(しもかわ さだふみ)1858年~1898年
肥後國生まれ。幼名は清。1876年、熊本師範学校卒。1881年、巡査として沖縄本島に赴任。1882年、首里西小(現・琉球大学教育学部附属小学校)で勤める。月給10円。1884年、那覇から平良小の訓導として宮古島に渡る。貞文は、1888年、「平良校ト当校詰兼務ヲ嘱託」の命を受け、1892年まで、西辺小の訓導として兼任する。同年、早逝した兄ふたりに続き、凹天が生まれる。妻はモトで鹿児島県人。同年から逝去するまで、上野小訓導も兼任する。その間の1894年には上野小初代校長に兼任として就任もしている。当時の教え子に国仲寛徒、盛島明長、立津春方がいた。なお、教え子が中心となって、死後に石碑が建てられ、祭典が開催された。明治34年9月11日付『琉球新報』によると、「故下川貞文氏の墓碑 故下川貞文氏は熊本県の産にして同県の師範学校を卒業し明治十三年の頃本件に来り初め六ヶ月間は首里に於いて巡査を奉職し次の二ヶ年は同西小学校の教員に奉職し十六年至り宮古の小学校に轉し爾来同島の子弟を薫陶すること十五ヶ年の久しき孜々怠らざること一日の如く子弟は勿論父兄も大に信用されたりしが去る三十一年十二月不幸にして長逝せり嘗ての氏の薫陶を受けたる立津春方、富盛寛卓友人臼井勝之助、執行生駒の諸氏墓碑を建設し氏生前の功績を永く同島に伝へんと欲し廣く全島の有志に謀りたる處賛成者多く四十餘圓の寄附金立どころにあつまりたれは早速牌を鹿児島に注文し、先月廿日に至り建設一切の工事を竣りたるに依り同日盛大なる祭典を執行したる由なるが當日は炎天に拘はらす参列者頗る多く真宗の僧侶白井氏の讀經あり發起者及ひ有志の祭文演説等あり同島に於て未曾有の祭典なりしと云ふ」。


頭木弘樹(かしらぎ ひろき)
文学紹介者。二十歳で難病になり、十三年間の闘病生活を送る。そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)を出版。他の著書に『食べることと出すこと』(医学書院)、『落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ』(ちくま文庫)、『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』(春秋社)、アンソロジー『ひきこもり図書館』(毎日新聞出版)など。NHK「ラジオ深夜便」の『絶望名言』のコーナーに出演中。


  


2022年01月02日

第28回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その5」



  今日は宮国さんの誕生日です。今回のトップバッターは、小中学校の後輩である本村佳世(もとむら かよ)さんです。


繋いでもらった宮古との縁


本村 佳世


高校生の頃、ボーダーインク社のいわゆる「沖縄本」にハマっていた。そこでの話や文化が独特で面白く、勉強そっちのけでのめりこんで読んでいた。でも、「沖縄本」とはいえ、どうしても沖縄本島の話題が中心になってしまう。自分の出身である宮古とは言葉も文化も違っているので、寂しさも感じることもあった。せっかく、ばんたがみゃーく(われらの宮古)にも、面白い人も文化もあるのに。だから、宮古の人もこういう本を出したらいいのに、といつも思っていた。


社会人になって2年目の夏、宮古に帰省した時のこと。ブックボックス(現・TSUTAYA)に寄った私の目に飛び込んできたのは『読めば宮古』というタイトルの本。迷わず購入した。そうそう、これ!これさいが!私の欲しかった本。あがい、たんでぃがーたんでぃ(感謝!)。


ページを急ぐようにめくっては、心当たりのある言動に笑い転げた。それから何度も読んで、そのたびに大笑い。この本を編集した「さいが族酋長」宮国優子さんに、会ってみたい。そして、『読めば宮古』を書い方々にも。当時の私にはしかし、自分から連絡をしてみる勇気はなかった。


数年後、ある SNS を始めたばかりの私のもとに、一通のメッセージが届いた。


「宮国優子と申します、怪しいものではありません」


と始まる、そのメッセージを見た時の衝撃は、忘れない。宮古の方言のことについて書いていた私の日記の文章を読んで、気に入ってくださったとのことだった。あっがいたんでぃ!あこがれの人からメッセージをいただくなんて、人生でそうそうない。狂喜乱舞した。


数ヵ月後、優子さんから会いましょうと、まさかの連絡があった。2005年12月18日、自由が丘のスタバで待ち合わせ。初対面とは思えないほど、話が盛り上がった。東京でこんなにひたすら平良ふつを話すことがあるとは思ってもみなかった。当時の手帳を見ると、5時間以上。ここは本当に東京かと思うくらい、次から次へと話題が続く。あんた〇〇、知ってる?同郷の名前が次々と挙がる。私はそのとき、宮古出身なのに宮古らしいものも何も身につけていないこと。そして、せめて祖母が毎日話していた方言だけは、引き継ぎたいんです――。と、そんな話をした。


それから、優子さんからお誘いがくるように。宮古の人の集まり、宮古に関するイベント、講座…たくさん縁を繋いでいただいた。周りに同郷の人もなく、疎遠になっていく一方だった「宮古」を、先輩の優子さんが引き戻してくれたのだった。それだけでも、ご恩は尽きない。


なかでも2010年は忘れられない年だ。宮古のあたらすっふぁ(大切な子ども)たちが、故郷の言葉や文化を受け継ぎ生かしていける人材になれるような機会や拠点づくりをしたい。そんな思いで、優子さんを中心として「一般社団法人 ATALAS ネットワーク」を設立した。そこに立ち会えたことは、本当に光栄なことだと今でも思う。


優子さんと最初で最後の共同原稿がある。イベントレポート「『宇宙とヒトをつなぐもの』スペシャルレポート PART1PART2PART3」は、ATALAS ネットワークの設立直前に書いたものだ。ATALAS の設立のための書類や企画のやり取りをしている最中、「一緒に取材に行って記事を書こう!」と誘ってくれたのだ。今読むと、口語調の文体に慣れていない私のせいで、ハチャメチャ感がすごいが、取材も記事執筆も、貴重な体験で、今でも私の宝物になっている。


ATALAS としてのチーム活動は、優子さんが旗振り役となって何年も続いた。宮古の高校3年生に向けての冊子『島を旅立つ君たちへ』の制作も、その活動から生まれた。高校を卒業すると、その多くが進学・就職のために宮古から離れて行ってしまう。そのとき、故郷のことを少しでもよく知って、誇りに思っていてほしい。どんなときでも故郷が、心のよりどころとなりますように。


私は出産・育児のために『島を旅立つ君たちへ』の最初の発行(2015年)をもってしばらく活動から離れていた。育児がもう少し落ち着いたらまた、と思っているうちに、優子さんは旅立ってしまった。


ATALAS の活動のために、一緒に書類と奮闘して、一緒に調べ事をして、一緒に原稿を書いて…それは、私の「宮古にかかわることをしたい」という思いが、かなった日々だった。優子さんに感謝の念しかない。


いつだったか、私の夢は、祖母たちがそうしていたように、歳を取ったら毎日おばぁ仲間で集まって、方言でおしゃべりして過ごすことだと話したら、「私も!いつか宮古に帰ったらさー、店でも開いて、そこで一日中誰かとしゃべっていたーい!」と返してくれた優子さん。私も、「そしたら私、その店にむぬゆん(おしゃべり)しに行きますよ」と。それから何度となく同じような話をした。訃報を聞いたとき、真っ先にそのことを思い出した。あがえー、優子さん、もう、かなわないさいが…。


夢といえば、優子さんが一度だけ夢に出てきた。


昨年3月の終わり。夢の中で、優子さんと私は、コンテナみたいな広さの真っ白な部屋にいた。優子さんの背後には、白枠の窓。窓越しの向こうも白。曇りの日だったのかもしれない。内部の壁は薄く白い塗料。床には薄黒く木目の透けて見えるアンティーク調の木材が敷き詰められていた。私はその一角の、やはり同じ木目の机にノートパソコンを置いて仕事をしていた。優子さんはその対角の壁際にある、ゆったりとした背もたれの椅子に腰かけ、膝の上にいつもの MacBook をのせて、いつものように仕事をしているようだった。優子さんからそのとき、声を掛けられたのだ。「ねぇ、プリンター貸して」。優子さんの右側には、丸いテーブルがあって、白いプリンターが置かれていた。どうぞー、と私は応えたと思うが、夢はそこまでしか覚えていない。


優子さんがプリンターで出力したかったのは何だろう。私は何か、手伝えることがあるのだろうか、今も気になっている。


宮国優子さん。私とは正反対の、大きな視点をもてる人だった。私の手をいつもぐいぐいと引っ張ってくれた。そのちょっと強引なところが、宮古らしさ、そのもの。たんでぃがーたんでぃ、優子さん。


私はこれからも、優子さんに繋いでもらった宮古との縁を大事にしていきます。


 あけましておめでとうございます。片岡慎泰です。本村さんなので、「一番座」から登場です。やはりこの決まり文句がしっくり。


 今回は、まず、われらが凹天の自筆年譜の一部を紹介します。凹天が日本最初のアニメーション制作開始が、たま子との新婚時代であった可能性がきわめて高いことについて、この巻では岡本一平(おかもと いっぺい)の『夜泣寺の夜話』で検討しました。



川崎市市民ミュージアム所蔵


  この自筆年譜については、伊藤逸平(いとう いっぺい)や大城冝武(おおしろ よしたけ)が、紹介していますが、残念ながら不完全です。また、凹天の実人生を精査すると、謎は深まるばかりです。しかし、ここでは「大正五年」、とりわけ「大正六年」と手書きした後、「大正七年」と書き直したことに注目してください。


 「大正六年」、つまり1917年は、凹天が日本最初のアニメーターになった年です。例えば『凸凹人間』(新作社、1925年)には、次のような記述があります。


活動漫畫フイルム

『凸凹人間』


  『凸凹人間』のこの記述を信頼すれば、天活(天然活動寫眞株式會社)との契約そのものは、1917年1月なのかもしれません。しかし、すでにリッテンとの一連のやり取りや、岡本一平(おかもと いっぺい)の『夜泣寺の夜話』などで根拠を示しましたとおり、それ以前、すでにアニメーション制作の話がもちこまれていました。


  繰り返しになりますが、われらが凹天は、たま子との自由恋愛時代、すでにアニメーション制作を始めていたのです。それも、たま子への激しい愛ゆえか、失明状態に追い込まれるほどに。しかし、結婚してほどなく、たま子は心身を崩してしまいました。




(画像提供Y様)


 すでに異変の兆候が最初の写真からうかがえる向きもあるかと。④の写真のたま子は、もはや目もうつろです。


  この時代は、凹天にとってよほど思い出深かったのでしょう。すでに資料をいくつか紹介しました。このブログでは、当時、天下に知られた「奇人」凹天が結婚していたという新聞記事を紹介します。この記事を凹天は、一生もち続けました。この資料の出典は不明とされていますが、私は記事の内容や他の調査から『新愛知新聞』(現・『中日新聞』)と推定しています。オミクロン株の状況を見極めながら、今後その検証を続けていきます。


  この写真のたま子は、病もかなり進行し、精神に変調を明らかにきたしていることがうかがえます。



(画像提供Y様)


 ただここで再確認しておきたい大切なことは、凹天制作のアニメーションがシネマ倶樂部で公開された時期が、1917年初頭だということです。


  自筆年譜を書いたのは、私の推測では、凹天が喜寿を迎えた1970年です。当時、この歳は、かなりの老齢と言っていいでしょう。そこで、単に記憶を誤ったのか。あるいは、凹天自身が、アニメーション制作開始時を1916年、あるいは1917年と思ってほしくなかったことが分かります。


  記憶違いに関しては、山口旦訓(やまぐち かつのり)は、凹天が亡くなる前年の1972年12月に実際に凹天に会っているのですが、「まるで仙人のようだった」という言葉を残しています。


 意図的ならば、前回述べた二番目の妻の存在かもしれません。しかし、たま子との記録を凹天がずっと身から離さなかったことから、あり得ません。意図的とすれば、天活との契約問題でしょうか。これも調査していきます。


  一番座からは以上です。


  後半は、タンディ常連のひとり渋谷篤(しぶや あつし)さんです。


宮国さん、島旅、島酒


渋谷 篤


ライフワーク、というほど突き詰めているわけではないけれど、ぼくは島旅をずっと続けている。数えてはいないけれど、延べ200島くらい行っただろうか。


いまぼくは仕事の関係で上海に住んでいて、機会があれば中国の島にも行く。一昨年10月には、1日1便の船に乗って小さなシャン(嵊)山に渡った。 上海の沖合にある島だ。


当日の夕方、ぼくは夕食のさなかに突然呼び出しを受け、宿の主人の案内で警察署に連行された。不法滞在を疑われたようだ。取調室を兼ねた部屋の隅っこに置いてある、ちょっと傾いたベンチで、延々と待った。目の前には旅行会社にあるような低めのカウンターがある。その向こうには、ひとりの青年がいた。ルービックキューブと、ケータイのゲームを黙々とやっている。


部屋の中には我々だけ。 ルービックキューブを回す時だけ、「カチャカチャ」という音が部屋に響く。そんな時間がいつまで続くのだろうか。


と、30分ほど経った時だったか。突然、青年の前の電話が鳴る


「……、はい、日本人ですね。目の前に座っています。えーと、パスポートですね。パスポートの全ページをスキャンすればいいのですね」。


ぼくは、受話器を置いたのを確かめるとパスポートを差し出す。


「ちゃんと居留許可証がここに貼ってある。問題ないはずだ。確認して欲しい」。


青年はパスポートを黙って受け取り、ページごとにスキャンし始めた。


窓の外はもう暗い。町外れの山の上にある警察署の控え室は、ほとんど音がしない。白い壁に囲まれた薄暗い無機質な部屋だった。車の走行音が聞こえる時だけ、少しほっとする。が、すぐに静かになる。パスポートを取り上げられたので、ぼくの持ち物は、あと、宿の鍵だけ。


ふと、宮国さんを思い出した。


* * *


2016年の春。


ぼくが主宰している「島旅メーリングリスト」と称するグループがある。島旅が流行る前からの濃いメンバーが多く入っている。そんな濃いメンバーのひとりから、「島旅君」のことを聞いた。『島を旅立つ君たちへ』。宮古島の4つの高校の、卒業生に配られるリーフレット。略して「島旅君」。


「島旅君」をぜひ入手したい、そう伝えると、大岡山に行けという。大岡山には、「Tandy ga tandhi(タンディ・ガ・タンディ)」という宮古島の拠点があると。 ちなみに、彼は今、宮古島に住んでいる。


大岡山は一時期通いつめた場所だ。大岡山に住む島旅作家、河田真智子(かわだ まちこ)さんに会うためだった。活動の中心は季刊で全4ページ一色刷の同人誌だった。30年間以上(1978~2008)続けた「ぐるーぷ・あいらんだあ」。


ぼくはそこに挟み込むコピー製版 B5 両面刷りの「あいらんだあ折込付録」の編集と、ホームページ作成を担当していた。数ヶ月に一度、河田真智子さんのご自宅にお邪魔して、結局お酒を呑みながらいろいろな島の話をして、帰宅。10年くらいそんなことを続けた気がする。


宮国さんの拠点は、まさにその通い慣れた道の途中にあったのだ。


しばらくご無沙汰していた河田さんの家に顔を出し、そこで時間調整してから河田さんと一緒に「タンディ・ガ・タンディ」を訪れた。


事務所と聞いていたのに、そこはバーのような空間で、カウンターの向こうに宮国さんがいた。ショーチューを舐めながら延々と話をした。「島旅君」を知った経緯。仲間を募って多良間水納島に泊まりに行ったこと。「島旅メーリングリスト」の仲間の話題。「ぐるーぷあいらんだあ」の河田さんとの関わり。


それから、そこに呑みにいくようになった。


カウンターの向こうの宮国さんは、いたり、いなかったり。いないときでもその場所でひとりショーチューを呑んでいると、宮国さんが現れたりした。現れなければ、そのまま帰ることもあった。


落ち着く空間だった。本棚があって、本棚の横にはソファーもあった。たいてい夜の9時か10時くらいにふらりと寄って、11時過ぎに帰った。時計の針はいつもあっという間に進んだ。注意していないと最終電車の時間を逃してしまう。


そんなときは新橋に出て、そこから千葉方面の深夜バスに乗り換えて帰った。


* * *


シャン(嵊)山の警察署では、時間が恐ろしいくらいゆっくりと流れていた。


このまま拘束されてわけもわからず過ごす、誰とも連絡が取れない、そんなことが実際に起こり得る国だ。車の走行音にほっとすることもあるが、実のところ、ちょっとした物音にびくっともする。10分ぐらい待っただろうか。男の前の電話が突然、また鳴った。


「……あ、そうですか。居留許可証があればいいのですね。では、帰しますね」。


電話を切った男は、ぶすっとした表情でパスポートを投げるようにぼくに渡すと、「帰れ」と、一言。


薄暗い警察署の部屋から出てみると、そこには実直な宿の親父が待っていた。ずっと外で待ってくれていたらしい。


「問題なかったか」。


「問題なかった。ありがとう。ほんとうにありがとう」。


「それはよかった」。


外国人を見たことのない宿直の新米警察官と知っていたのだろう。ルービックキューブをあれだけ回していたのに、一面も揃えられないのか謎だった。そう伝えたかったが、中国語の能力が足りず、言えなかった。


中国で仕事をする外国人は、一旦、3ヶ月など期限付きビザ(パスポートに添付される)で中国に入国。それから、地方政府に居留許可証の発給を申請する。めでたく居留許可証が出れば、今度はパスポートに新たに貼られる居留許可証がビザの代わりになり、それまで有効だったビザには「失効○○年○月○日」という大きな印鑑が押される。


そういうわけで、ぼくのパスポートには、2年前に失効したビザと、居留許可証が貼ってある。ルービックキューブを一面も揃えられない新米警察官は、「居留許可証」を見たことがなかったのだろう。


まあしかし、こんな外国人の来ないような離島に来たぼくは、間違いなく文字通り異邦人なのだ。ふだんの常識にないものを島にもち込めば、その解決に時間がかかるのは当然だ。島は海に囲まれている。何でも受け入れられるほど広くない。だから、島の社会は、普通の人には排他的に見えるくらいで良いと思う。


そんなことを宮国さんと話したことがある。宮国さんも賛同してくれた。


島人と、異邦人。ちょっとしたことでも分かり合うには時間が要る。ルービックキューブ然り、「居留許可証」然り。


* * *


メッセンジャーで、宮国さんは何度も、中国に行きたいと言っていた。来るとすればテーマは何?と聞いたら、「民族、文学、暮らし、手仕事」とのことだった。


「なにも考えず、目的もなく、ふつうに生活してみたい」。


「それは分かる」。


「観光は苦手」。


「ぼくも人混み疲れる。町をただ歩くのが好き」。


ぼくが、中国で興味がある対象は、宮国さんと同じで暮らしに直結したものだ。市場の喧噪、売っている野菜、におい、においのもとである発酵食品、そして酒。


コロナでどこにも行けない時期は、中国の野菜、麹、酵母などを調達し、さまざまな発酵食品を作った。味噌や納豆、ザーサイ、発酵ピクルス、ジンジャービール。中国は野菜が豊富で、規格化されていないから面白い。宮国さんも面白がってくれた。納豆を作る人は自分以外では初めて見た、と言っていた。


中国でコロナも落ち着いてきた去年の初め、中国の伝統酒、白酒(パイチュウ)の産地を旅した。貴州から四川省にかけて、中国の山間にある寒村には、国酒と言われる茅台(マオタイ、町の名前)や、一番人気のある五粮液(ウリャンイエ、五種類の穀物から作る)の工場がある。


迂闊なことに、この旅に出るまで、ぼくは白酒の作り方を知らなかった。ワインを蒸留したらブランデーになり、清酒を蒸留したら米焼酎になるのと同じように、白酒は普通に醸造酒を蒸留して造るものだと思っていた。


行ってみると、工場は、醸造所と蒸留所に分かれていた。しかし、醸造所の工場を覗かせてもらうと、広大な倉庫のようなスペース一面に、2メートル四方くらい、高さが1メートルくらいの土山が数え切れないくらい並んでいた。その土山から香しい発酵臭が漂い、歩いているだけで酔っ払いそうだ。


土山

土山



聞けば、この土山それぞれの中に、麹と穀物が埋めてあり、それが徐々に発酵するのだという。ここは中国最大の河川、長江の中流域。水がないわけではないけれど、きれいな水が豊富に手に入るわけではない。そこで水を使わない世にも珍しい醸造法が考え出された。堆肥を作る方法と同じだ。土で蓋をして密封しておくと、ゆっくり固体発酵が進んでアルコールが生成する。


ある程度発酵したら掘り返して、蒸し器に乗せる。蒸し器で上がってきた蒸気を集めれば、一回でアルコール度数が60度を超すものが取れる。これが白酒のブレンド原料になるのだそうだ。


固体発酵は効率が悪く、発酵し終えるためには、何度も繰り返す必要がある。だから、蒸し終わった原料はまた土に埋めて、二次発酵させる。それを繰り返すと穀物の中心部分まで発酵が進み、うまみが増えてくる。さらに繰り返すとだんだん雑味が多くなっていく。全部で9回繰り返すのだそうで、工場では一次、二次、三次……、と、9種類の白酒が試飲できるようになっていた。


真ん中の四次、五次あたりが最もうまい。うまい白酒は高級品で、一番高いものは工場直販でも一瓶500ml、日本円で2万円もの値段がする。専門のブレンダーがいて、味が一定になるようブレンドするのだそうだ。ブレンドするものによって値段が大きく異なる。


同じ工場の酒でも、地元の人が飲む酒は一瓶300円くらい。最初と最後のを多く入れるのだろう。無駄がない、とても合理的な方法だ。ビジネスモデルとしても天才的ではないか。金持ちに高額で買ってもらった残りの白酒が、庶民の酔いを支えているわけだ。


さんざん試飲をしたうえ、夜もたくさん呑んでしまい、完全にふにゃふにゃになって帰ってきた。


でも、宮国さんへのみやげ話ができたと思った。宮古島の泡盛である。


この固体発酵の技術が考え出されたのは、それほど昔ではなく、歴史は600年ほどらしい。さらに山奥の雲南省が起源だという。酒造業としてシステム化されてからはせいぜい400年程度だそうだ。そしてその技術は、琉球王朝を任命する冊封使(さつふうし)や貿易を介して、琉球にもたらされたはずである。


琉球王朝の記録にも、中国から伝来したとの記載(『琉球国由来記』)があるし、新井白石(あらい はくせき)の『南島誌』には、醸造方法として「封醸」という言葉が使われている。液体発酵では密封しないはずだから、これは明らかに固体発酵を示していると考えられる。


考えてみれば沖縄も長江流域と同様、醸造に使える水は豊富ではない。隆起サンゴ礁の島々は特に、水を得るのが難しい。しかし、白酒の方法であれば、蒸すときに使う水は海水で十分だ。さらに海水を沸かした後に、その濃縮液から塩を作ることだってできる。


宮古でも、初期この固体発酵技術で泡盛が作られていたはずだ。きっと、薩摩から入ってきた液体発酵の技術と併用するようになり、最終的には淘汰されたのかもしれない。


昔の醸造技術で、昔の泡盛の味がどんなだったのかを試すのも楽しそうだ。会社勤めを終えた後、どこかの酒造所と、なにかできないかなあ、なんて漠然と考えたりもした。


そんなことで久しぶりに宮国さんと連絡を取ろうとして、Facebook の履歴をさかのぼり、はじめて訃報を知った。


普段、中国で生活していると、VPN を介さないと Facebook も Yahoo 検索も使えない。だから、気づかなかったのだ。いや、気づけよ、という話に違いない。


つくづくぼくは迂闊だと思う。


なんでも自分でやってみる、その場に身を置いてみる。それが一番楽しい。そんな道をぼくは、宮国さんを追いかけて歩いているつもりだった。しかし、宮国さんは、いつの間にか前にいなかった。親と一緒に歩いているはずが、いつの間にか見失って迷子になってしまった子供のようだ。


まあしかし、宮国さんのことだから、ふらりと下界に降りてくることもあるだろう。


きっと会う人が多くてなかなかぼくのところまでは来てくれないかもしれない。でも、上海にも行きたいと言っていたから意外と早く来てくれるかもしれない。きっとぼくが酔っぱらっているすきに、いつの間にかそばにいる。そして、いろいろな話をしているのに、翌日ぼくは、忘れてしまっているのかな、と思う。


いや、ぼくは上海の住まいでも毎日酒は欠かさないから、もうすでに何回か来てくれているかもしれない。


そういえば、「タンディ・ガ・タンディ」に行って話をするときも、いつも酔っぱらってから訪問するのが常だった。


冥福を祈ります。


こちらでまだまだゆっくりしてから「タンディ・ガ・タンディ」に行く予定です。もう来てくれたのかもしれないけど、そして、大岡山かどこにいるのか分からないけど、のんびり待っていてくださいね。



【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1940年失踪
凹天の最初の妻。
詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


フレデリック・S・リッテン1964年~
図書館司書、中国学研究者、日本創生期アニメーション映画研究者。カナダ・ケベック州モントリオールに生まれ、ドイツで育つ。ミュンヘン大学卒。1988年中国学で修士号、1991年に科学史で、博士号取得。ミュンヘン大学やアウクスブルク大学で、研究員や非常勤講師。2006年からバイエルン州立図書館に勤務。新聞や雑誌に、近・現代史について寄稿をする。日本のアニメやマンガなどについての論文や著作もある。代表作は『Animated Film in Japan until 1919. Western Animation and the Beginnings of Anime』。
詳しくは、第22回「下川凹天の撮影技師 柴田勝の巻 その10」


岡本一平(おかもと いっぺい)1886年~1948年
漫画家、作詞家。妻は小説家の岡本かの子。岡本太郎の父親。東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に進学。北海道函館市生まれ。卒業後、帝国劇場で舞台芸術の仕事に携わった後、夏目漱石の強い推薦で、1912年に朝日新聞社に入社。漫画記者となり、「漫画漫文」という独自のスタイルを確立し、大正時代にヒットメーカーになる。明治の樂天、大正の一平と称される。東京漫畫會から、漫畫奉公會まで、多くの団体で凹天と関係する。凹天の処女作『ポンチ肖像』の序文を書く。『一平全集』(全15巻・先進社)など大ベストセラーを世に送り出す。口ぐせは、50円もらったら、80円の仕事をしろ。かの子の死後、すぐにお手伝いの八重子と結婚。4子を授かる。漫画家養成の私塾「一平塾」を主宰し、後進を育てた。戦中は、書生のひとり(実は元妻かの子の愛人)の伝手で、岐阜県美濃太田市に疎開。疎開中は、地元民と「漫俳」を作り、慕われる。当時の加茂郡古井町下古井で入浴中、脳溢血で死去。急死のため、葬儀には太郎などの他、漫画家では、宮尾しげお、横山隆一、横井福次郎、和田義三、小野佐世男しか集まれなかった。


山口旦訓(やまぐち かつのり)1940年~
ジャーナリスト、日本初期アニメーション映画研究者。宝くじ研究者。東京府麻布區霞町22番(現・東京都港区)生まれ。福井県へ疎開の後、1950年に東京に戻る。
詳しくは、第10回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その2 」第25回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その2」


河田真智子(かわだ まちこ)1953年~
島旅作家、写真家。東京生まれ。成蹊大学卒。マリンスポーツ関係の会社を勤務した後、1978年、ぐるーぷ・あいらんだー設立。機関誌『あいらんだあ』を通じて、島の魅力を伝え続けている。長女に夏帆。1991年より、マザー・アンド・マザー主宰。奄美群島振興開発委員、鹿児島県100人委員。『島旅の楽しみ方 作戦開始さあ島へ行くのだ』、『『島旅』の楽しみ方』、『生きる喜び 河田真智子写真集』、『ひとりひとりが宝もの』など著作多数。


【2023/03/21 現在】  


2021年11月22日

第27回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その4」




 今日は宮国さんの一周忌です。トップバッターは、法政大学沖縄文化研究所元所長の屋嘉宗彦(やか むねひこ)さんです。


宮国優子さんを偲ぶ


屋嘉宗彦


宮国さんとは法政大学沖縄文化研究所で知り合った。宮国さんが総合講座に来たときか、あるいは何か調べ物で来所したときかだったと思う。森本さんに紹介してもらった。宮古の人らしい、どこも縮こまることのない明るさと大きさがあった。


宮古在住のある先生に総合講座の講師をお願いするため、宮古へ飛んだことがある。別用で宮古に滞在していた宮国さんは、私と先生が会うための手筈をととのえた上、一緒に先生を説得に来てくれた。一通りの話が済んだあとというかそれと一緒にというか、宮国さんと先生とが延々と語り合う宮古の話の断片は今でも記憶に残っている。


先生は、高齢を理由に東京での講義を承知してくださらなかった。他にも理由があったのかもしれないが、宮国さん同様、剛直な宮古の人だった。次の日、ひとりで旧平良市内の御嶽めぐりをして、その次の日は宮国さんグループの狩俣、池間ツアーに参加し、夜は宮国さんのグループの飲み会に参加させてもらった。参加の宮古の人たちも色々な個性があるのだろうが、まずは宮国さんと同様な気質を強く印象づけられた。


その後、総合講座のあとの懇親会では何度も宮国さんと一緒に飲んだが、深く話し込むことなく、「自由が丘で今度!」というのが解散して別れるときの合言葉であった。そのうちにと思っているうちに宮国さんがいなくなってしまった。


 こんにちは。お久しぶりの片岡慎泰です。


 たま子の精神的変調は、好転の兆しもなく、悪くなるばかりでした。われらが凹天は、金銭的に困っていたにもかかわらず、妻を病院に入れたり、いろいろ手を尽くしました。


 もっとも、凹天自身が、妻の快癒を願っていたとしても、その時代の言動はひどいものでした。それは「変人」という一言で片付けられません。慧星会(すいせいかい)や、東京毎夕新聞時代における乱痴気ぶりは、それはそれはすごいとしか言いようがありません。時代は、世界恐慌、昭和恐慌へと向かっていきます。


 後年、凹天の弟子である石川進介(いしかわ ちかすけ)は、山口豊専(やまぐち ほうせん)の追悼文で、次のように記しています。


 「私が昭和の初めの頃に、東京毎夕新聞の漫画ペーヂ担当の下川先生の門下生同人にあった時、同人大先輩としての山口さんに初めてお目にかかりました。
 当時の同人軍といいますと、山口さんの匹敵に黒沢、益子、内田、八木沢、富山、武井、鈴木(利三)、石川、というメンバー。慧星会という名の会でした。
 会の毎回の例会(銀座五丁目出雲亭)をはじめ・・・クロッキー会、観桜、ピクニック、祭礼行事、ダンスと大騒ぎの催事がつゞき、漫画の世界いうのはこんなにすさまじいものかと・・・・・・と目を見張らせられたものでした」。


 石川信介は、この時代から、凹天の最晩年までずっと一緒に活動し、凹天の遺品を受け継いだところから、まさに「高弟」と呼ばれるのにふさわしい人物です。


 佐宗美宗(さそう よしむね)は次のような追悼文を書いています。


 「森熊猛氏を『クマさん』と呼ぶ様に、信介さんの『チカちゃん』はわれわれ仲間でも、一番の長老で、たしか八十八、九才になると噂をしていた。黒ベレー帽子を前深く冠り(これは禿げかくし?)いつもキレイにヒゲを剃り身だしなみのダンディーさは年より若く見えたのかも知れない。私が昭和七年六月(六十三年前)銀座数寄屋橋のランチカウンター(アラカルト食堂)の二階で新漫画派集団旗揚げ創立時代、黒沢はじめ、益子善六(しでお)氏らの慧星会(下川凹天先生)から、少し遅れて参加されたチカちゃんだったが、最初から親しく声をかけてくれた人だった。当時、すでに彼は26才、近藤日出造、横山隆一氏より3才上か、私より7才上だったが、中折帽子にダブル背広のモダンボーイで集団ではお兄イさんだったわけ。下川凹天先生と信介さんの師弟関係は久しい」。


野田市郷土市博物館・市民会館所蔵

野田市郷土市博物館・市民会館所蔵


 野田市文化功労者表彰式にて。杖をついているのが凹天。最後列が石川信介。左隣が山口豊専(写真提供:山口君子様)

野田市文化功労者表彰式にて。杖をついているのが凹天。最後列が石川信介。左隣が山口豊専
(写真提供:山口君子様)


 凹天の遺品については、このブログで書きましたが、2019年の台風19号の影響で、資料がどうなっているのか分かりません。また、移転問題もあるため、すでに始まった修復資料のアーカイブ化が進むことを祈るばかりです。

 2019年にあった台風19号の影響で水没した凹天資料の一覧です。どこまで修復が進んでいるのか、調べることができませんが、川崎市市民ミュージアムの協力者の尽力に期待しています。


下川凹天関連収蔵品リスト
(別ウィンドウが開きます)


 凹天門下のもうひとりの高弟と呼ばれる森比呂志(もり ひろし)は、1931年、初めて凹天と出会ったのですが、その時のことを記録に残しています。


 「昭和六年私は毎夕新聞の投稿家として選者であった凹天先生にはじめてお目にかかった。その頃先生は、世田ケ谷の豪徳寺駅のそばに住んでおられた。自らを遺伝梅毒と称し道を歩くにも頭の上に氷のうをのせている、と何かに書いていたが、お目にかかってみるとそのような気配はなかった。これも詩人らしい自虐の歌か。きれいな奥さんがいた。先生が中央新聞に籍をおいているときに向かいあわせの机にきれいな奥さんがいてチラチラと先生に秋波を送ったという。そんな縁で一緒になったというお話をうかがったが、このロマンスも詩人らしい歌がきこえる」。


 すでに書きましたが、磯部たま子との出会いは、『ポンチ肖像』が機縁です。ということは、中央新聞時代に出会ったというこの女性は誰なのでしょうか。現段階では、たま子が、中央新聞に在籍した記録はありません。また、二番目の妻、菅原なみをと結婚したのは、1940年です。


 いくつか仮説を述べておきます。


  1. ①この記録の「きれいな奥さん」は、たま子で、凹天が、弟子をけむに巻いた。
  2. ②実は、まだ現段階では知られていない愛人がいた。
  3. ③二番目の妻となるなみをとすでに一緒に暮らしていた。

 森比呂志は、当時、駆け出しの漫画家でした。豪徳寺で初めてあったふたりが、どういう経緯で一緒になったか、知る由もなく、その時点では、知ろうとも思わなかったでしょう。


 ただ、当時のたま子の病状からすると、一緒に暮らせたとは考えられません。


 また、時代背景として、愛人がいても不思議ではありません。しかし、弟子などの記録から判断すると目に余るものがあります。もちろんこれは、現代の基準からですが。ただし、凹天の行状は、今ならネットで大炎上でしょう。例えば、1937年7月17日付『讀賣新聞』夕刊では、こんな特集が組まれています。それは、当時における芸能界の大物が、東京各地のデパートをめぐり、デパートガールを品定めしながら、「嫁探し」をするという企画でした。曽我廻家五九郎(そがのや ごくろう)、初代柳家三語樓(やなぎや さんごろう)、東喜代駒(あずま きよこま)、ラッキーとセブン、渡邊篤(わたなべ あつし)とともに、冒頭に登場するのが凹天です。


デパート(ジャパンアーカイブスより転載)

ジャパンアーカイブスより転載


 「“デパートでお嫁さんを探したい”とはだれも願ふところ女軍氾濫の大河だ、その魚たちは薄い鱗の下に、ピチピチと肉の躍動を見せてゐる、いまこのときだ!藝能人氣者は花嫁探しの釣竿をもつて、敢然糸を垂れた、釣りあがったか?美しい魚が手に入れば、誰か秋のシーズンに結婚するかもしれぬ」。


 デパートガールは、当時の女性にとって、花形職業でした。とは言っても、社会的地位は、低かったという証言も残されています。以下の記事も今ならネットで大炎上でしょう。 


 「銀座松屋
 冒頭に凹天登場。一階はむせ返る暑さ、水着賣場がシーズンの寵児ぶりをみせて、學生や娘サンの山、山、山…こゝへ颯爽と登場した若者(ですか)こそわが花婿凹天サン、見つけた!獲もの!!、
 “あのいまゐた518の人は”凹天サンは監督さんを呼んで直會はせ、すぐに鉛筆をナメて素早くスケツチ、サテー
 “あンた何ンていふンです”
 四十五歳の彼氏、ちよいと言葉がぞんざいだ!
 “上野たまのといひますの、山梨の都留女學校を卒業して母とふたり暮らしですワ”
 “えゝ養子にボクを欲しいつてンですつて”
(ヘコ先生、耳が遠いふりでせう)
【下川凹天サンの言葉】あの人は模範店員だとさ、僕はゴツゴツしてゐるンで反對にまる顔の娘が好きさ、あの娘さん貰ひたいな、待てよ家に帰つて女房と一つ相談しよう
【上野たまのさん曰く】こはさうな顔していらつしゃるが、案外親切さうな人ネ、だけど、二廻りも違ふんですもの、それにあたし、獨り娘でせう…ネ【漫畫は凹サン筆の上野たまのさん】」。


 さらに、後年の凹天が、最初の妻たま子の存在を隠そうとしていたことから、このブログでは、すでにこの時期には、菅原なみをと暮らしていたということを記しておきます。 


 後半は、ミュージシャンのアラカキヒロコさんです。


「あたらす」


アラカキヒロコ


優子さんについてブログ記事を書いてもらえないかとお話をいただいたとき、「もちろんです」とお受けしたものの、いざ綴ろうとするとなかなか筆が進まなかった。


相手を選びそうな話題でも話がどしどし弾んでしまう、あるいは、物事に対する感覚の微妙なニュアンスを受け止めて言葉を交わし合えるような関係性になれる人は、私の人生にはやたらめったら登場してこないが、優子さんはそれができる貴重な人だ。話していると心が自由になれて嬉しい。ただ優子さんをめぐる気持ちの大部分は他の誰でもない本人に言いたいことなので、優子さんが目の前にいない今、どうしようもない、仕方ないので一人想いを馳せることにして、ここでは、私から見えていた優子さんとの景色の一部を綴っていこうと思う。


優子さんとはじめて会ったのは、2014年の7月、優子さんが運営していた東京・大岡山にある、“カフェかバーか、はたまた誰かの家のリビングか、といった趣の場所”「Tandy ga tandhi (タンディ ガ タンディ)」だった。


それ以来タンディでは何度かライブもさせてもらった。優子さんは私の音楽をとても気に入ってくれたようで、店内に音源も置いてくれて、かつ流しまくってくれたので(そういえば、CD をまだ置きっぱなしかも)。曲を記憶した常連のお客さんたちがライブで歌を口ずさんでくれた。さらに「あの曲を歌いたいから」とリクエスト、ついには私の CD 音源を流しながらみんなが歌うこととなり会場が歌声喫茶と化した。そうなるともはや本人の生歌がその場に必要なのか謎なのだけど(笑)、自分の曲を覚えてたくさんの人が歌ってくれる嬉しさをあの夜教えてもらった。タンディは今のところ音楽人生においてライブで合唱が起こった唯一の場所だと思う。


優子さんにはいつも自分の意見が明確にある。信義に悖ることや違うと思うことには積極的に物申し、(私ならスルーしてしまいそうなことも)違和感があれば納得いくまで意見を述べて徹底的にやりあう様は、アグレッシヴで律儀に見える。


そしてそれは往々にして宮古島への愛に端を発しているように見える。


以前、研究者の友人が翻訳に窮していた「アタラサヌ」という単語を優子さんに質問した時、「ひろこちゃん!これは私たちの社団法人 ATALAS の理念なのよ!偶然!」と、「あたらす」とは宮古島の方言で「かけがえのない」「大切な」「もったいない」などの人やモノへの愛着を示すものなのだと ATALAS サイトから抜粋して説明してもらったことがある。


私にとって「イベントで数時間滞在した島」だった宮古島が、優子さんがいたことで自分から訪れる島になった。島にいくつもの繋がりができた。すると、私が1歳の時に他界した祖母が宮古で育ったことも急に気になり出した。みゃーくふつを感じて街を歩き人と話すと、ほとんど記憶のない祖母が自分の中で現実感を伴って肉付き始めた。宮古が私にとって「対象」から「自分の一部」に広がり、それが私を豊かにした。


家族の話をしていた時だっただろうか、優子さんの「どんなに喧嘩していても、出かける時はちゃんと挨拶するよう(子どもたちに)言ってる」という発言を思い出す。それは海人的文化からきていた。海での落命は珍しいことではない。家族が漁に出る。最後に目も合わさず無視したまま海に出て、その家族が二度と帰ってこなかったとき、それはもう取り返しがつかない、ということだ。たしかにそのとおり、と思った。それ以来自分でも気をつけるようになった。


優子さんは必要以上にベタベタしないし、意見が違っても個人を尊重してくれる。だから、たとえば、沖縄島あるいは首里と宮古との琉球王朝時代からの関係性やその延長線上の文化について、首里出身の私と宮古出身の優子さんとで身構えずに話ができること、そのまったく異なる目線での想いや考えを交換できる時間の有り難さを想う。正直でフランクな優子さんを信頼している。


優子さんがよく使う「琉球弧」という視点も好きだ。


今、私は沖縄島に住んでいる。このあたりには島が無数にある。それぞれの島の数だけ、もとい、島の中にだって無数の個性的な文化がある。これは私のイメージだが、「沖縄県」「沖縄」「宮古」「八重山」・・・と区切って比較するとわりとミクロな話になり文化や想いの差異から生じる葛藤に焦点が合っていくことが多い気がしてならない。しかし、そこでふと「琉球弧」という視点にシフトすると、急に地球を宇宙から眺めはじめたような感動がある。ジオラマのような灯りのすべてに、ふたつとない個性が、人々の生活が、営まれ、魅力的な輝きを放ってひしめき合っているような。


優子さんが、私について書いてくれた記事がある。


note | 琉球弧は、宝石。アラカキヒロコさん。(2017年4月18日)


ライブ中に携帯をしきりに打っている様子だったので、急な用事でも入ったのだろうと思っていたら、私のことを書き留めていてくれたのだった。


どっちにしても、彼女の歌は、珠玉だ。今の沖縄島そのものだと思う。

琉球弧は、宝石。だれかが言っていた、ネックレスアイランド。
輝く島々で出来ている。似ているようで、どれもちがう。色も形も。
キラキラと、輝きだけが似ている。
自然にあれば、ただの石なんだけど、人が価値をつける。
それは美しいけど切なくもある。
アラカキヒロコさんの歌に似ている。


引用した理由は、正直言って半分は、私にはこんなふうに言ってくれる素敵な友がいるんだぜ、えっへん。という自慢だ(すみません)。


普段、自分の音楽をやるにあたって誰かが必要としているから/認めてくれるから、というのは気にしすぎないようにしている。他人の評価を基準にすると良くも悪くも心がグラグラとせわしないから。でもやっぱり、優子さんにこんなふうに言ってもらえたことは自分にとって励みだった。湿っぽい思考回路は昔さんざっぱら謳歌したので、今、もうあまり思い出を掘り起こして切ない気持ちになったりしたくないのだけど、読むと"miss"の気持ちがひたひたと押し寄せてくる。寂しい。(この優子さんへの気持ちも「あたらす」なのだろうか。)


輝く島々で出来ている。似ているようで、どれもちがう。色も形も。
キラキラと、輝きだけが似ている。
自然にあれば、ただの石なんだけど、人が価値をつける。
それは美しいけど切なくもある。


もう半分の理由は、そこにある文章にあらためて共感したからだ。そうなの。私も優子さんも、輝きの似た、色も形も違う、「同じ」になることはない宝石のような島々に生まれた。この島々は、輝いているから人に求められ、価値づけられ、そして次第に姿を変えていきもする。しかし名付けられ、ある文脈で価値あるものとして人々に捉えられ始めれば、評価はされるが、もう以前とは違うものになってしまう。


そのとき切なさを感じるのは、この場所を愛しているから。でも、変わっていくのを止めるのも違う。私は、変わりゆく抗いがたい流れの中で、どうせならこんなふうになってほしい、と言える人でありたい。ねえ、どう思いますか。いつだって好奇心に満ち、私だけでなくたくさんの存在に「輝き」を見出せる、未来の話ができる優子さんと、今、そんな話がしたい。




【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1940年失踪
凹天の最初の妻。
詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


石川信介(いしかわ ちかすけ)1906年~1995年
漫画家。東京府南葛飾郡吾嬬村(現・東京都墨田区東墨田)生まれ。明治中学卒。本名は石川忠進。あだ名は、本名の読み方「タダチカ」からチカちゃん。父は駿河台警察署長。最初は警察に勤める。新漫画派集團創立に少し遅れて、参加。大酒飲み集団で知られる慧星会会員だが、酒は飲めなかった。ナンセンス、風俗美人、水墨と画境を広げ、亡くなるまで似顔絵に意欲を燃やした。代表作は『エムさん』。ペットに猫の「チビ」、犬の「ムク」。ただし、猫嫌いだった。娘に千香子がいる。漫画広告賞受賞。漫画集団、日本漫画家協会、野田まんがクラブ、凹天の「百才スタートを励ます会」、千葉県漫画家連盟(メンバーに山口豊専、内田順三、横木健二などがいる)に所属。凹天亡き後の慧星会および下川凹天顕彰会会長。凹天の自筆年譜に二行書き加える。晩年は腎臓がんに苦しみ、肝硬変からで呼吸不全(心不全との記録もあり)死去。


山口豊専(やまぐち ほうせん)1881年~1987年
漫画家、日本画家。千葉県印旛郡白井(しろい)村(現・千葉県白井市)に生まれる。
詳しくは、第9回 「下川凹天の盟友 山口豊専の巻 その1」


森比呂志(もり ひろし)1912年~
漫画家。神奈川県橘郡田島郡小田(現・川崎市川崎区小田)に生まれる。
詳しくは、第3回 「下川凹天の弟子 森比呂志の巻 その1」



【2023/03/21 現在】
  


2021年05月26日

第26回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻その3」



今日は凹天の命日です。宮国さんが、ヤマト形式のお墓を初めて拝んだのは、凹天の墓でした。トップバッターは、作家の姜信子(きょう のぶこ)さんです。



実に不思議な縁でした。


姜 信子


振り返ってみれば、宮国優子さんと知り合ったのはほんの3年ほど前、なのに、もうずっと前からの知り合いのようで、短い間に本当に忘れがたいいろいろな出来事が彼女との間にはあったのです。私は彼女のことを「隊長」と呼んでいました。その懐の深さと、人懐っこさと、人と人をつないで生まれる新しい可能性を面白がる心と、そうやって人をつないでいった責任をきっちりとる面倒見の良さゆえの呼び名です。(しょっぱなから、私、褒めまくりですね。いやいやいや姜さん、それは言い過ぎ、アハハハハ、と手をぶんぶん振りながら笑う隊長の顔が見えるようだ)


初めて会ったのは2018年7月7日。神奈川大学で催された公開研究会「宮古・八重山の御嶽と神社―近代沖縄の地域社会と祭祀再編」でのこと。私は石垣島から講師としていらした大田静男(おおた しずお)さんに会うために、隊長は同じく宮古島から講師としていらした下地和宏(しもじ かずひろ)さんに会うために、大学の教室へとやってきた。研究会終了後の懇親会で彼女が宮古島出身ということを知りました。そのとき宮古島がらみで厄介な案件を抱えていた私は思わず彼女に相談したのです。


「実は、宮古島で“神ダーリ”になって苦しんでいる人がいるんですけど、私がたまたま八重山に縁があるというだけで相談を受けてしまって……。彼女の話を聞いてやってもらえませんか」


尋常でないことを初対面の人にいきなり話したわけなんですが、すぐさま答えが返ってきた。

 「いいですよー、私の携帯に電話するように言ってください」

 ここからいろんなことが始まったんです。


隊長の根拠地「Tandy ga tandhi」が大岡山だったこともまことに奇遇、私はかつて大岡山に住んでいて、日々うろうろしていた界隈が、まさに Tandy ga tandhi のある辺りでした。


そんなこんなで二人で、おおおおおお!というようなことになっていたわけです。


まもなく、隊長からお誘いがありました。紹介したい人がいるから、大岡山に来ませんかと。(当時私は八王子に住んでいました。ちなみに今は奈良です)。


もちろん行きましたよ。宮古島で何かが弾けて草木の声(つまりカミの存在)への感性が鋭くなったという女性(呼び名を「聞き耳ずきん」ということにしておきます)がそこにいました。そして、その出会いから「野生会議」なる集団が生まれた。


「神ダーリ」とか「聞き耳ずきん」とか言っていると、なにか誤解を招くかもしれませんね。わかりやすく言い直します。私たちは、私ならば在日韓国人という旧植民地の民の立場から、隊長や聞き耳ずきんは島の世界観から、この近代世界を問い直そう、近代を突き抜けて生きていくための場を開こう、という点で思いを同じくしていたのです。


そのためのささやかな試みを共にしていこうではないかと、まずは Tandy ga tandhi でそれぞれが自分なりのアプローチで語り合うささやかな「場」を開きました。


さらに、一つの大きな試みとして、野生会議@水俣と称して、それぞれの場所で近代を乗り越える模索や試みをしている者たちが集って、共に語らい、共に飲んで食べて、共に歌い遊び、近代的な人のつながりとはまた別のつながり方、別の生き方闘い方を模索してゆく「場」を、水俣・久木野の愛林館で開いたのが2019年9月のこと。二泊三日の泊まり込み合宿でした。


このとき、隊長は厨房の総指揮者として30名もの参加者の食事の支度を仕切りました。ほとんど初対面の参加者たちが共に料理をすることになった厨房での采配ぶりは、それは見事なものでした。これはいまだに参加者の間で伝説となっています。同時に参加者の集うさまざまな空間や時間の片隅で、隊長は常に全体の動きを俯瞰して見ていました。


「いま水俣でやっていることを次は宮古島につなげるために、プログラムの組み立て、人の動きを冷静に見ては考えている」。


そう隊長は言っていたのです。


来年2020年は宮古島に集まれ!


水俣ではそんな呼びかけもしていたのです。残念なことに、コロナ禍で揺れつづけた2020年にそれが実現されることはありませんでしたが……


短い間ですが、隊長とは、爆走するようにして愉快痛快な試みの時間を共にしました。その間、私は、隊長がほとんどまともに寝ない人だということに気づきました。仕事をしながら、誰かと語らいながら、何かを企みながら、そのうちソファで寝落ちするようにして寝る。自分の時間を惜しまずに人のために使うから、同時に生きていくために精一杯仕事もするから、精一杯に親もしているから、島のことを考え、島の未来をわがことのように考えつづけていたから、本当に寝てなんかいられなかったのでしょう。思えば、野生会議水俣合宿でも、彼女は会場となった愛林館のソファで寝ていました。いや、ほとんど寝ていなかったのではないか。


聞けば、私と彼女が親しくなるきっかけとなった「神ダーリ」の女性とも、一度の電話に二時間は費やすような徹底した向き合い方をしていたのでした。私とも一度話しはじめたら半端なところで話はやめない。最後に隊長と会った時には、大岡山 Tandy ga tandhi のすぐそばの珈琲館で5時間ほども話し込んだのでした。誰とでも、必要とあらば、そのような向き合い方をしていたのでしょう。身を削って、命を削って、誠実に人と向き合い、状況と向き合い……。


生き急いでいる。そんなふうにも見えました。でもきっと彼女にとってはそれが一番自分らしい生き方だったのでしょう。そうせざるを得なかったのでしょう。


隊長、あなたは本当に見事に生きたよ。しばらくゆっくり眠って、またこの世に戻っておいで。世界はあなたを待っているから。私はあなたと一緒に試みたことを、この世でしっかりつないでいきましょう。あなたが戻ってきたときに、あなたが種をまいた「場」があちこちに花ひらいているように。もっと生きやすい世界になっているように。


隊長、今はとにかくゆっくり眠ってくださいな。


おやすみ、優子隊長。



 お久しぶりです。片岡慎泰です。とうとう「一番座」という決まり文句が使えなくなってしまいました。


 当時、庶民には決して許されなかったであろう、ふたりの「自由結婚」がかない、新婚時代は幸せだったようです。しかし、われらが凹天とたま子の蜜月は、「長くは」と表現していいのか分かりませんが、続きませんでした。
 まず、貧乏生活です。当時、間借りが普通だった時代に、凹天は愛妻のため、無理をして家を購入したのでしょうか。


 「此間約七年間は私にとつて一生忘るゝ事の出來ない苦悶苦闘時代でありました。中にも牛込山吹町の一間の家(間借りに非ず)時代は私に何を教へたか、夫婦二人が食つて行けない。新聞社からは首になる。雑誌からは一度で斷られる泥棒!泥棒したくても體が動かない」。


 そして、長男矩夫の早逝です。これがたま子の心にどれだけ負担になったことでしょうか。凹天は、次のように記しています。


 「子供が生れたが、遺傳が又感染して感染して病死する迄醫者に掛りづめ、南京虫のために死を早める。子供が死んだ時前川千帆君が來られ『凹天の涙を生れて始めて見た』と誰やらに話したことがあつた」。





 前川千帆(まえかわ せんぱん)は、幸内純一(こううち じゅんいち)と一緒に日本初期のアニメーション映画を製作した記録があることから、改めて考察する必要がある人物です。


 現代は子どもを生まないとは「けしからん」という発言で、ネットで炎上する時代。しかし、当時は、子ども、しかも最初が男の子ということは、家族親戚一同大きな喜びに包まれていたことでしょう。


 凹天の病気が伝染して、たま子は、身体が弱くなったのでしょうか。それとも、元々、身体が弱かったのかもしれません。そして、その後の妊娠と出産。そして、待望の息子の死。凹天自身も「遺傳性」の病気で、貧血で何度も倒れています。この病名について、現段階の調査では分かりませんが、凹天の持病だったらしく、それがたま子に移り、夫婦とも何度も貧血で倒れ、疲れ果てていたようです。


 「此間約七年間は私にとつて一生忘るゝ事の出來ない苦悶苦闘時代でありました。中にも牛込山吹町の一間の家(間借りに非ず)時代は私に何を教へたか、夫婦二人が食つて行けない。新聞社からは首になる。雑誌からは一度で斷られる泥棒!泥棒したくても體が動かない、妻が或工場の女工に務めたが一週間で腦貧血を起し二人倒れる」。


 そこに日本初のアニメーター職業病としての失明。前回記しましたが、実際のところは分かりません。しかし、目に異変が起きたのは確かです。これが原因で、赤十字病院(現・日本赤十字社医療センター)に入院します。


 それでも、われらが凹天の趣味が、映画と旅行という記録を考え合わせると、ひょっとすると、時には、一緒に出かけたこともあったかもしれません。もっとも、当時の夫婦の状況や、時代背景を考えると、妄想に近いのですが。



帝國探偵社『大衆人事錄』第十四版(昭和17年)
帝國探偵社『大衆人事錄』第十四版(昭和17年)


 なお、日本で二番目のアニメーター職業病は、近藤日出造(こんどう ひでぞう)です。この記録が、映画アニメーション史において、これまで、丹念に調査されていなかったのも不思議で仕方ありません。


 近藤日出造は、新聞の広告で、東浦漫畫映畫制作所が、「青年漫畫家」を募集しているのを見つけます。漫畫映畫とは、アニメーション映画のことです。世の中は、昭和恐慌の影響がまだ残っていて、大変な時期でした。近藤日出造は、消化器系の病気と軽い肋膜炎のため一旦帰郷し、再上京した直後でした。


 一平塾出身というのが、就職の大きな決め手になりました。月給は、住み込み、食事付きで5円。とりあえず、寝食が確保されて、近藤日出造は、一安心。一平塾同期で、一番仲の良かった矢崎茂司(やざき しげし)を誘って、入社します。


 東浦漫畫映畫制作所は、名前はそれらしく聞こえますが、実は、髪結いの亭主の道楽でした。


 「こうして矢崎と巣鴨に通いながら、髪結いの二階では、『長屋の花見』を完成させた日出造は、第二作『動物のオリンピック』に取りかかった。上野の動物園に行って、白熊を熊に見立て、鷺を烏と見立てて原画を書きまくっているうち、毎朝起きると、眼が真っ赤に充血していて、とめどもなく涙が出るようになった。洗面器に眼をひたして冷やし、一時的な糊塗とした」。


 「暗い所はまだいいが、太陽の直射の下では眼もあけていられないこの眼病は、結膜炎と診断された」。


 「曇りガラスを通すとはいうものの、三十センチ下から二百触光の電球の強烈な光をうけて、絵を描き続けたための眼病である」。


 この記述から分かるように、近藤日出造は、われらが凹天とまったく同じ「切り抜き法」で、目を痛めました。



切り抜き法


 この記録が、日本アニメーション映画史上重要なのは、横山隆一(よこやま りゅういち)のアニメーション映画作品の謎に、現段階でひとつのヒントがふくまれているかもしれないからです。


 それは、1942年3月15日に封切りされた『フクちゃんの奇襲』。映画には横山隆一のクレジットがあります。しかし、この映画の発表当時、横山隆一は、ジャワ(現・インドネシア)に従軍中でした。そこから、実際には参加していないなど、いくつかの類推が成り立ちます。このブログでは、アニメーション映画製作の経験があった近藤日出造が加わったという可能性があることを記しておきます。


 この映画の撮影者は、政岡憲三(まさおか けんぞう)ですが、彼の研究書で最も詳しい萩原由加里(はぎわら ゆかり)の『政岡憲三とその時代』には、残念ですが、この映画に関して、さほど記述はありません。



萩原由加里『政岡憲三とその時代』


 近藤日出造は、国策協力の漫画雑誌に手腕を発揮したおかげで、1943年に「大佐待遇」として、4月末から3ヵ月ほど往復飛行機で従軍しただけで済みました。


 そろそろ、二番座に鎮座することもある歳かと思いつつ、擱筆(かくひつ)します。



 後半は、『島を旅立つ君たちへ』など、宮国さんと多くの仕事で関わった野口晶子(のぐち あきこ)さんです。


『島を旅立つ君たちへ』

永遠のオリーブ少女に捧ぐ


野口 晶子


優子さんと一緒にいると、ミラクルで不思議なことがよく起こった。


東京でもそうでしたが、一緒に宮古島に行った時はミラクル率が半端なく、それはそれは楽しい日々でした。


優子さんと一緒に宮古島を訪れた理由は、島の高校生に贈る冊子『島を旅立つ君たちへ』の取材のため。この『島を旅立つ君たちへ』(以下『島旅』と略します)は、優子さんを語る上で避けられません。


この『島旅』で、私はデザインを担当させてもらいました。優子さんからお話をいただいた時、私のような東京のデザイナーではなく、宮古のデザイナーの方が良いのでは?とためらうと、

「宮古の高校生は都会の仕事を見たことがない。都会では色々な仕事があり、その仕事を高校生に見せてあげたい。だから東京のデザイナーに意味がある」。


この言葉を聞いて、優子さんの高校生への深い愛情を感じ、同時に迷いがなくなりました。『島旅』はそのタイトルどおり、高校を卒業すると、そのほとんどが「島を旅立つ」ことになる高校三年生への想いが詰まった一冊に仕上がりました。


しかも、関わった全ての人への贈りもののような一冊に。


もうひとつ強く印象に残っているのが、ダッフルコートの話。優子さんら私たち世代が女子高生だった80年代、『オリーブ』という雑誌がありました。ファッションだけでなく、80年代カルチャーなども紹介する最先端の雑誌で、愛読する少女たちは「オリーブ少女」と呼ばれるほど社会現象的な雑誌でした。


優子さんもそのひとりで、雑誌に映る流行のダッフルコートが欲しくて仕方がなかったそうです。もちろん当時はパソコンや、ましてはネット通販などないわけで、流行りのダッフルコートを手に入れるのは容易ではありません。


驚くのはなんと、『オリーブ』の写真から想像でダッフルコートをこしらえてしまったそう!この辺りは記憶が定かでないのですが、優子さんのお母さまが仕立てたと言っていた気がします。


宮古島で初めてダッフルコートを着たのは優子さんだったのです。

「島の人は、なければ想像して作るしかないから。島にある材料で工夫して」。


そう言って笑っていたけれど、そうか、宮古で起こる数々のミラクル現象の根源は、この想像と工夫「ブリコラージュ」にあるのかもとハッとしました。


ブリコラージュとはフランス語で「周りにあるものを集めて自分で作る」、ないし「そこで作られたもの」、時には「器用貧乏」の意味もあります。でも、宮古におけるブリコラージュは、そんな感じでは説明できません。実際、そのもの以上のクオリティを超えたものが、宮古では多く存在します。


宮古上布などはその代表格でしょう。


宮古での不思議に思えた偶然は、単なる偶然ではなく、実は宮古の人たちの想像と工夫から生まれた必然的な現象だったのです。想像と工夫で実物を超えるというミラクル。


宮古島生まれのオリーブ少女は、その強烈な個性と深い愛情で、台風のようにみんなを巻き込んで、行く先々でミラクルを巻き起こしました。


その一緒に過ごした全て。


ミラクルな時間は私の宝物です。


優子さん!『島旅』に携わらせてくれてありがとう!



【主な登場人物の簡単な略歴】


磯部たま子(いそべ たまこ)1893年~1935年失踪
凹天の最初の妻。詳しくは、第24回「下川凹天の最初の妻 磯部たま子の巻 その1」


宮国優子(みやぐに ゆうこ)1971年~2020年
ライター、映像制作者、勝手に松田聖子研究者、オープンスペース「Tandy ga tandhi」の主宰者、下川凹天研究者。沖縄県平良市(現・宮古島市)生まれ。童名(わらびなー)は、カニメガ。最初になりたかった職業は、吟遊詩人。宮古高校卒業後、アメリカに渡り、ワシントン州エドモンズカレッジに入学。「ムダ」という理由で、中退。ジャパンアクションクラブ(現・JAPAN ACTION ENTERPRISE)映像制作部、『宮古毎日新聞』嘱託記者、トレンディ・ドラマ全盛時の北川悦吏子脚本家事務所、(株)オフィスバンズに勤務。難病で退職。その療養中に編著したのが『読めば宮古』(ボーダーインク、2002年)。「宮古では、『ハリー・ポッター』より売れた」と笑っていた。その後、『思えば宮古』(ボーダーインク、2004年)と続く。『読めば宮古』で、第7回平良好児賞受賞。その時のエピソードとして、「宮国優子たるもの、甘んじてそんな賞を受けるとはなにごとか」と仲宗根將二氏に叱られた。生涯のヒーローは、笹森儀助。GoGetters、最後はイースマイルに勤務。その他、フリーランスとして、映像制作やライターなど、さまざまな分野に携わる。ディレクターとして『大使の国から』など紀行番組、開隆堂のビデオ教材など教育関係の電子書籍、映像など制作物多数あり。2010年、友人と一緒に、一般社団法人 ATALAS ネットワーク設立。『島を旅立つ君たちへ』を編著。本人によれば、「これで宮古がやっと世界とつながった」とのこと。女性の意識行動研究所研究員、法政大学沖縄文化研究所国内研究員、沖縄大学地域研究所研究員などを歴任。2014年、法政大学沖縄文化研究所宮古研究会発足時の責任者だった。好きな顔のタイプは、藤井聡太。口ぐせは、「私の人生にイチミリの後悔もない」。プロレスファンならご存じの、ミスター高橋のハードボイルド小説出版に向けて動くなど、多方面に活動していた。くも膜下出血のため、東京都内で死去。


前川千汎(まえかわ せんばん)1889年~1960年
版画家、漫画家。京都市生まれ。本名は重三郎。父親の石田清七が4歳の時に、亡くなると、母方の前川姓を名乗る。関西美術院『讀賣新聞』で浅井忠、鹿子木孟郎に洋画を学ぶ。その後、上京して東京パック社に勤め、1918年には新聞社に入り、漫画を専門に描き、次第に漫画家として認められる。凹天とは、東京漫畫会時代から、多くの漫画雑誌などで関わる。そのかたわら、木版画を製作、1919年には第1回日本創作版画協会展に「病める猫」を出品している。その画風は飄逸な持ち味で、生活的な風景画など個性的なものであった。川崎市市民ミュージアムでは、2017年の常設展で、凹天、幸内純一とともにポスターに似顔絵が載った。日展や帝展にも作品を出品しており、「日本版画協会」創立時の会員で、同協会の相談役も務めた。1960年、幽門狭窄の手術を行った後、心臓衰弱により死去。なお、葬式での直会の席が、凹天と幸内純一の最後の出会いだった。


近藤日出造(こんどう ひでぞう)1908年~1979年
漫画家。現在の千曲市稲荷山に生まれる。本名は秀蔵。生家は、衣料品・雑貨商を営み、6人兄弟の次男。洋服の空き箱に熱した火鉢をあてて焦がし、絵を描いていたところ、父親から絵を投稿するよう勧められる。『朝日新聞』に入賞し3円をもらう。そこで、上京し、東京美術学校を目指すも、中学校を出ていないため受験資格がないことが判明。後年の負けず嫌いの性格はこの頃から養われた。叔父の親戚に宮尾しげをがおり、「一平塾」に入る。ここで、後の同志となる、横山隆一や杉浦幸雄と出会う。あごがでかいことが、トレードマーク。『東京パック』(第四次)でプロデビュー。1932年「新漫畫派集團」の決起人メンバーのひとり。その後、さまざまな団体の創設に関わる。政治風刺漫画の名手。戦後の二科展漫画部創設時には、横山隆一、清水昆と一緒に選出される。戦後は、対談のホストとしてテレビなどでも名が知られる。1964年には、「日本漫画家協会」初代理事長に。1974年には、漫画家として初めて、横山隆一とともに紫綬褒章を受章。1979年、肺炎のため、江古田病院で亡くなる。


横山隆一(よこやま りゅういち)1909年~2001年
漫画家。高知県高知市に生まれ。実家は生糸問屋。相場の変動で横山一家は没落する。背が低いことが、一生のコンプレックスだった。隆一は、東京美術学校(現・東京藝術大学)を目指したが失敗し、川端龍子学校で学ぶ。同郷で高村光雲の弟子である本山白雲から漫画家になるよう勧められ、漫画家の道に。凹天の弟子である黒沢はじめは投書仲間で、一緒に漫画論を戦わせながら、漫画の腕を磨いた。1932年、近藤日出造や杉浦幸雄などとともに「新漫畫派集団」の決起人メンバーのひとりとなる。あだ名は、きたない話ばかりするので「ウン隆」。同期の漫画家からも一目置かれた、戦前から戦後にかけて、ナンセンス漫画のトップランナー。妹の英子が、近藤日出造の最初の妻。その縁もあり、疎開先は長野県更埴市(現。篠ノ井市)。1936年から『東京朝日新聞』で連載し始めた『江戸っ子鍵ちゃん』の脇役だった「フクちゃん」が人気が出て、「フクちゃん」が主役に。近藤日出造、杉浦幸雄とともに、さまざまな団体や雑誌の創刊に関わる。弟の横山泰三も漫画家として知られる。受賞多数。また、アニメーションの分野でも、1955年に『おんぶおばけ』を制作するなど、さまざまな功績がある。その試写会には、大仏次郎、小林秀雄、三島由紀夫、高峰秀子が訪れるなど、交流関係の広さでも知られた。珍品のコレクターとしても有名。1974年には、漫画家として初めて、近藤日出造とともに紫綬褒章を受章。アニメーションの分野では、ブルーリボン賞や毎日映画コンクール将を受賞。脳梗塞のため鎌倉市で亡くなる。遺品の数々、そして交流範囲の広さは、現在、横山隆一まんが記念館で見ることができる。



【2023/03/21 現在】